おねえさんみたいになりたい

 私は夢を見ている。

 寝かされている私の眼球が脳に送り込んできた情報曰く、真っ白い天井に、真っ白い蛍光灯が私の顔を照らしていた。

 

 私はそれを確認して、思わず

「やった」

 と呟いていた。久々に訪れたボーナスタイム。ここは幼い頃、体の弱かった私がよく通っていた病院だ。

 私は明晰夢を見ることが出来る。そしてこの病院ゆめには私の「あこがれのおねえさん」がいる。ならばやることはひとつ。


「よし」

 

 上半身を起き上がらせてベットから飛び降りるようにしてスリッパに足を差し込む。滑らかな無駄のない無駄な素早さ。

 病院に通い詰めだった私の、誰にも称賛されることのないちょっとした特技。演技を終えた体操選手の様に両手を広げ夢の世界の空気を肺いっぱいに吸い込む。

 鼻をくすぐる、いろんな薬品と、衛生管理の行き届いた病院の独特な香り。確かこの前見たテレビ番組だと匂いって記憶に強く結びつくものなんだっけ。

 

 部屋をでて、病院の白い世界とご対面。そこにも病院の香りはきちんと染み付いている。

 一重に病院の香りと括ってもそこには結構種類があるのを私は知っている。例えば診察室なんかは少し薬品の香りが強め。待合室はいろんな人の匂いが混ざっている。

 私のあこがれのおねえさんがいるのは階段を下りた先にある受付だ。病院入口から見えた外は雨が降っていて、病院の床は訪れる患者や連れ合いの靴底の土で少し汚れている。

 滑らないように注意しながら速歩でおねえさんの元へ。


「おねーさーん!」

「あ、由加ちゃん!もう、駄目でしょ、寝てなきゃ」


 何十回、何百回と聞いた私の大好きな声。ちょっと困ったような顔をしながらも嬉しそうな笑顔を浮かべてくれるおねえさんがそこにいた。


「お話しよーよー」


 私の身体は幼くなっているからカウンター越しにいるおねえさんにぴょんぴょん飛び跳ねながら話しかける。これも、病院に来るたびにやっていたこと。


「えー、今は無理よー。おねえさんお仕事してるんだから」


 と言いながら、おねえさんは壁にかけてある時計をチラッと見る。


「あら、お昼休みの時間ね」


 そうでしょうとも。幼いながらも私はおねえさんの仕事の邪魔にならない時間に遊びに来るようにしていたのだから。


「ならいいよね!」


 心は幼い身体に引っ張られて、口調はあの時の私に戻っていた。


「ふふ、まったく。わかったわ、準備するから少し待っててね」

「はーい」

 

 おねえさんが準備に取り掛かるのを確認した私はすぐそばの受付待ちのオレンジ色の長椅子の端っこに腰掛ける。そこで足をぶらぶらしながら待っている時間は早く来てほしいような、もう少しだけこの待ちわびる感じを味わっていたいような不思議な時間だった。

 おじいさん一人に続いて女の子一人の名前が受付から呼び出された頃、おねえさんがもうロビーに出てきた。

 おねえさんにひょこひょこついていく私はさながらブレーメンの音楽隊。売店にたどり着いた音楽隊は、大勢の観客に迎え入れられる。


「あら、いつもどうもねぇ」

「お世話さま~」

「今からお昼休憩かい、大変だねぇ」


 たくさんに人からの労いの言葉を受けて、恭しく頭を下げて礼を言うおねえさん。


「ありがとうございます。皆さんお元気そうで何よりです」

「ちゃんと食べてる?忙しいからってご飯抜いちゃ駄目よ?」

「あはは、大丈夫です。きちんと食べてますよ」


 色んな人にひっきりなしに声をかけられるおねえさん。せっかく私と一緒に来てるんだからもう少し私とお話してくれても良いのに、とちょっと嫉妬してしまった。そんなむくれ面をしている私に気づいたおねえさんが笑いながら私の手を引く。


「ごめんごめん、そんなむくれないで」

「むくれてなんかないもん」

「おにぎりとか買ってあげるから機嫌を直してよ~」

「お昼ごはん食べてきたから大丈夫だもん。それより、早くしないと時間なくなっちゃうよ」


 おねえさんの休憩時間はとても短い。だからお話をしたい私は早く休憩室へ行きたかった。


「あら、そうね。じゃあ、これにしようかな」


 甘食とサンドイッチ、ペットボトルのお茶を手に取りレジへ向かうおねえさん。会計を手早く済ませて聴衆の波から私達は離れていく。


「はー、一息つけるー」


 ぐんと腕を伸ばしながらのけ反るおねえさん。


「おー・・・」


 同性とはいえ、その豊かさはかなりのもので思わず感嘆の声が漏れ出る。幼いころの私だったら抱かない煩悩を私はバレないように視線に込めていた。


「よし、ご飯食べよ」


 ぐぐんと元に戻って手を合わせるおねえさん。私は昼食は家で食べてきていたはずなので目の前には何もないが、とにかくおねえさんの動作を真似る。


「いただきます」


 サンドイッチを食べ食べ、おねえさんは私に向き直る。


「最近、身体の調子はどう?大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。ちゃんとご飯も食べてるし、学校にだって行ってるんだから」

