19/ それぞれの射線 2
「チ……ッ!!」
鋭い金属音が響く。
銀色の手甲を弾かれ、ネクロクロウは歪んだ表情で後ろに飛びすさる。ネクロクロウの攻撃を防いだ、長く伸びた金属が、びしゃりと無色の液体に戻った。汚れた床に力を失くした液体が緩やかに広がってゆく。
「そのボトルの中身が、貴様の
「ええ。液体は
ドロシーの指から空のボトルが落ちた。両手にはまだ三つのボトルが残されている。――これがドロシーの本領である。予め精製した特殊な魔術液体を、
「そろそろ消耗してきたのではないかしら。貴方は強いのでしょうけれど。こういった閉所で、私のボトルから逃れるのは難しいわね」
黒く長い髪が揺れた。都会の魔女は赤い液体が揺れるボトルを、ネクロクロウへと突きつけた。
「<水よ。鋭く、細く。その流れは敵を切り裂く>」
魔女の指が赤いボトルを開く。粘度の高い液体がドロリと重力に従って落ちる。それが、ドロシーの紡ぐ言葉に従い、鋭く硬い枝を持つ形へと変わってゆく。
ボトルから溢れた赤くねばついた液体は、ゆるり、ゆるりとその姿を変える。粘ついた不定の形は硬く。揺らぐその身は硬く。魔女の紡ぐ謎めいた呪文に従い、流体は金属めいた物質へと変質する。
何も知らぬ者がその姿を見たならば、その非現実の光景を、冒涜的だと、悪魔的だと叫んだだろう。それ程までに、その
故にこそ。ドロシー・フォーサイスは、この女は魔女である。
液体だったモノは茨のような形を得、ネクロクロウを切り裂かんと襲いかかる!
「――
ネクロクロウの手甲に淡黄の光が収束する。無から形成された
「
二度目の光が走り、赤い茨は砕け散った。粉々になった破片が空中で水滴に変わり、床に降り注いだ。だが、終わりではない。魔女のボトルから次なる液体が零れ落ち、どろりと新たな形を作り上げ、立ちはだかった。
「チッ……!」
「貴方を殺すことが出来なくても、私は貴方をここへ引き留め続ければ良いだけ。貴方の勝ち目は薄いわね」
ドロシーは表情を動かさず、淡々と告げる。
「フフフ、どうかな。貴様のボトルも無尽蔵ではあるまい」
「ええそうね。――でも、まだまだあるわ」
流行遅れの野暮ったいロングスカートがふわりと開かれる。その内側に、ベルトに吊るされたボトルが幾つもある。
――だが、ドロシー自身は気付いていた。ボトルの数は間に合うだろう。問題はドロシー自身の体力だった。魔術薬で無理に起こしたドロシーの体の中には未だ熱が燻っている。
「成程。ではこちらはやはり、貴様を突破するしかないようだな……!」
ネクロクロウが低く構えをとった。ドロシーを抜き去り、ただ一つの出口を目指すために。ネクロクロウの小柄な体躯が、滑空する猛禽のごとく動く。
「<水よ。無数に伸びよ。その流れは全てを捉える>」
ネクロクロウの進路を、無数の蔦のように伸びた液体が阻み、捉えようとする! それを目にして尚、ネクロクロウは速度を落とさない。己の敵を狩り取らんと、手甲が淡い光の粒を纏う!
「
三つの淡黄の刃がざわざわと伸びる蔦を切り裂く! 本体から切断された蔦は力を失い、水に戻ってゆく。降り注ぐ水滴の中、ネクロクロウは駆け抜ける!
