かげふたつ

 第Ⅱ相試験、フェーズ2が始まった。フェーズ1と違って治験薬が一種類のみなので総人数はフェーズ1よりは少ない30人だ。このフェーズでは、投与量、投与間隔、投与期間をいくつか試し、最適解を探っていく。試すパターンが多いのでこの相試験は二年ほどかかるだろうか。新薬開発には途方もない時間ととんでもない量のお金が必要になる。それだけのことをしないと薬としての安全性を確かめられないから仕方がないといえば仕方がないのだが。私はフェーズ1同様に服薬指導とモニターへの聞き取り調査だ。地道な仕事だが、これをやらなければ新薬開発には届かない。

 この時点でコロン出血熱の感染速度は当初と比べると格段に低下した。これは感染経路が特定され、予防法が周知されたからであるが、以前として特効薬となるものは開発されていない。今感染している患者に投与している薬では症状の進行を遅らせることが出来る程度で完治には至らない。それらのことが重なってのことか、言語障害らしき症状もあれ以来報告されていない。やはり、ただ熱や痛みでうなされているようなものだったのだろう。


 この治験が始まってから一年が経過した。今のところはモニターに重大な副作用は出ていない。投与間隔によっては頭痛がするという報告もあったが、投与間隔だけの問題ならいくらでも調整は効く。


 ここのところはなかなか休みがとれず、結局佳奈の元へと足を運べてはいない。だが、ひとつ進展があった。ある時、メッセージアプリで佳奈に連絡をしてみたところ、返信こそなかったが既読の表示が出たのだ。それ以来ちょくちょく連絡してみたところ全て既読の表示になった。内心私のことが嫌いになって出会わなくなったのかもしれないと思ったこともあったが、それなら既読の表示もつかないだろう。だが、返信はしてこない。それの意味するところはよく分からなかったが、メッセージアプリで既読の表示がついてくれるだけでも、佳奈と連絡は取れていると思えば嬉しかった。

 朝、目を覚まして昨日寝る前に送ったメッセージアプリを確認して既読の表示を確認してから朝食を取るのが日課に加わった。

 今日もいつも通り会社に行ってモニターに聞き取りだ。前回問題のあった投与間隔を修正して少し余裕を持った間隔で服薬指導を行う。微調整を重ねていくしか出来ないが、噂によると人間の体組織を模したコンピューターモデルが最近出来たらしく、それに成分をモデル化したものを組み込めば、実際にこういった治験をしなくても擬似治験が可能になり、モニターを募集し、副作用などの危険についての説明を何十回としなくても済むと言われているそうだ。とは言ってもまだ実験段階の代物だ。実際に運用できるようになるまではかなりの年月がかかるだろう。まだ出来ていない物に期待したって仕方がない。今日も地道に聞き取りだ。


 一人ひとり、治験を始める前の健康状態を確認し、体調に異常は見られないかを確認する。

 聞き取りを行った五人のうち一人が少し夜の眠りが浅いと訴えたので服薬の時間を少し早めにするように指導した。薬によっては飲むと眠くなるものがあるが、この新薬の場合は成分の都合上その逆、少し目が冴えてしまうらしく、寝る一時間前くらいに飲むといざ寝ようという時にパッチリ目が冴えてベットの上でぐるんぐるん別に苦しいわけでもないのにのたうち回るハメになる。その人はまさしくその案件に苦しんでいた。薬は確かにいま体に起きている不調を治すためものではあるが、それを服薬することによって新たな問題を引き起こすこともある。だからこそ市販のものであれ、病院でお姉さんから渡されるものであれ用法用量に加えて、いつ飲むべきなのか指導を受ける。守らないとそれなりの代償が自分の体に出てくるので薬を作っている側からすると素直に守ってほしい気持ちもあるが、忙しくて飲む暇がなかったり、うっかり忘れて急いで飲んだりということがあるのも分かる。だから医師もそれをきつく叱責することはあまりない。あまりに常習的なら「こらこら、自分が病気だともっと自覚しなさいよ」みたいなことを言われることはあろうが。