「そっかそっか、元気になってくれて良かった」


 一口が小さいおねえさんは、サンドイッチをゆっくりゆっくりと食べ進めていく。実に美味しそうに食べるので、昼食を食べたはずの私も少し、お腹が減るような感覚になる。


「ん、やっぱり、お腹すいたの?食べる?」


 じーっと見つめていた私に気づいたのか、おねえさんがもうひとつのたまごサンドイッチを差し出してくる。


「ううん、違うの。おねえさん、とっても美味しそうに食べるなって思ってたの」

「そう?ありがとう」


 休憩室に据えられているちょっと古くさいTVではMCが中継先のコメンテーターの話を真剣な目つきで聞いていた。


「由加ちゃんは、人の良いところを見つけるのが得意なのかもね」

「えへ、そうかな」

「うん、そうよ」

「なら、いっぱいおねえさんの良いところ言ってあげる!」

「ほんと?ありがとう」


 蕾が花開くように、ぱぁっと顔を輝かせるおねえさん。

 あぁ、その笑顔を見たかったんです。でも、出来ることなら―――


「あら?」


 部屋に鳴り響くコール音。私達はいつもこの音がさようならの合図だった。忙しいおねえさんが少し恨めしい。


「・・・そっか。もう、おしまいかぁ」

「ごめんね、いつもさいごまで相手してあげられなくて」


 申し訳無さそうな表情。おねえさんが悪いわけではないのに、いつもこうやって、しゃがみこんで私を抱きしめてくれた。ぬくぬくして、すこし薬の香りがする。それが余計に、おねえさんが病院のモノだと教え込まれているみたいで嫉妬してしまう。それでもおねえさんにはそんな顔をさせたくないから、私はこれまで見た夢と同じように宣言する。


「わたし、おねえさんみたいになる」

「どうしたの、急に」

 目を丸くして驚くおねえさん。

「私、おねえさんみたいなおねえさんになりたい」

「おねえさんみたいなおねえさんってなによ~」


 ふふっと小さく笑みをこぼすおねえさん。春が訪れたたんぽぽのように、一際目立つわけではないけど、そばにいると安心するその笑顔。


「おねえさんみたいになって、おねえさんみたいな仕事をしたいの。どうしたら・・・おねえさんみたいになれる・・・?」

 こうしている間も、おねえさんはずっと私の頭を撫でてくれた。


「そうねぇ・・・。ん、じゃあ今から言うことをきちんと守るのよ。それを守れたらあなたも立派なおねえさんになれるわ。それじゃあ、まずひとつ目に―――」


 おねえさんと私の約束事。

 お母さんの手伝いをすること。困っている人を助けること。食物の好き嫌いをしないこと。規則正しい生活を送ること。健康であること。勉強をちゃんとすること。友達とたくさん遊ぶこと。それから―――


「―――優しい子であること、かしらね。あなたならきっと、約束を守れるわ」


 窓から白い病院の壁にさらさらと差し込む夕陽。溢れんばかりの輝けるものの中においてさえ、おねえさんの笑顔がそれに塗りつぶされることはなかった。


「うん、約束するよ。おねえさん」

「良い子ね。あ、そうだ!そんな良い子にはこれをあげちゃう」


 差し出された手のひらには、さっき売店で買っていた甘食が転がっていた。


「それじゃあ、もう行かなきゃ。頑張ってね、由加ちゃん」

 

 白に。より白に。純白の、私の小さな手では届かないところへと歩んでいくおねえさん。


「うん、さようなら。おねえさん」


 やがて、私もその白に蝕まれ、感覚の一切を遮断された。


 窓に打ち付ける雨音が耳朶に触れる。


「あー・・・。朝か・・・」


 一週間分の報酬はあっさりと終わった。

これの悪いところは影が差したように、寂しい気持ちになってしまうこと。おねえさんは、それだけ眩しいものだった。

あの時の甘食はもう手のひらには残っていないけれど、それでもあの日の感触は私の後頭部に残っている。

おねえさんは色々な人達から愛されていたのだと、今は分かる。誰にでも優しく、笑顔で出迎えてくれるあの姿を追いかけるこの気持は、いつの日か、憧れに変わった。でもそれは、なんだか遠く離れてしまって、もう会えなくなってしまったようで、なんとなく寂しい気持ちにもなる。


「おねえさん、どこに行くか教えてくれればよかったのに」


 私がおねえさんと約束をした数週間後、おねえさんは受付からいなくなっていた。

 お医者さんによれば、別の場所にお仕事にいったらしい。それ以来、約束事を頑張って守ってきたお陰で病院のお世話になることも少なくなった。高校3年生になっても、私はおねえさんに会えていない。


「・・・起きるかー」


 枕元の目覚まし時計によればもうすぐ7時になる。もう少し布団に包まっていたいがこれ以上寝ていたら遅刻してしまう。それに、朝食を作る手伝いとかもしなきゃいけない。おねえさんと会えなくなってしまったとはいえ、約束はきちんと守らなければ。

 眠気眼をこすりながら階段を降りてゆく。お母さんにおはようと声をかけ、洗面台に行き、顔を洗って、台所に立ち、簡単なサラダを作り、トーストを焼き、テーブルに並べ、それを食べて、身支度を整えて玄関へ。


「行ってきまーす」


 時計の針みたいにぐるぐると回る同じような一週間が始まる。


 雨の降りしきる中、通学路を歩いている最中、曲がり角手前に赤いポストを見つけて、お医者さんにおねえさん宛の手紙を出したことを思い出した。その時のお医者さんの顔はなんとなく覚えている。


「ありがとう、由加ちゃん。彼女もきっと、喜ぶと思うよ」


 ちょっと強面のお医者さんが隠し事をしている子供のような表情をしていて、この人もこんな顔するんだと驚いたことを覚えている。

おねえさんから手紙の返信は来なかったが、私のお父さんも仕事が忙しくて手紙を返す暇がないと嘆いていたことがあったので「忙しいから仕方がないか」と割り切っていたから別に悲しくはなかった。

 

 ぴちゃり、ぴちゃりと足音を立てながら学校へ向かう。道路脇の水溜りには自転車に踏まれたのであろうミミズが揺蕩っていた。

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