「彼女」の行方
私は夢まで後一歩のところまでたどり着いていた。
大学三年生のこの夏、私はあの病院でインターン研修をすることになったのだ。
幼いころ、憧れの人が働いていたあの場所で。ようやくあのおねえさんに声が届くくらいの距離にまでは来れただろうか。
「いや、まだまだかな」
まだ学ばなければいけないことはたくさんあるし、むしろこれからだろう。研修は明日から。不安と期待が綯い交ぜになった心の隅にはひとつの疑問が、長い年月を経て蕾から花開きそうになっていたのを私はその時自覚していた。
翌朝、私は通い慣れていた病院へ向かう。今度は私は診てもらう立場じゃなく、診る立場の人間になる。
プログラムの内容は一週間かけての病院見学や、服薬指導、病棟業務や調剤などの見学になる。これらのことからわかると思うが、私は薬剤師を目指している。
病院入口受付に入る。今日はあの日のような雨ではなく、比較的過ごしやすい晴天だ。
かつて身長の低かった私とおねえさんとを隔てていたカウンターの背がこんなにも小さい。
あの日の記憶が匂いと共にやってくる。普段買い食いというか、コンビニとかに寄ることがなかった小さい頃は、病院の売店が何か特別な場所のような気がしてお気に入りだった。今は昔入っていたコンビニが撤退してまた別のグループのコンビニが入っているようだが。
ロビーのチェアも新しいものに変わっているが若干色がくすんでいる辺り、相当な年月が経っていることが窺い知れる。昔と同じ場所で、同じ種類のモノであったとしても、それはあの日見たものとは何もかもが違かった。
「変わったなぁ・・・」
キョロキョロとあたりを見回しながら柄にもなく感傷に浸っていたが、ちらりと目に入ったカウンター横の壁にかけてある時計をみてハッとする。もう少しで時間になる。そろそろ用意しなければ。
一般人の入れない奥まった方へ案内される。入った部屋には私の他に2人、同じく研修生の学生がいた。
白衣を身にまとった目元の彫りの浅い男性がつかつかと奥の通路から歩み寄ってきた。
「君たちが今回の薬剤師研修生かな?よろしくね」
「「「よろしくお願いします」」」
三人の声が重なり、部屋に響く。
「うん、それじゃあ・・・、あーっと、まずは病院の見学から行こうか」
最初は気付かなかったが先生の目元にうっすらとクマが出来ている。医療関係者が忙しいのは知っているけど、こうして目の当たりにするとさすがにちょっと怖気づく。
「さて、じゃあついてきて」
ゆっくりと先導し、歩み始める先生。その後ろをついていく研修生達をみて(私もその一人だが)かつて、おねえさんと歩いたときのことを思い出す。事ある毎におねえさんとの記憶を思い浮かべている自分がどれだけ強いあこがれを彼女に抱いていたかを自覚する。いやぁ、我ながら長い年月恋い焦がれ過ぎな気もしなくもない。
ぶっちゃけるとなかなか不名誉ではあるが私は
昼どきを知らせる鐘の音が外からこっそり、耳朶に触れる。
「さて、ここいらで休憩しよう。各自昼食を取ったあと、さっき見学した1F奥の部屋で病棟業務の見学を始めるから遅れないように。それじゃ解散」
さてと。軽く昼食を取ることにしよう。適当な商品を手にとってレジへ並ぶ。さすがにこの時間帯はなかなか混んでいる。店員さんが若干わたわたしながら商品を次々読み取っている。そんな様子をぼーっと眺めているとふいに横から
「あれ、君は―――由加ちゃん・・・かい?」
唐突に、聞き覚えのある少し低い声が飛び込んできた。
「えっ―――」
「あぁ、そうだ、やっぱり由加ちゃんだ」
「あなたは・・・先生・・・!」
その人は私が昔、よくお世話になった―――おねえさん宛の手紙を渡した―――先生だった。
「お、お久しぶりです!」
「久しぶり・・・、いやぁ大きくなったなぁ」
「はい、おかげさまで」
本当に懐かしむような声と、優しい目。
正直なところ、いつも忙しそうにしていた先生にはなかなか会えそうにもないと思っていたので、ここで出会えたのは僥倖だった。
「今からお昼なんでしょ?よかったら一緒にどうだい?」
「はい!是非!」
「積もる話もあろうさ。ゆっくり話すとしよう。休憩時間は十分にあるんだろう?」
「もちろんです!」
二人で売店を後にし、適当な空いている席を探す。丁度窓際の方に二席空いているようだ。木漏れ日がテーブルに葉の影絵を映し出している。
「よいしょっと。ふぅ・・・、いやぁやっと落ち着けたよ」
「お疲れ様です。先生は昔から忙しそうでしたもんね」
「いやいや、本当は医者が忙しいってのはあんまり良くないんだけどね。今日はやけに忙しかったよ」
「温度差激しいですからねぇ、最近」
「まったくだよ、老体には厳しいものがあるなぁ」
やれやれといった感じで首を横に振る。白衣に白髪交じりの髪で、コーヒーを片手に持ち木漏れ日に照らされているその姿はまるで映画やドラマに出てきそうだ。
「さて、老いぼれの愚痴はおいといてと。どうだい、由加ちゃん。大学の方は」
コーヒーカップから顔を上げ、にやりと笑う先生。
「なかなか大変です・・・」
「はっはっは、そうだろうなぁ。医療関係を目指す人なんて、今はそう多くないし」
「でも、憧れてますから」
「―――、そうか、うん。そうだったね」
一瞬の静寂、先生の顔が少し曇ったような顔をした。
やっぱり、聞きたい。
聞いて、おねえさんに会いに行きたい。
