33/ 炎の行方は炎が決める 1

 安い電球が古びたアパルトメントの一室に光を灯している。まだ日が落ちるのが早い季節で、テムシティの街並みに夜の陰りが差す。


 男の手元に不可思議な緑の光が宿る。秘術<フィア>、と誰かが呼び始めた、神秘の力。人の手を触れさせもせず、それが傷を癒してゆく。黒髪の大柄な男は顔を顰めた。


「いてて、き、気持ち悪いな……この、何て言うんだ? 体の中で骨がくっついていく感覚ってのは」

「医療は専門外だ。これでも極力丁寧にやっている。耐えられないようなら麻酔薬を使うが?」

秘術<フィア>の治療に麻酔使うってのも、締まりねェなあ……」


 エイデンはウィスキーのグラスを煽った。アルコールの力で痛みがぼやけてゆく。シャノとジャックは部屋に居なかった。買い出しとか、情報収集だとか、そのような曖昧なことを言っていたようにグリフィンは記憶している。


 グリフィンの部屋はいつも整然と整えられており、急な来客でも慌てる必要はない。エイデンは質のいいソファのクッションに身を沈める。


「悪いな、本当に……手間かけさせてばっかりだな、オレは」

「違う。私が決めたことだ。君を訪ねたことも。君を探したことも」


 グリフィンは真っ直ぐに仮面をエイデンへと向けた。慰めではなく、本心からの言葉だった。エイデンは記憶を思い返すように口を開く。


「……オレはさ。キミのことが嫌いだったんだよ」


 エイデンは空のグラスに目をやった。焼けつくウィスキーの熱はもう過ぎている。


「キミがオレの所に来た時……嬉しかったんだ。キミがオレを忘れないでいてくれたこと。それと、キミがオレを頼らざるを得ないほどに追い詰められたってことが」


 複雑な心境をエイデンは吐き出す。思慕と嫉視がないまぜになったそれを正しく言い表すことは出来ない。思う程に希望を持ち、思う程に諦念を抱かせた。それは過ぎ去って尚、己の記憶と共にある。傷として。


「そうか」


 グリフィンは手を止めず、それを聞いていた。秘術<フィア>の光は変わらず、エイデンの肌を照らしている。


「……もしかして、気付いてたか?」

「いや……すまない、まるで気付いていなかった……」


 仮面の男のひどく申し訳なさそうな様子に、エイデンは苦笑した。


「ははは、キミは嫌な奴だなぁ」

「う……、本当に面目ないとしか……」

「良いんだ。キミの嫌なところが、キミの好きなところなんだからな」


 秘術<フィア>の光が止んだ。治療が粗方済んだからだ。グリフィンは術杖を置いた。エイデンは俯いた。


「……オレのせいで、とんでもないことになっちまったな」

「いや……遅かれ早かれこうなっていた。ウル・コネリーはフライブレスが私の秘術<フィア>と同じであることを見抜いていた。君が肝心の術式だけは売らず、秘密にしていたにも関わらず、だ。つまりは……君以外にも、秘術<フィア>を裏に流している者……ないしは『者たち』がいるということだ」

「……ヘンリー・トラヴァース」


 ぼそり、とエイデンが一人の男の名を呟いた。シャノが燃殻通りのフライブレス工場から盗み出してきた……本人曰く、借りてきた文書にあった一つの名。偉大なる名。今も尚、科学に携わる者であれば彼の名に頭を垂れる。その存在がこの世から失われても。……否、失われたものにこそ、人は神を見る。エイデンは目を伏せる。


「その名前を下層で――いや下層よりもっと下の燃殻通りで聞くなんてな。まさに叡智の光はどこまでも届く、だ」

「……。問題は、その叡智が誰の手によって届けられたか、だ」


 グリフィンは文書に書かれた六人の名前を見た。いずれも上層企業に関わる者たちばかり。


「分からない。上層の企業人が何故、違法組織と手を組んだ?」

「そりゃあ……理由があるんだろうよ、何か……わからないけどさ」

「彼らは……フライブレスで……秘術<フィア>で何を作ろうとしていた?」

「そりゃやっぱり、新しい武器なんじゃないのか? 実際、あいつらはそう使ってたわけだし」

「そんな筈がない……!」


 珍しく強いグリフィンの口調に、エイデンは目を丸くした。


「それでは、科学である意味などない。殺すだけなら、石一つで事足りる。殺すだけなら、獣のままで良かった。知と、技術は……出来ないことを可能にするために、不可能に手を届かせるために在るというのに、あれでは――何も救えはしない」


