18/ それぞれの射線 1

 ――間もなく夜が訪れる。

 多忙な警察署も、夜になれば人は減る。昼間ちゅうかん勤務の者たちが黄褐色の石壁の建物から、一人、また一人と帰路につく。日が陰るにつれ、街灯のぼんやりとした明かりが、色を濃くしてゆく。


 男は街路樹の下、咥えた安煙草を吐き捨てる。道に落ちた煙草には火の形跡がないが、男は気づいていない。


 ――時間だ。

 大きく黒い鞄のジッパーに触れるキールの手は震えていた。その身を支配するのは恐怖だ。後戻りは出来ない。進むのは恐ろしい、だが止まった所で安寧はない。牙を剥き、口を開けた大食らいの闇が待っているだけだ。


 キールは覚悟する。吐く息が揺らぎ、震える。目を伏せて、リカの顔を思い出そうとしたが、瞼に浮かぶのはやつれた姿だけだ。もうどれだけ経つだろう。よく笑う女だったのに、今のリカは表情を変えない。

 ――大丈夫だ。大丈夫でなければいけない。オレの妻なんだ。オレの家族なんだ。オレの一番大事な奴なんだ。取り零したくなかった。見捨てたくなかった。手を掴んで、離したくない。


草臥れた革靴が一歩、明かりの灯る黄褐色の建物へと踏み出した。


「……オイ? お前、ちょっと待て――」


 大げさに鞄を抱えた奇妙な男を、入り口から出てきた警官の一人が見咎めた。キールはびくりと肩を震わせた。


「お前、何を持って……」

「あ、ああ……」


 キールは鞄を警官に向け、開けたジッパーから差し入れた腕で、中に入った違法銃の引き金を引いた。


「な――――」


 瞬間、黒い鞄の生地を突き破り、緑色の光弾が四方に散った。仄かに輝く緑の光は地面と壁を削り、キールに声を掛けた警官の腕を貫いた。叫び声と共に、警官の片腕が千切れ、夕暮れの中、赤い血が吹き出した。


「アアアッ、あああ……! 誰か……!」


 フロッグズ・ネストで手に入れた違法銃の威力は覿面だった。狙いなどあったものではないでたらめな射撃だったが、キールが見たこともない力で違法銃は警官を撃ち抜いた。

 勢いよく溢れる大量の血液が、真っ赤なスタートラインのようにキールの前に撒き散らされた。汗ばんだ手で違法銃を握りしめ、キールは足を動かし、血のラインを越えた。


 ◆ ◆ ◆


 日は傾ぎ、上空では階層連絡線シティポートの光が煌めき始める。夜が近づき濃くなる影の中、シャノ達は建物の間を走る。


「シャノン、随分裏道ばかり通っているが、大丈夫なのか……!」

「ゴミが多くて悪いけど、この道が一番早い!」


 黄色いシャツの男を手近な通行人に預けた後、彼らはキールの所在を目指した。

 シャノはよれた地図を握りしめ、空き缶やダンボールの転がる路地裏を駆ける。それは廃病院で見つけた地図だ。銃を拾うと同時にシャノはこれも持ち去った。イーストエリアの地図。黒いペンで囲まれた場所が示すのは警察署だ。


「何故キールはここを狙う?」

「……キールは失くした魔術施品クラフト・グッズを探している。なら、魔術施品クラフト・グッズが警察署にあるんだ」

「――証拠品の押収か……!」


 キールが隠れ家にしていたアパルトメントは、遺変<オルト>に襲われた男の死後、警察によって捜査され、粗方のものは押収されていた。その中に、恐らくあったのだ、その魔術施品クラフト・グッズが。キールは共犯の男が狂った時、何も持たずに逃げ出したのだろう。


 細く入り組んだ裏道を、シャノは一切の迷いなく進む。シャノにとって、イーストエリアは鼠や悪党が這う薄暗い道すら、慣れ親しんだ場所だ。警察署の付近は殊更に。――何故なら、かつてはよく通っていたからだ。大切な、かけがえのない人物に会うために。