「いやぁまったく、あの手の人間が一番対処に困るなぁ」


 資料を纏めながら思わず愚痴ってしまう。服薬指導の際、ある男性が語気を強めに薬の不満を漏らしてくれた。


「なんなんだこの薬は!飲んだら眠れなくなるし、翌日には頭が痛くなってきた!こんなんで本当に直せると思ってるのか!」


 文言通りなら大問題だが、その背景を見れば一目瞭然、そのおじさんは服薬時間を守らず、自分の気の向いた時間に飲むという有様。そりゃあ眠れなくなるし、頭痛はその寝不足が原因だろう。加えて新薬治験の場合あらかじめ副作用等についての説明がされているはずだし、服薬指導に従わなければそりゃあそうなる。そんなことにならないように指導してるのだから。実際、全く同じ投与間隔、用法用量をきっちり守っている模範的なモニターさんである濃い眉毛がチャームポイントのナイスガイ、ハシモトさんは健康そのものだ。怒れるおじさんのように目元にクマが出来てもいない。流石です、ハシモトさん。

 その後なんとか男性の怒りは鎮められたが、さすがに日夜頑張っている同僚達まで貶されたのはこたえた。知らないからっていうのはわかっているつもりではあるが、言われたら「はぁ、そっすか」とすぐに割り切れる人間でもない。何だかんだで人と接することの多い私の仕事では事務的な対応とかが必要なのは分かっているがいかんせんコミュニケーション能力が不足している。


「私に全てを理解出来る、いやさせられるようなコミュニケーション能力があればなぁ」

 と休憩室で愚痴ってみたところ、一緒に昼食を取っていたチャーリー君に「いやそれはもはや呪いカースの類なのでは。あとメガネ曇ってますよ」と冷静に対処された。

 いや確かに理解出来るまでなら良いかもしれない。


「させられる、となるとマズいか。言葉で強制させられるってこの前見たアニメであったなぁ。あとメガネはもう諦めてるから大丈夫だよチャーリーくん。カップヌードルで湯気を立たせるなというのも無理な話でしょ」

「そうですけど、見えてます?」

「見えないよ、何か問題でも?」

「見えないのが問題なのでは・・・」


 半ば呆れ顔た顔をされているが、仕方がない。大丈夫だチャーリーくんよ、見えなくても麺は啜れるとも。


 スマホをいじりながらサンドイッチをもっくもく食べていたチャーリーくんがふとこちらに目を向ける。


「そういやミササギさん、あの話聞きました?」

「あの話?」


 チャーリーくん越しに時計にちらりと眼をやる。まだあと30分以上休みがある。しばらくは休憩室の窓から道路を歩く人々を眺めているといろんな人がいて楽しいなぁとか、あぁ今日は雲ひとつない天気じゃないかなんて思っていたがチャーリーくんの発言で一気にそんな他愛もない感想は吹き飛ばされた。


「言語障害、もしかしたら別の病気かもしれないらしいですよ」

「えっ―――」


 初めにその文字を資料で見た時から漠然とした不安を抱いていた。佳奈のお母さんが言っていた、「何言わずに部屋に引きこもってしまった」という点と、佳奈が一切返信をしない、言い換えれば言葉を発しないことが今までずっと引っかかっていたがもしや、いやしかし―――


「言語障害って感染するものじゃないでしょ」

「そうなんです。だからコロン出血熱が感染拡大を続けているのと同時に言語障害とみられるような症状が見られてもそれは痛みのせいだと考えられていました。コロン出血熱のウィルスは脳にまで回ったという報告もありませんでしたから」

「じゃあなに、それと併発して脳に悪さするウィルスが確認されたっていうこと?」

「いえ、そういうわけでもないらしいですが・・・。すいません、実は僕もよく分かってなくて」

 チャーリーくんが申し訳なさそうに頬をかく。彼の謝るときの癖だ。

「いや、別に謝らなくても大丈夫だって」


 言語障害とは言葉で相手と意思疎通が出来なくなる病気だ。

 私たちは大脳の言語中枢で言葉を認知し、聴覚で受け取ったことばを理解する。これが私がチャーリーくんから「話」を聞いて理解する一連の流れだ。

 そして理解した言葉、状況に応じて言葉を選び出して、声にだして相手に伝える。これが「会話」になる。


 言語障害には二通りのパターンがある。


 一つは音声機能の障害、これは運動言語中枢による指示を発語器官がうまく働かない場合である。いわゆる構音障害だ。

 構音障害は正しい言葉を理解することが出来る。だが、言葉を話す時にろれつが回らなかったり、声が出にくかったりするもので、これは大抵脳卒中か、かなり進行した認知症の人間に見られる症状だ。脳の運動機能の部位の障害によるもので、機能性、器質性、運動障害性、聴覚性のものがある。


 もう一つは言語機能の障害、これは言語中枢の障害で自分が話そうと思った言葉と違う言葉が出てしまたり、聞いた言葉を正しく理解できなくなる場合である。こちらは失語症と言われる。

