9/ 科学技術会合 2

 冷えた窓硝子の奥には、下層からでも解るほど、煌めく上層のネオンの輝きが見える。透明度の高い薄硝子は下層では貴重なものだ。足が沈むほどの分厚い絨毯も、柔らかな寝具も、心地よい空気を齎す空調設備も、備え付けられた冷蔵庫も全て上層で製造されたもの。


 ここはパークサイドホテルの一室。革製のソファには美しい女が居る。真っ直ぐに伸びた背はすらりと高い。短い髪と涼し気な顔立ちは、一見男のようにも見えるが、見る人が見れば上層で流行りのモダンスタイルだと解る。女は長い時間、待っていた。女は時計を見上げ、そして何度めかの溜息を吐いた。


「スラー、これが最後よ。もう三十分も待たせているわ」


 相手は鏡の前の男だった。男は彫りの深い鼻梁に皺を刻み、難しい顔で鏡を睨んでいた。


「待ってくれエッタ、まだ声の調子に納得がいかない。ンン、ああ――『本日お集まりの紳士淑女の皆さん、この度は私のような若輩者を歓迎して頂き、感謝しています――』」


 アンリエッタの婚約者であるスラーは、鏡に向かってもう何度目かの台詞を言った。

 スラーは天才だが、こういった所は全くもって直る気配がない。恐らく一生変わらぬことだろう。彼女と添い遂げ、年老い、幸福な人生の終わりを迎えるその時まで。


「そんな調子じゃ、人に会うどころか、登壇の時間だって過ぎてしまうわよ」


 アンリエッタは考えた。このまま同じことを言い続けてもスラーは延々と鏡と逢瀬を重ねるだけだろう。何か彼をその気にさせるような言い方を選ばなければ。


「スラー。貴方、になって下さるって言ったでしょう? その約束は?」

「ああ、ああ――そうだ。私は誓った。君に、永遠の愛を捧げると。愛する君に相応しい人間になると」


 大切なことを思い出したように、スラーは鏡から目を逸らし、アンリエッタを見た。得たり、とアンリエッタはもっともらしく言葉を続けた。


「じゃあ、会場へ向かわなくてはいけないわね。折角の晴舞台に遅刻だなんてしたら、また父が胃を痛めるわ。『幾ら才能があるといえど、やはり下層民など信用できん――』なんて言いそうなこと」

「うむ……それは、君に恥をかかせるということだな。それはいかん、紳士たらんとするならば、妻に恥をかかせるなどあってはならない。即ち……私は腹をくくり、会場へと赴くべき、ということだ」


 ようやく決心がついたようだった。スラーはタイを占め直し、毅然とホテルの部屋の扉を見た。


「では、いざ行かん、科学技術会合へと!」


 ◆ ◆ ◆


 ――白。白。白。灰。白。灰。……白。


 硝子のカップに盛られた、野菜と鶏肉のゼリー寄せを口に運びながら、ジャックは会場内を眺めていた。

楽しげに会話する招待客たち……即ち、上層住まいの著名人たちは顔立ちこそ様々だが、豊かな環境で暮らす者が持つ落ち着きと自信、そして善良な社会規範を備えているのが見て取れる。


 大抵は三メートル未満の横断歩道での信号無視くらいしか犯したことのないような顔で、時折、会社の会計や数合わせでも誤魔化していそうな者も居る。……だがいずれも、大凡大きな罪は犯していないだろう。特に殺人などというものは。


 殺人には種類がある。

 戦争による殺人。防衛のための殺人。計画的な殺人。衝動的な殺人。他にも色々と。


 人間の文明において、殺人が罪に問われるようになって随分経つが、衝動的な殺人というのは未だ普遍的なものだ。特に、酔漢が喧嘩相手を酒瓶で殴るとか、肉屋が包丁を持ち出すだとかはよくある話だ。


 紀元前とは比べるべくもないとしても、文明栄えしテムシティ下層においても、カッとなれば何をしでかすか解らないような雰囲気の人間はよく見かける。人付き合いが狭く、教養の浅い田舎であれば尚更だ。


