進路分水嶺

「私、この大学に行きたいです」

「そうかじゃあ頑張れよ」


 私の進路はこんな感じであっさりと決まった。やっぱり、何にも代え難いモノだと自分の中で吹っ切れた結果でもある。私は医療系の大学に進学することを決意した。模試での結果はあと一歩届かずと言った頃合いまでは来たが、それにしたって足りていないものは足りていないので、そこは頑張って勉強するしか無い。そういう訳だったから私は佳奈を誘って受験まで頻繁に学校か、図書館に通いつめた。


 いざ勉強を始めてみて気づいたのは、自分の家というのはあまりにも魅力的な空間だということだった。何をするにしても集中できない。ちょっと休憩と言ってTVを一時間以上見続けてしまった時は流石にお母さんに怒られた。学校や図書館に行くと、そこは勉強のための空間だと雰囲気で感じた。いつだったか先生が言っていた「勉強は環境作りから」というのはどうやら正しかったようで、周りの人間が、じっと机の上と向き合って勉強をしている様を見ると、なんとなく自分も”やらなきゃ”という気持ちになった。


 そして迎えた受験日当日。私は家を出てからずっとドキドキしながら満員電車に乗って、受験会場へと辿り着いた。周りは全員ライバル。ピリピリとした緊張感が張り詰める中、私は会場奥、入り口近くの席に佳奈がいるのを確認した。相当緊張しているのか、ずっとそわそわしている佳奈に比べると私は比較的落ち着けていたと思う。試験前の事前説明が終わり、いよいよ試験が始まった。会場内に絶え間なく流れ続けるシャーペンの音。問題を解きながら、私はこの風景を俯瞰してみたらどんなモノが見えるかを想像し、英単語を探る脳内辞典の余白に描き出していた。


 たくさんの人が集まって、合図と共に一斉に問題を解き始める。よーい、ドンで秘める闘志を鉛に込めて、解答用紙に答えを書き記す。右にいるチェックの男子の落とした消しゴムの行方なんて我関せず、左にいる茶髪女子の鼻をすする音も知らんぷり。誰もが誰よりも上を目指して、目指す大学は人それぞれなのに全く同じ問題を解き進める。まるで交差点で信号が青になるのを待つ人々のようだ。雑踏の中、人々はそれぞれの目的地に向かう。そこへ辿り着くのには「道」がいる。整備された道、砂利道に、田園を貫く畦道。あらゆる方向からあらゆる道を経てここまで辿り着いた私達は今、信号が青に変わる時を待っている。

 

「172・・・172・・・」


 私の受験番号は172。私はこのままこの先に集る人達の視線の先にあるモノから目を背けて家に帰ってしまいたいような気持ちに駆られていた。修学旅行の時に行った奈良で見た鹿みたいにぞろぞろと集まっている掲示板の方から声が聞こえてくるが、一向にその場所に辿り着けない。人が多くて先に進めないものだから、私みたいにまだ合格発表通知を見られない人はヤキモキしていただろう。前方の人達の悲喜こもごもが、弦のように張りつめた私の精神を刺激する。


 それから5分程経っただろうか。ようやく私は合格発表通知の掲示板の元へ辿り着いた。私はもう合格しようが落ちていようがさっさと事を済まして、心中に垂れ込める暗澹たる灰雲を吹き飛ばしたかった。


「172・・・172・・・」


 視線を彷徨わせ、数字の海をスクロールしていく。ちらりと周囲の人間の顔を覗いてみると、顔を青褪めている子が4人、その場に立ち尽くしていた。そんな結末は迎えたくないものだが果たしてどうだろうか・・・。


 「164、166、167、170、17・・・2・・・!やった・・・!あった・・・!」


 掲示板に張り出された白地の合格通知には、172の数字が確かにそこにあった。確かにあったのだけれど、私の視線は、何度も悴んで赤くなった手で握っている自分の受験番号用紙と、掲示板とをひっきりなしに行ったり来たりしていた。


「やった・・・、やった!」


 ようやく、ようやくおねえさんに追いつける、そう思った。実際にはこれから大学でみっちり勉強をしなきゃいけないが、そんなことは瑣末な問題で、幼き頃の私の小さな手では届かなかった、おねえさんの足元まで、自分の力でたどり着けたのが、何よりも嬉しかった。

 

 発表会場を後にした私は、その後すぐに佳奈といつも通っているファミレスで二人だけのささやかなお祝いをした。佳奈も第一志望の大学に合格していたのだ。ファミレスの席に着いてまじまじと見つめた佳奈の白い頬には、薄っすらと涙の通り道が見えた。


 「はー、ほんと、良かったー・・・」大きく息を吐いて青い瞳を若干潤ませている佳奈。

「さっきからずっと同じこと言ってるよ、佳奈」

「だってー・・・」

「まぁ、二人揃って第一志望受かったのは嬉しいけどね」

「そうだよー・・・。私、もし落ちちゃったらどうしようかと思って不安で不安で仕方がなかったんだから・・・」

「ほらもう目を潤ませないの、無事に終わったんだから喜んでおけば良いんだってば」


 また泣き出しそうになる佳奈になんとかブレーキをかけさせて、ドリンクバーから持ってきたカフェオレで一息つかせる。


「ありがと、由加」

「どういたしまして~」


 私もカフェオレを飲み、平静を取り戻そうと試みる。カップに口をつけると、仄かな甘い香りが沸き立つ精神を落ち着かせてくれた。


 「これから頑張らないとね」

「そうだねー・・・」


 大学に入れたらもう頑張らなくていいなんて事は無いとは分かっている。医学の道となれば勉強する事もたくさんあるだろう。新しい環境に身を投じる事にも不安がなくもないが、今はこの空間に流れる日常を享受していたい。いつかの放課後のよりも少し冷たい夕陽がテーブルの上のカップに淡く反射していた。


「大学に始まっても一緒に遊べるといいね」


 カップを両手で持ちながら佳奈が言った。眼鏡がカフェオレの湯気で少し曇っているのに気づいていないようで私は笑いを噛み殺しながらそれに同意する。



「んん・・・。そうだね、暇がある時とか予定があったら一緒にどっか遊びに行こっ

 か」

「なんて言ったって大学生だもの。旅行とか行こう」


 佳奈の白い頬に亜麻色の髪が優しく触れる。これから訪れる大学生活に心躍らせる佳奈。表情も心なしか明るいものに変わっていた。見ているこちらも感化され、先程抱いていた不安は消え失せ、胸中は新たな生活への期待に満ち満ちていた。

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