 失語症は大脳の言語中枢に障害を受けることで起こるため、言葉を聞き取れない、話せない、相手の言ったことを復唱出来ない、文字を読み書き出来ない、物の名前が言えない、計算できないといった障害が現れる。脳血管障害の左半身麻痺と併発するケースや認知症が原因で起こることもある。

 失語症には種類がある。

 前頭葉のブローカ中枢がダメージを受けて起こる「運動性失語」では、言葉の理解は出来るが発語が難しくなる。本人は理解しているのにうまく伝えられないので本人は相当のストレスが溜まり、抑うつ状態になってしまう人もいる。

 次に、「感覚性失語症」。これは耳から入ってきた言葉を感受するまでの経路、側頭葉にあるウェルニッケ中枢という器官がダメージを受けて起こるものだ。言葉の意味の理解が難しく、意味不明な言葉を連ねることが多い。

 次に「健忘失語症」。相手の言うことを理解することも出来るし、流暢に喋ることも可能だが、喚語困難、物の名前がすぐに出てこないために回りくどい言い方をする場合が多い。字をかけるかどうかには個人差がある。

 次に「伝道失語症」。相手の言うことを理解できるが、言葉の一部に言い誤りが多い。文字に関しては漢字より仮名の障害があるという特徴があり、復唱もあまり出来ない。

 そして「全失語症」。相手の言うことはほとんど理解できない。自分に関することならば理解することもあるが、殆どの場合その人にとって慣れ親しんだ言葉、残語くらいしか話すことが出来ない。


 いろいろな症状があるが分かりやすく言えば、構音障害は運動中枢の問題、口や舌など身体の部分を動かせないのが原因で、失語症は言語中枢の問題、言葉を蓄えた脳内辞書を使いこなせず、「これでいいんじゃね」と選んだら「求めていたものと違うじゃん!」という選択ミスが原因で起こるものだ。


 つまり、コロン出血熱のようなウィルス性感染症ではない。人から人へ感染するものではないのだ。加えて、昨日まで健康だった人間が唐突になるものでもない。脳卒中などの大病を患った後か、事故などで脳を損傷した人間に現れるものである。

 これは後に聞いた話だが、コロン出血熱が脳に作用するという結果は得られず、他にウィルスがコロン出血熱の陰で暗躍していたという事もなかった。


「一体どういうことなんだろう・・・」

「さぁ~、分かりません」


 もし本当に言語障害が感染する、なんてことがあったら想像以上の混乱になるだろう。ネットの一部ではもしかしたらすでに話題になっているかもしれない。未だ感染拡大を続けているこの状況でその噂が広まれば惨劇は免れないだろう。なにせ、そのウィルスかかったら言葉を失うのだから。


 斜光に照らされた紙コップのコーヒーをみながら思案していると突然休憩室の扉が勢い良く開け放たれた。


「大変です!」

「ローリーさん?どしたの?」

「何かありましたか」


 この広い会社内を駆け巡ってきたのか、衣服も髪も息も乱れている。相当急いでここまで来たらしく、顔が赤くなっている。


「モニターさんに、モニターさんにっ・・・ぅ」

「落ち着いてって、ほら水飲んで」


 喉がつかえたローリーに水を手渡す。それを一気飲みするローリー。落ち着けるのか、それで。


「ありがとうございます。それでですね、モニターさんが一人倒れました」

「え!?」

「なんと・・・」


 チャーリーくんが立ち上がる。膝が机に少し当たって、私のコーヒーを落としそうになった。危ない危ない。


「おっと、すいません」

「いや大丈夫。それで、誰が倒れたの?まさかあのおじさん?」

「いえ、それが・・・、倒れたのはハシモトさんなんです」


「は?」

「ハシモトさんが・・・?」


 私は自分の聴覚機能を疑った。何故、服薬指導にきっちり従っていたハシモトさんが倒れた?彼の生活習慣に関してもなにも問題はなかったはずだし、持病だってなかった。


「どういうこと・・・?」

「ローリーさん、ハシモトさんと同様の服薬指導についていた他のモニターには何も異常はないのですか?」

「今のところはなさそうですが、もしかしたら・・・」

「また倒れるかもしれない・・・か。すぐに連絡をいれて」

「連絡はすでにしました」

「ナイス、ローリー」


 焦っていたようにみえたがしっかりと自分がやるべきことは理解している。とりあえず、ハシモトさんと同様の投与間隔、用法用量だった人間は他に3人いる。出来ることならすぐに検査しに来てもらおう。


