13/ 虚ろなる騎士 2
「ひ、い――」
誰かが喉を引きつらせた。それは壇近くの老婦人だったかも知れないし、配膳台の横の若い男だったかも知れないし、この場の幾人もの声だったかも知れない。
人々は動けず、叫ぶことも出来なかった。
――恐怖。恐怖がそこにあった。
物理の法則を捻じ曲げて、この場に現れた奇怪な怪物が、死を齎すために存在すると感じているのだ。
<――
鎧の首なし馬が虚ろに唸り、その腕を振った。輝ける火の粉が霧に満たされた空間に散った。非現実の炎を纏う鞭が配膳テーブルを薙ぎ払った! 招待客たちは散り散りに逃げ、辛くも鞭の一撃を逃れたが、吹き飛んだテーブルは一直線に壇上へと向かう! 登壇者たちも他の招待客同様、突如現れた恐怖の形に呑まれ、動けずに居た。ただ一人、動いたのは癖毛の男だった。
「エッタ!」
スラー・セジウィークは硬直していた体を感情のままに動かした。硬直したままのアンリエッタを庇うスラーの背に、飛ばされたテーブルが迫る。――大きな音がした。高級なテーブルが、がらりと壇上へと転がった。スラーたちの前には、スピーチ用の
「セジウィークさん! 無事ですか?」
僅かに息を切らし、探偵は振り返った。
「離れて下さい、けしてアレに近づかないで!」
「あ……アレが一体何か、君は知っているのか?」
<
室内に立ち込める不可思議な霧の中、呪いを零す鎧の首なし馬をシャノは睨みつけた。
「――怪物です」
グリフィンも次いで壇上に上がり、シャノの傍へと駆けつけた。正装姿でも変わらぬ銅色の仮面は
「シャノン、あれが――君の見たモノか?」
「……違う。あの怪物は、私の見た首なし
天井に届かんばかりの巨躯も、古めかしい鎧姿も、馬の脚部も、あの夜シャノが見たそれとは違う。あの時、老人に死を告げた怪異はもっと人の形をしていた。だが今宵現れたモノは違っている。
――ジャックはどうなっている?
初めて一抹の不安が
「シャノン! 参加者の避難を――くっ、この状況では難しいか……人が多すぎる……!」
「……それに、この魔霧の中じゃ無理だ!
シャノは上着を脱ぎ捨てた。翻る布の下から、吊るした
◆ ◆ ◆
会場内にどこからともなく立ち込める霧は深い。探っても探っても、あるはずの出口が見つかることはない。そもそも多くの者が凍りつき、怪異の凶行が迫ってからようやく目が覚めたかのように逃れるのがせいぜいだった。
死。死が、そこにある。
逃れ得ぬ恐怖が、命あるもの全ての背にいつか追いつくモノが、今そこに立っている。
いつかではない。今ここで、死が迎えに来たのだと、告げている。
その中で、会場に居たウォルトン新聞社の記者たちは比較的平静を保っていた。職業柄とでも言ったところか。
「……何です? あれは……」
サーシャはどうにか隣のギャレットへと言葉を発した。恐ろしさがないわけではない。だが危険や恐怖に頬を撫でられるのはこれが初めてでもない。このリバーサイドホテルで一番大きなホール、近代設備の揃った会場に、お伽噺の怪物が居る。最初は目を疑った。だが、彼らはどうあっても、記者だった。
故に、理解した。この事実と現実を見据えた。
己に理解できぬモノが今ここに存在していると、理解した。
「新しく開発されたショー……って訳じゃあ、なさそうですよねえ。残念、
サーシャは軽口を叩き、肩を竦めた。ギャレット・デファーはじっと怪異を見つめている。普段は眠たげなその眼光が、いつになく鋭い。
「……夜の怪物」
ぽつりと上司が零した言葉に、サーシャは眉を顰めた。
「あれが? そんな馬鹿な……社内の人間だってあんな話、信じていないでしょう。あの噂が……本当に、化物の仕業だったと?」
「君は、ありえると感じていた方だろう? サーシャ」
「それは、まあ。そうですけど」
ウォルトン新聞社内で――まことしやかに囁かれる噂がある。
曰く――テムシティ下層にて、夜に蠢く怪物が人を殺し回っていると。誰が言い出したのか、今では解らない。それを見た者も居ない。何の根拠も証拠もない――けれど確かにその噂はあった。
「じゃあ例の……金持ちを殺していたのも――怪物だったってわけですか? 信じがたいですね。ああ、私達、平均所得より良い羽振りですけど金持ちにカウントされますかねえ」
「本物の怪物の実在を証明出来るとすれば――トップニュースだ。アンドレアスは喜ぶだろうな」
「素直に言うと、逃げたいんですけど。バレたら社長に怒られるかなぁ」
静かに、じっと怪物を見つめていたギャレットだったが、サーシャの言葉に、また再びいつもの眠たげな目に戻っていた。
「ああ――逃げるにせよ、フローレンスを置いてはいけないが……」
少し思案してから、ギャレットは面を上げた。
「……でも、大丈夫かもしれないな」
遠くから、何かを打ち合う音がした。見れば、怪物の前で誰かが戦っている。特徴的な動色の仮面と、中性的な灰色の目の若者の姿。
「どうやら――あの探偵さんが解決してくれそうだ」
◆ ◆ ◆
仕立ての良い上着が大理石の床へと落ちた。白いシャツの上に現れたのは、二丁の拳銃。
一つは鉛玉の銃。もう一つは――特別なもの。人知及ばぬ神秘を扱う
そして、グリフィンが扱うのも同様、秘術を行使する隠された技術。仄かに光る
緑の燐光が淡く輝く。立ち込める霧を照らすように。
「
グリフィンは
「あれは……第一段階か? まだ発生して間もない
油断なく
「グリフィン、
「ああ、幾つかある。<人狼>の時のことを反省してな、最低限の術具は持ち歩くようにしていた」
大規模な
「ジャックが戻ってないって時に現れるとはね……二人でどこまでやれると思う?」
「フン、奴一人居なくとも問題などあるまい。結局の所、奴が居ることで変わると言えば、より早く、より楽に片付くというくらいのことだ」
「ジャックが聞いたら怒るだろうなぁ、それ」
「……とはいえ、手持ちの術具も万全ではない。あまり相手をしたくはないが……逃げるわけにも行くまい」
「他の人が居なかったら、逃げたんだけどな」
「同感だ」
軽口を叩き、二人は肩を竦めた。
「だが一つ――幸いなことがある。あの
「
グリフィンは頷いた。その銅色の仮面がフィアの燐光を反射する。
「今なら、奴を止められる」
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