 秘術<フィア>は万能ではなく、無限ではなく。けれど容易く人を引き裂く。緑の光は超常を以て、人の命を奪い、血と肉に変える。燃殻通りで彼らがそうしたように。……そして。その光景を思い出し、グリフィンは仮面の額を抑えた。


「……私も、変わりはしないな」

「おい、グリフィン……」

「……少し、疲れが出てきたな。風に当たってくる。すぐに戻る」


 言うと、グリフィンは背を向け、部屋の扉に向かった。扉が閉じ、階段を上がる音が聞こえた。エイデンは溜息を吐き、ソファに沈み込んだ。


 ◆  ◆  ◆


 凍えるような夜の風がグリフィンの長衣の裾を翻している。アパルトメントのたよりない手すりはすっかり冷え切っていて、指が張り付きそうなほどだ。それもその筈で、月を覆う雲からは、ちらりちらりと雪が降り始めていた。今晩はひどく冷えるだろう。春はまだ遠く、灰色の天気が何週間も続く。


 憂鬱な気持ちで、グリフィンは空を見上げた。薄く天を覆う雲の向こうには、上層都市の煌びやかなネオンの色が見える。栄光なりし機科学都市、その中心。記念すべき第一回万国博覧会が夢見た明日が、今そこにある。グリフィンは空に手を伸ばす。


「……届きはしないな、もう……」


 その手がネオンの輝きに届くことはない。指の先に鮮やかな光が灯っているというのに。黙って空を見るグリフィンの背後に音もなく現れる者がいた。その人間は軋み一つなく錆びた金属階段を上がる。


「――ああ、雪ですか。冷える筈ですね。帰路では降っていなかったのですが」


 グリフィンが声の元を向いた。銅色の仮面と目が合ったのは、東洋かぶれの奇妙な服を纏った男だ。


「……ムソウ」

「先程戻りました。探偵殿とジャック殿も一緒ですよ。温かいスープを作ってくれるそうです」

「……そうか」


 温かいスープが恋しくないわけではなかったが、グリフィンは動く気になれずにいた。


「先に戻っていると良い。私は暫くここにいる」

「おや、つれない」


 ムソウは肩を竦め、それからグリフィンの見ていたものに気付く。


「ああ――ここからは上層が見えるのですね」


 雲の向こうに見えるぼやけた光を見て、ムソウが目を細めた。


「科学華やかなりし栄光都市、テムシティ。その中枢。いつ見ても美しいものです」

「……そう、思うか」

「ええ、勿論。貴殿は思いませんか」

「私は……今は、分からない」


 ちらほらと、冷え切った手摺に雪の粒が張り付き始める。グリフィンの手を覆う手袋にも、白い結晶がつく。ムソウはグリフィンの傍に立ち、上層都市を見上げる。


「――二十五年前。テムシティは二つの都市に別れました。即ち――と、ですよ」


 三十五年前の第一回万国博覧会より十一年後。二十四年前のその日に、テムシティは今の姿になった。それまで他都市同様だったテムシティは、二層構造の科学都市となった。


「人々はそこで初めて、目にしたのです。進むべき道、辿り着くべき場所。あの一八六四年にかつては曖昧だった空想が、現実に作り上げられた。目に見える形として、本当に辿り着ける場所として。住まう人々も、発達した生活機械も重要ではない。上層都市はそのものであることに意味がある」


 空想の標として、人々は見上げる。

 かつては夢想であった上層都市が現実になった。

 そうであるなら、次の空想も叶うのだと。願いは現実になるのだと、今の人々は信じるのだ。


「今はまだ、下層は置いて行かれたままです。上層の住民が隙間風も入らない完璧な建物に住む一方、下層では凍えて死ぬ者がいる。届かぬ空想ゆめを妬み、憎む者も当然いるでしょう。でも――彼らの目に映っているのは行き止まりの壁ではない。届かぬとしても、確かに存在する空想ゆめを彼らは見ている」

「……だが、その夢見た空想を……人は手にして良いのか?」

「恐れているのですか」

「……分かるのか」

「ははは、分かりますとも。慢心、逸り気、敵意、恐れ。我々には馴染み深いものですから」


 ムソウは奇妙な男だが、その剣の腕前は本物だ。本人は道楽だと言うがその高みに達するまでにどれほどの時間と努力を費やしたのか。その中で見て、交えたものも多くあるのだろう。グリフィンは術杖つえを握った。