「ハシモトさんのとこに行きたいんだけど」

「あぁ、はい。ハシモトさんは病院まで運ばれました。他の人にも連絡しておきますね」

「ありがとう、頼むね」


 車を走らせてハシモトさんが運び込まれた病院へ向かう。会社からは車で15分ほどの場所だ。すでに搬送先の病院には事情は伝わっているので受付のお姉さんに社員証を見せて案内してもらう。

 職業柄色々な病院へ行くことが多いのだが、匂いがそれなりに似た系列になっている気がする。なんというか、「人を助けるための空間です」っていう感じの匂い。


「ここです」

「ありがとうございます。・・・んん、失礼します」


 喉を整えてからドアをノックする。返事は―――


「はい、どうぞ」


 返ってきたが、ハシモトさんの声ではない。


 部屋に入るとそこにはベットに横たわっているハシモトさんと、傍らに立つハシモトさんのご家族と、医師の姿があった。


「御陵さん、ですね?」

「はい。私、製薬会社GMOの新薬開発を担当しております、御陵由加ともうします」

「拓海は、拓海はどうしてこんなことに・・・」


 ハシモトさんの母親が目に涙をためながら質問してくる。私もそれを聞きたかった。だが、謝らないと・・・


「すいません、それは―――」

「大丈夫ですよ、御陵さん。現在の状態は私から説明しますので」

「ぁ・・・、はい、お願い、します・・・」


 声が震えていたらしく、それを見かねた医師が助け舟を出してくれた。


「拓海さんは今意識不明の状態にあります。臓器系、脳にも特に問題は見られませんでした。加えて拓海さんの健康状態は良好であったとも伺っております。が、顔色が悪いです。恐らく貧血状態にあります。意識不明の原因に関しては私も正直なところ皆目見当がつかない状況にあります。この後も詳しい検査を続けます。分かり次第報告はいたしますので・・・」

「命は、命に別状はないんですよね・・・!?」

「はい、それに関してはご安心ください」

「良かった・・・」


 ご家族の皆さんの緊張が少し解けたようだ。こわばっていた表情も少し和らいでいる。

 医師が私に向き直った。先程の説明のときとは違って、少し問い詰めるような眼をしていた。自分の体に少し、力が入る。


「御陵さん、拓海さんの服薬指導をなさっていたそうですが、経過観察のときに異常は見られなかったのですか?」

「は、はい。拓海さんは至って健康でした。持病もなく、服薬指導もしっかり従ってくださっていましたし・・・」

「その服薬指導は―――」

「えぇ、他のモニターの結果を踏まえての指導でしたので、比較的リスクは少なかったと思います」

「比較的って!どう考えてもそれが原因だろ!」

「っ・・・!」


 ハシモトさんのご家族の一人から叱責が飛んでくる。


「落ち着いてください。新薬開発に伴う治験にはリスクがあると理解し、同意した上でのモニター参加したはずです。彼女を責めるようなことはおやめください」

「でも・・・!」

「落ち着いて、裕貴・・・、落ち着いて。お父さんもそれは理解していたはずよ」

「・・・すいま、せん」


 それしか言えなかった。私は薬剤師失格かもしれない。ご家族を理解させられるような、安心させられる言葉も何も言えず、ほとんど来た意味がなかったんじゃないだろうか。そう思ってしまうほどに、ハシモトさんに対して私は何もできなかった。



 それから、ハシモトさんは目覚めることなく植物人間状態になってしまった。

 フェーズ2からフェーズ3に移行出来るかかどうかは微妙な状態だろう。


 しばらく後、会社に行くと上司から招集された。「責任」を取らされるのだろうか。不安を抱いたまま部屋に入るとビクついているローリー、「おや?」と声を上げたチャーリーくんの他に数人の人間がいた。

 どういう状況か、私が招かれた意図が何なのかを読み取れぬまま部屋に入る。


「来たか。鍵を閉めろ」

「は、はい・・・?」


 何故鍵を閉める必要があるのか。分からないがとりあえず従って鍵を閉めた。


「なんか怪しい雰囲気だね・・・」

「えぇ・・・」


 チャーリーくんも状況をよくつかめていないらしい。というより、この部屋に呼ばれた全員が分かっていないようだ。治験がほぼ停滞して凍結しかかっている今、代表の人間とも呼べる者たちを集めて一体何をするというのか。


 注目と懐疑が集まる中、こってり肥えた上司が皆の前に立ち、昂然と言い放った。

 

「臨床試験を


それは人間を救うための決意表明でもあり、世間への対立を示す言葉でもあった。

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