 人も動物である以上、己の物理的、ないし感情的な利益を守るために暴力を振るうことは、生まれ持っての機能しゅだんの一つだ。現在に至り、人間という種は平和や友愛を歌い上げる。暴力を自制する考えを得たのは連綿と続く文明の発展、僅かな利を奪い合う過酷な野生生活からの脱出を果たした成果といえよう。


 かつては近隣の集落すら敵であった。今や遥か彼方、新大陸に住まう者すら隣人となった。人々は仲間だと認めあい、武器を納めることを知った。


 それでも――原始的欲求に身を委ねる者は依然として存在する。


 他者を貪り、己の生存のみを至上とする。

 その場の衝動ではなく、明確な意志の下、それは行われる。金銭、土地、恋人、役職、快楽――自己の利益のために、他者を『消耗品』『障害物』と断じる。


 ジャック自身もその類いの人間であり――故に、同類というものは一目で解る。

 こいつはろくでなしだ、と。


(……といっても、さっきからマトモな奴しか目につかねえけどな)


 空になった器を給仕に渡し、肉巻きマッシュポテトを取る。


 路上で暮らす心配もなく、家族があり、人生の目的を持つ人々。自分が明日にも不慮の出来事で死ぬかも知れないとは考えもしない人々。普段ならばだが、今日は事件のことで皆不安げな様子だった。


 裕福層を狙った殺人。裕福層かれらが狙われる理由はいくつかある。金銭目当ての強盗。怨恨からの殺人。だが強盗ならば奪われた金品について新聞が報じるはずだ。だとすれば怨恨。もしくは豊かに暮らす者たちへの義憤か。何にせよ、ろくでなしであることは間違いない。真っ当な人間が被害者の首を切り落としたりはしない。


 だが――もしも。もしも本当に犯人が、首なし騎士ならば?


 ジャックは思い返した。首なし騎士を探して欲しいと依頼した、あの突拍子もない奇妙な東洋かぶれの男のことを。下らない噂話であろうと、あの男の言葉は真剣だった。ジャックは柔らかなマッシュポテトを飲み込んだ。


「……まあ良いさ。首なし騎士が出ようが、やることは変わらない。俺に殺せないものはねえからな」


 ジャックは徐に恰幅の良い男の方を見ると、その横にあるケーキの並んだテーブルへと歩き出した。


 ◆ ◆ ◆


「……シャノン、まだ相手が来る様子はないのか? よもや、あの悪辣な男に騙されたのではなかろうな」

「その線は否定出来ないけど。さっき返信があったから、そろそろ来ると思うんだけど――」


 会場に入ってから随分と時間が経った。依頼主は依然姿を現さず、ジャックも立食から戻って来ない。恐らくジャックの方はこれ幸いと仕事から抜け出し、上層の料理人が手を掛けた料理を一人で楽しんでいるのだろうが。


 シャノが入口の方へと首を伸ばした時だった。


「やあやあ! 君が探偵殿かね!」


 朗々とした声が響きわたり、若い男が足早にシャノの方へと近付いた。

 しっかりとした眉に、自信に満ちた表情。少しカールした豊かな黒髪。明るい緑色の目は大きく、当人の精力的な性質が見て取れた。


 若い男の姿はコネリーから伝えられたそれと一致していた。

 下層製薬企業セジウィーク社の社長子息、スラー・セジウィーク。それが彼の名前だった。


「こんばんは、セジウィークさんですね。シャノン・ハイドです。こちらはグリフィン」

「うむ、ダグの言っていた特徴に一致するな」


 ダグ――即ちダグ・ローウェルはウル・コネリーが表で活動するときの偽名だ。

 スラーはシャノとグリフィンを頭の先から爪先まで観察し、それから繰り返し首肯して、納得の表情を浮かべた。


「成程、間違いはない。では紹介しよう、探偵殿……ハイド殿が良いかね?」

「どちらでも、お好きにして構いませんよ」

「では探偵殿! ダグから聞いてはいるだろうがね、こちらは私の婚約者のアンリエッタ・アダムスだ」

「こんばんは、探偵さん。今晩は宜しく頼むわね」


 スラーの横で、女が微笑んだ。整えられた短い髪に切れ長の目。愛らしいと言うよりも凛々しい雰囲気の女だった。だがけして粗雑ではない。アンリエッタは教養のある家庭で育った者らしい聡明さを備えていることが見て取れた。