「っ、ジョンおじさん……!」


 家族を失い、やがて独り立ちした後も、ジョン・ブロディはシャノの世話を焼いた。愚かな若者が転げ落ちぬように手を離さなかった。シャノは彼に、誰よりも恩がある。


 最後の道を抜け、警察署前の街路樹が見えた。

 ――そこは、惨状が広がっていた。石畳は大量の血で赤く染まり、苦痛に顔を歪めた人々が呻いていた。


「っ、これは……」

「……始まってしまっているようだな」


 爆薬で抉られたような壁を見て、グリフィンが重く呟いた。


「酷い状況だな……為す術もなかったのだろう。キールという男、どうやったのか、危険な武器を手に入れているぞ」

「放っておけない、救急車を呼ばないと」

「んじゃ、俺は先に行っておくぜ。救護とか興味ねえしな」


 ジャックは黒い鞄を担ぎ直した。一見チェロケースに見えるそれの中には愛用の武器チェーンソーが収められている。警官達の止血をしながら、シャノは入り口へ向かう背に声をかけた。


「ジャック、すぐに追いつくから殺さないように!」

「ハハハ! 事故らねえように祈っとけ!」


 赤毛の殺人鬼は笑い、弾痕のついた警察署内へ踏み入った。


 ◆ ◆ ◆


 ――夜が来る。夜が来る。

 そこは東の塵ダスト・イースト。遥か高みの天より置き去りにされ、尚人々が息づく都市。弱くも明かりは灯り、日々は回り続けている。


 その暗がりに這い寄るものを、止める者は居ない。


 それに名はなく。人の姿ではなく。命の姿ではなく。在るのはただ、忘れ去られた遺物たち。

 理解みたせよ。理解みたせよ。理解みたせよ。


 それは不幸を撒くものとして存在する。それは侵すものとして存在する。


 そして――それはやがて顕現する。


 ◆ ◆ ◆


 引き金を引く度、淡い緑色の光が壁を、机を、人を破壊してゆく。壊れたがらくたと血飛沫が天井まで届く。

 キールのでたらめな狙いでも、不思議なほどに障害は吹き飛んでいった。警官たちは銃を抜き、キールを取り押さえようとしたが、圧倒的な威力の差にやがて静まり返った。怒号と悲鳴。視界の端で血が吹き出すのが見え、倒れる音に背を向けてキールは走る。


「ハアっ、ハア、ない、ない……! おかしい、絶対あるはずだ、ここにあるんだ! あの仮面女が言ってたんだから……!」


 幾つめかの押収品の棚を崩しながら、キールは呻いた。魔術施品クラフト・グッズ。それが何であるか、キールは知らない。


 女は教えた。それを手に入れれば大金をやると。女は教えた。それはウル・コネリーが手にしていると。

 キールは必死になって調べた。キールはしがない密売人に過ぎない。けれど、例え末端の、そのまた末端でも一応、ブラックドッグに所属していた。だからウル・コネリーの鼻に嗅ぎつけられぬよう怯えながらもどうにか、『何か大事なもの』が『その晩』に『コネリーへと受け渡される』ことだけを聞きつけた。


 キールが報告すると、不気味な仮面の女は言った。

『ほう。ならば、奪って来い』

 驚くキールに女は続けた。

『安心しろ。その夜に、怪物が現れる。そいつが全て、コネリーも、その部下も切り裂いてくれるだろう。だから貴様は魔術施品クラフト・グッズを回収するが良い』

 女は蔑んだ声で告げた。

『それが、貴様が救われる唯一の手段だ』


 女の言う通り、怪物は現れた。狼とも人ともつかぬ、包帯を巻き付けた見るも恐ろしい怪物。隠れて見ていたキールの前で、屈強なコネリーの部下たちが萎れた草木のように倒れていった。

 恐怖と共に、笑みが溢れた。いつも頭を下げ、気分を害さぬよう媚びへつらっている奴らが死ぬのは心底気分が良かった。残念ながらコネリーは逃げおおせたようだったが、キールは彼らが襲われているうちに辛くも品を手に入れた。


 全てが上手くいくと思った。何もかもを成し遂げたと思った。

 しかし――そうではなかった。品を隠した場所に、別の女が現れた。黒い髪。田舎臭い厚手のロングスカートの地味な女。魔女だというその女は言った。『私の魔術施品クラフト・グッズを返しなさい』と。


 キールは恐れた。大金を失うことだけではない。ウル・コネリーに裏切りが露呈するということは、死よりも辛い目に合わされるということだ。泣き喚き、許しを請おうとしたその時――どうしてか、帰宅してから熱を出していたラカムが、狂ったようにキールと魔女、二人に襲いかかったのだ。慌てて逃げ出したキールには、魔術施品クラフト・グッズを持ち出す余裕はなかった。


 そうしている内に、隠れ家に残した魔術施品クラフト・グッズは何も知らぬ警察に押収されてしまった。なのに、それだと言うのに。


「西棟の倉庫も、東棟の倉庫も調べた! どうしてないんだ!? 見落としたのか……!? もう一度西棟に戻るべきなのか……!? だけど時間が……、別のところから応援が来ちまう……!」