「私は……この力を扱えると思っていた。間違いのないように、この力を御せると。だが……現実には、私の与り知らぬところでフィアが広がっている。それに……私自身ですら」


 あの時、大勢の敵に囲まれた時に使った秘術<フィア>。御すための術は正しく組んでいた。だが実際にその神秘の刃が周囲を埋め尽くし、あらゆる敵に向いた時――恐怖を感じたのだ。このまま、自分はこの刃を向けた全ての人間を殺すのではないか、と。


「貴殿は――諦めてしまったのですか?」

「……私は……」

「拙者は剣の道を望み、重ねるべき努力を積み上げてきました。拙者はあくまで武人。科学のことはわかりません。けれど、何かを目指すということは人であれば同じこと。拙者は信じております。己の信じた道を」


 ムソウの指が朱塗りの鞘に収まる刀に触れた。それが彼の道。彼の望むものだ。


「――貴殿の信ずるものは既に折れましたか」


 グリフィンは答えようとした。だが答えが見つからなかった。


「……分からない。だが……信じていたいと思う」


 返事は決められなかった。だが今はそれで十分だろう。グリフィンは手摺から手を離し、ムソウと向き合った。


「――スラー・セジウィークを探そう」


 ◆  ◆  ◆


 テムシティ下層、セントラルエリア。

 下層では数少ない高層の建物が並ぶその一帯に、ウォルトン新聞社の本社ビルもある。本社の一室には革張りの高級なデスクチェアがあり、壁には訪れたものに威圧感を与える大きな絵画がかかっている。革張りの椅子に座った男がふむ、と呟いた。黒豹のような女が肩身が狭そうに卑屈な表情を浮かべた。


「というわけでぇ……収穫はゼロです」

「ふむ。最終報告では一人確保したとありましたが?」


 銀の髪に褐色の肌。埃一つないスーツを纏った美丈夫――ウォルトン新聞社社長、アンドレアス・バードは言った。対するサーシャは悩まし気に答えた。


「それが全くの謎で。私が合流地点に着いた時には、回収した部隊は全員死体だったんですよ」


 とんでもない話だが、事実だった。そこには数人の死体だけが残り、回収した情報――即ち、最重要情報ことエイデン・マッカイは捕らえた檻籠ごと消えていた。あの檻籠はバードボックスの備品だというのに。始末書の提出のことを考えるとサーシャは気が重かった。


「あのー、これ私、これから怒られたりします?」

「いえいえ、怒ってはいませんよ。ただ、所望していた特別報奨は出ませんが」

「それで済むならプラマイゼロですから! 良かったあ」


 ほっと胸を撫でおろすサーシャと対称的に、アンドレアスは真面目な顔で考え込んでいた。


「しかし、我が社の情報収集機械インテリジェンスオートシリーズを二機も退けるとは。上層でも指折りの機械技師の設計なのですがね。随分なやり手です。彼らは貴方が調べていましたね、サーシャ」

「といっても少しだけですよ。結局、ただの貧乏探偵と、その居候としか。マッカイの行方も知らなかったし。もう一回洗いなおします?」

「いえ、構いません。こちらから彼らを追わなくとも、この件の調査を続けていれば、いずれまた対立することになるでしょう。剣士の方は?」

「あのトンチキサムライは調べがついてます。探偵の依頼人で、それなりの金持ち。成金の道楽者ですね」


 ギャレットも、サーシャの言葉に頷いた。


「あれほどの剣技を心得ているなら、道楽も馬鹿にできたものじゃないな」

「やれやれ、困ったものです。この街にはおかしな連中が多いですからね。さて、エイデン・マッカイを取り逃した今、方針を幾らか修正しなければいけませんが」

「いや。収穫はゼロってわけじゃない」


 ギャレットは懐から一本の電子記録媒体を取り出した。オーク材の重厚な机の上に、樹脂製プラスチックケースに入った記録媒体が軽い音を立てて乗った。


「十分、当初の目的の代わりになると思うよ」

「しかるべき証拠、という訳ですね」


 アンドレアスは満足げに口の端を歪める――その姿は獲物を見つけた残忍な鷲のようだった。

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