「先生、私はもうおとなになりました。あの人の背中を追いかけて、私はここにいます。もし、今もおねえさんがどこにいるか知っているのなら、教えて下さいませんか・・・?」
周囲の人々の声や音が嫌に大きく聞こえる。
子供の泣き声。/それをあやす大人の優しい声。
かつかつかつ、という規則正しいテンポで鳴り響く靴の音。/囁かな衣すれの音。
入り口の自動ドアが開いて、セミの声が病院内に染み渡る音。/入り口の自動ドアが閉まって、それがかき消されていく音。
そんな音に囲まれながら先生はただ、じっとコーヒーカップを見つめていた。
ややあってから、先生は居住まいを正し、こちらを見据え長い
「―――ごめん」
「え・・・」
放たれたのは、奇しくも佳奈と同じ言葉だった。
「ご、ごめんってなんですか・・・?」
「私は君に、謝らなければいけないことが、・・・ある。私は・・・、私は君が来なくなったことを良いことに自分の謝らなければならないことから逃げていたんだ」
言葉をつまらせながら先生はぽつり、ぽつりとつぶやく。
「も、もしかしてあれですか、今何処にいるか分からないってだけですよね?それなら大丈夫ですよ!おねえさんがはじめにどこに転勤したのかさえ教えてくだされば私がそこから辿っていきますから!今までだってそんな風にしてきたんですもの、それくらい、どうってことは―――」
「由加ちゃん」
「・・・っ、はい」
一言で制される。
そこから、先生の罪の告解が始まった。
「僕は君に嘘をついたんだ」
「うそ・・・?」
「おねえさんは、おねえさんはね。もう、いないんだ。あの時すでに、もう・・・、いなかったんだ」
「それは、どういう・・・」
「亡くなったんだ、事故で。おねえさんは君が『おねえさんみたいになる』と言ったあの日の夕方、交通事故で亡くなった」
「――――――」
なにも、なにも考えられなかった。
あんなに煩かった周りの音さえも、どこか遠い場所のことのような気がした。
見開いたままで乾いた瞳が痛みを訴えても、それさえも自分のことではないようだった。
「こうつう、じこ」
口から譫言のように言葉が力なく放たれる。
それが自分のものだと気づくのに幾ばくかの時間を要した。
「なん、で」
大きく深呼吸をした後、先生が訥々と語り始めた。
「―――不慮の事故だった。あの日の夕方、君と別れたおねえさんは、当時小学生だった彼女の娘さんを迎えに行ったんだ、徒歩でね。彼女が仕事で忙しかったからそうすることで家族との時間を作っていたんだ。よく聞かされていたよ、彼女の娘さんのこと。そして、君が彼女のことをとても好いていたことも」
ゆらゆらと揺蕩うような感覚のなか、私はただ、先生の発する声に耳を傾ける。
「彼女と娘さんが歩道を歩いているとき、車が横から突っ込んできたそうだ。二人は、・・・即死だったそうだ」
「――――――」
「その車の運転手はね、躁鬱病だったそうだ。そして、その運転手はいまも、その事故の影響で植物人間状態で生きている。躁鬱病による注意力散漫の状態にあった彼は、その一週間前に医師に運転許可を得ていた。病気とは厄介なものでね、唐突に発症するときもある。その経緯に加えて、相手は植物人間状態に陥ってしまった。彼女の遺族は何も出来なかった。罪の所在は明らかだが、その器がほとんど壊れてしまったのだから。ひび割れた隙間から水がこぼれ落ちるように、罪を罪として、受け入れられる
なら。
誰を、誰を責めればいいんだろう。
誰を憎めばいいのだろう。
誰を、誰を―――――
「やりきれないよ、本当に。それは彼女の遺族が一番そう思っているだろう。無論、それと同じくらいの気持ちを君も抱いているのだろう。私は・・・、私は怖かったんだ。幼い君が、その、形容しようのない痛みを味わうのが」
「今年もそろそろ、彼女の命日がやってくる。事故現場には毎年、花束が供えられている。君も、その、気持ちを整理するために行ってみるかい・・・?」
何も、言えない。
言葉を忘れてしまったかのように、何も言えない。
「ごめんね、ほんとうに、ごめんね・・・」
先生がひたすらに頭を下げているのを見て、ようやく自分が少し戻ってきた。
「先生は、悪く、ないです。先生は、私を思って、そうしてくれたのですか、ら」
途切れ途切れでも答えなくては。
「先生、場所を教えてください。事故の、場所を」
涙を白衣の裾で拭いながら先生が答えてくれた。
「・・・あぁ、分かった。その場所はね―――――」
5時を報せるチャイムが鳴り響く、昨日より少し涼しい風が吹く夕暮れに染まる街。
沈みゆく夕陽に、アスファルトの道路をじりじりと塗りつぶす私と、街の影。
佳奈とよく通っていたファミレスから私の家の方へ向かう道。横断歩道のその向こう側。
「っ、あぁ・・・。おねえさん、ここに―――」
小学校を背景に橙色に染まる電柱の側には、シオンとゼラニウムの花束と、ヤングドーナツやサイダーなどが道標のように供えられていた。
「―――ここにずっと、いたんですね」
知らなかった。だからこそ、余計に。
ずっと、ずっと、そこにいたのに―――――
影が差した私の足元が、より暗い色にポツリ、ポツリと染まっていく。
人目を憚らずに、ひたすらに、泣き続けた。
街には、いつの間にか夜が訪れていた。
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