 返り血の染み込んだズボンを握りしめ、キールはしゃがみ込んだ。


 ◆ ◆ ◆


 ――カツリと。

 静まり返った廊下に靴音が響く。そこにその男以外の人気ひとけはない。壁には大きな弾痕が幾つも残されている。


 長く赤い髪が、背負った黒いチェロケースと共に揺れる。――ここは二つの建物から成る警察署の内、西棟に相当する。ジャックは鍵の壊された倉庫に入る。既にキールが踏み入った後のようで、押収された様々な貴重な品が乱雑に崩され、床に転がっていた。


 ジャックは一つの小さな紙箱を見つけ、足で転がした。


「あのザコ、調べ方が雑だな。箱の中身くらいよく見ろっての」


 呆れたように呟くと、ジャックは手袋をした手で紙箱を拾い上げ、乱雑に開けた。紙箱に中身はない。キールの仕業ではない。この箱に収められていたものは数日前から消えているのだ。

 開けた箱をジャックは放り出した。後から見れば、全てキールの仕業に見えるだろう。


「――何をしている」


 背後から低い声がした。この数週間で聞き慣れたその声に、ジャックは振り返る。倉庫の入り口に、白紺の長衣が揺れている。黒いフードの奥には表情を伺わせぬ銅色の仮面がある。


「よう、なーんでこっちに来たかねェ」

「……一人で行く、と貴様が言った時。妙に判断が早いように思えた」

「それで、俺が何か別のことをしてるって推測したのか? ハハハ! まさか、俺のことをそんなに理解してくれてたとはなァ! 気づいてやれなくて悪かったよ」

「黙れ」


 グリフィンは術杖つえを構え、仮面の奥からジャックを睨みつけた。


「貴様は、何をしている。今騒ぎがあるのは東棟だろう。貴様にそれが解らない筈がない。何故この西棟に居る」

「あー、言いたくねえ」

「貴様……」


 グリフィンは唸り、手の平に収まる程度の小さな機械を取り出し、ジャックへと向けた。


「うへ、それ出すかぁ」

「そうだ。貴様の首にある爆弾――その起動装置だ。余計な動きをせずに、問いに答えろ」


 ジャックの首には今尚、グリフィンがこの殺人鬼の行動を制限するためにつけたフィア装置がつけられている。グリフィンが親指を僅かに動かせば、装置は直ちに起動し、ジャックの首は吹き飛ぶだろう。


「何故ドロシー・フォーサイスを殺そうとした」

「…………」

「気にかけていなかったなど嘘だ。ネクロクロウ諸共に斬り殺そうとしたのはわざとだろう。いや……寧ろ、ドロシー・フォーサイスこそ目当てだったのかも知れんが。……だが解らない。キールの部屋を開ける時は庇っていただろう」

「ああ、あれか。あれはあの女を庇ったんじゃねえよ。何かあった時、あの位置だとシャノも危ねえだろ」


 ジャックは明朗に答えた。あまりにも素直な返答に、グリフィンは戸惑う。


「納得はいったか? それさぁ、爆破出来ねえなら、下ろしてくれよ」

「……貴様。何を考えている」


 ジャックは迷うように頭を掻いた。


「んー。じゃあ、お前がそのスイッチを押さないよう我慢してる礼に少しだけ教えてやるよ。……ちょっとなぁ、実は別件で依頼を受けてるんだよ」

「貴様――」

「俺を信じないのか?」


 指を動かしかけたグリフィンを、ジャックの緑の瞳が真っ直ぐに見た。いつものようなふざけた調子ではない。まるで本心からそう言ってるかのように見えるその表情に、グリフィンは内心を決断しきれない。


「悪いようにはしねえからよ。ちょっと見逃せ」

「貴様は……どちらなんだ」

「アン? 決まってるだろ」


 ジャックは緊張感なく、ツカツカと歩み寄った。グリフィンが手に持つ起爆装置を恐れる様子はない。


「――お前らの味方だよ」

「それは……」


 グリフィンが口籠った時だった。ジャックの拳が目に捉えられぬ速度でグリフィンの腹に入った。くぐもった声を上げ、グリフィンの身体が床に沈み込む。


「悪ィな、グリフィン! 後で説教だけは聞いてやるからさ!」 


 動かなくなった仮面の男を振り返り、ジャックは荒らされた倉庫を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る