「ごめんなさいね、すっかり遅くなってしまって。スラーったら拘りだすと聞かなくって、ずっとスピーチの練習をしていたのよ」

「いや、すまないすまない! だがもう完璧だ。今後は君を煩わせたりはしないよ」

「スラーはいつも同じことを言うのよ。探偵さんも信じては駄目よ」

「むむ、厳しいな……」


 スラーはカールした黒髪を掻いた。アンリエッタとは対照的な少し跳ねた癖毛が揺れた。


 人並外れて物事に集中し、反面、他の物事――時間を守ることや、身だしなみ――に綻びが出る。このいかにもな研究者気質の男、スラー・セジウィークとその婚約者こそ今回の依頼人だった。


 スラー・セジウィーク、二十五歳。

 下層中流家庭の育ちで、大学在学中に上層の機械産業企業の目に留まる。卒業後はその才能でたちまちのうちに会社の業績を上げ、やがて上流家庭の一人娘、アンリエッタ・アダムスの心を射止めた。順風満帆、華やかな出世街道といえよう。


 スラーのことは当然、上層の科学者たちも注目していた。今年の科学会合において、スラー・セジウィークは主賓の一人なのだ。


「二人も護衛するのは大変でしょうけど、宜しくね、探偵さん」

「ウム、本来ならば本職に依頼するべきなのだが、今はあちこちの客から連絡が入っているらしくてね。君もあの殺人騒ぎのことは聞いているだろう? 非専門分野の君に頼むのは少々申し訳ないが――」


 言葉を切り、スラーは逞しいとは言えないシャノの体格と、運動とは縁遠そうな格好のグリフィンをじろじろと見た。


「失礼だがね、君たち! 本当に護衛が務まるんだろうね?」

「ご安心を。こう見えてわたしも彼も、無作法者の相手には慣れています。それに……そうですね、怪物退治の経験もあります」

「怪物退治! ほう、農村部には人の頭を丸呑みできそうなほどの巨大な狼が出ると聞くな。それは良い、怪物退治の経験があるならば、人の犯罪者など目でもあるまい!」

「ええ勿論です、今晩は安心してお過ごし下さい。何人たりとも、貴方と貴方の大事な方に近付けはしません」

「うむ、では宜しく頼むよ! いや何、気を悪くしたらすまない。私はまだしも、エッタに何かあって欲しくなくてね。だが、君が大丈夫だというのならそうだろう! 何よりダグの紹介だ。頼りにしているとも! なあ、エッタ!」


 アンリエッタは少し考えてから、微笑んだ。


「ええ、そうね――少なくともスラーよりはこの綺麗な探偵さんのほうがずっと頼りになるわね?」

「ハハハ! それはそうだ、私は荒事はサッパリでね、未だに喧嘩では姉にも負ける始末で――いや、情けないことだが!」


 アンリエッタの言葉を、スラーは全く気にした様子もなく豪快に笑い飛ばした。仲睦まじい二人だった。お互いを尊重しあい、愛し合っている。この二人の幸福を阻む無粋者がいれば、即座に叩き出すべきだろう。


「ああしかし、色々と挨拶回りもあってね……あまり物々しい雰囲気は出したくないのだが」

「ご心配なく、ホール内では少し離れた位置にいます。ご歓談の邪魔はしませんよ。ただし、ホールの外に移動する際はすぐ側に同行させて頂きます。途中で涼んだり、身嗜みを直したりと、何かと必要な時はあるでしょうから」

「成程、それはありがたい」


 スラーはシャノの提案に満足したようだった。


「では早速、向かおうとしよう! 構わないね?」

「もう、遅れてきたのはこちらなんだから、あまり急かすものじゃないわよスラー」

「非は認めよう。しかし責任の所在がどこであろうと、事実、時間は過ぎてゆくのだから仕方あるまい?」

「お気になさらず、アダムスさん。こちらは問題ありませんから」

「ああ、もう一人も後から合流するだろう」


 シャノとグリフィンの言葉に、スラーは胸を張り、歩き出した。


「ほら、探偵殿もこう言っている! では行こうじゃあないか!」


 招待客たちが賑わう方へ向かうスラーとアンリエッタの後ろを、シャノとグリフィンもゆっくりと追い始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る