「いいえ、貴方が飛び去る速度より、私の液体の方が疾いわ」
ネクロクロウが過ぎ去るより早く、再形成した蔦が伸びる! ネクロクロウに
――その瞬間、ネクロクロウの口元が愉快げに歪んだ。
「え……!?」
ドロシーは目を見張った。確かに捉えた筈の仮面の女が、するりと蔦の拘束から逃れ出たことに。蔦は確かにネクロクロウの右腕を縛り付けた。だが、捉えられたのは右腕だけだった。
ガゴン、と異様に重い音を立て、ネクロクロウの右腕が床に落ちた。
外への扉を走り抜けるその体には、片腕が欠けていた。立ち去る瞬間、ドロシーにはネクロクロウの嘲笑う顔が見えた。呆然と、一人残されたドロシーは立ち尽くす。
「義手、とはね」
床に転がった腕を足で蹴ると、金属の塊のように重かった。
「……はあ。大見得切って逃してしまうなんて。情けないわね、私」
溜息を吐き、ドロシーは薄汚れた室内に座り込んだ。
◆ ◆ ◆
「警部!」
「シャノ……! 御前、なんでここに……!」
「通りがかったら人が沢山倒れてて、警部、まだ勤務してるんじゃないかと思って……」
破壊された刑事課内では、ブロディが肩を抑えて座り込んでいた。きつく縛られた白いシャツには血が滲んでいる。他の警官たちも同様で、大小の違いはあれ、何かしらの怪我を負っていない者は居なかった。
壁や机の一部は吹き飛ばされ、書類がほうぼうに散らばっていた。不幸中の幸いか、危篤者は居なかった。適切な治療をすれば回復するだろう。
ブロディの無事を確かめ、シャノは安堵する。
「犯人は何処へ?」
「シャノ、よせ。御前の手に負える相手じゃねえ。ド素人で、マトモに銃を向ける度胸もねえ……だがあの武器の威力はホンモノだ。死人が出てねえのは日頃の行いの賜物だな」
上の階から大きな音がした。シャノは視線を天井にやる。ガラガラと何かが崩れたように建物が振動し、警官達は身を竦めた。
「……彼の為にも、今止めないと」
「シャノ!」
静止するブロディの声も聞かず、シャノはコートを翻し、刑事課を飛び出した。走りながら、銃の感触を確かめる。腰に下げた拳銃は二つ。どこにでもある一般的な拳銃と、そして神秘たる
先程の音から、襲撃者の向かう方向は把握出来ていた。階段を駆け上がると、やはりそこにも大きな破壊の痕が残されていた。大きく穴の空いた壁はまるで爆弾でも炸裂したかのようだ。
フロアに人の気配はない。しんと静まり返った廊下をシャノは走る。
壁や床の銃痕が、襲撃者が持つ武器の驚異的な威力を物語っている。
――危険の気配がする。
ひしひしと、シャノの全身に緊張感が走った。状況からの推測でも感でもない。予知めいた感覚が痺れるように体を這うのを感じながら、シャノは音の方へと疾走した。
「ない、ない……っ、くそっ、なんで……!」
散乱した部屋の中で、キールは呻いた。床には様々な証拠品や引き出しが散乱していた。血で汚れたそれらを前に、キールは髪を掻きむしった。東棟も西棟も探し尽くした。倉庫も机も漁った。だが、ない。魔術施品がない。
ただ一つの目的が何処にも見つからなかった。キールが騒ぎを起こしてから三十分が経過していた。とっくに他の管轄に連絡が入っているだろう。強力な装備を揃えた増援が来る前に、逃げ出さねばならないというのに、キールは何一つ手に入れられていない。
「ロイス・キール!!」
己の名を呼ぶ声に、びくりとキールは足を止めた。恐る恐る振り返った視線の先に、探偵小説を思わせる、茶色いインバネスコートが翻った。
見慣れない人間だった。中性的な顔立ちに長い髪、真っ直ぐな灰色の目は凡そ警察官には見えない。違法銃を持つ相手へと毅然と踏み出すその若者に、キールは身を竦めた。
「ヒッ、く、来るなっ!!」
キールは肩に下げた違法銃を構えた。引き金は今や彼の指にすっかり馴染んでいた。何度も繰り返したように、キールは違法銃を放った。――緑色の光が、銃口から放たれる。
眩い緑光が警察署の廊下を眩く照らす。壁を抉り、人体を容易く吹き飛ばすエネルギー弾。
――シャノには、それが全て見えていた。
キールの目には起こったことが理解できなかった。まるで銃口が唸る前から全てを予知していたかのように、目の前の探偵風の人間は緑の光の軌跡を回避した。探偵の背後の壁がエネルギー弾を受けて砕け散った。一瞬、その目が赤く光ったように思えたが、もう一度見た時には、その目は平凡な灰色だった。
「お、おまえも化物か……!?」
シャノは無言だった。銃を構え直し、静かにキールを睨む。……怒りはあった。彼が人を傷つけたこと。ブロディを傷つけたこと。けれど、キールが映る視界に、怪異異能による黄金の光がないことに安堵する。
「キールさん。貴方を止めに来た」
相手の動きを警戒しながら、シャノは静かに告げた。
「このままだと、貴方は死ぬ。血と暴力の世界で生きる……そういう生き方もあるし、それが必要とされることもある。……でも、貴方は向いてない。より悪辣な連中に搾取され、利用され、絶望のうちに死んでしまうだけだ。戻りましょう、キールさん。まだ、何とかなる」
キールは縋るような表情をした。それは何に対してか。目の前の探偵にか、垣間見た希望にか。……だが、その手は重い銃を握りしめた。
「……だめだ。駄目なんだ!! 俺はもう引き返せない!!」
多くのものを失った。取り戻せない数多のもの。今彼の手元にあるのは違法銃だけだった。これだけが、キールにとっての希望だ。かつてあったものを取り戻す手段だ。キールは叫ぶ。悲痛に。
「俺にはもう、これしかないんだ!!」
「――――っ!」
キールはシャノへ違法銃を向ける。シャノもまた引き金に指をかけた。キールの目が怯える。
――あの探偵めいた人間は本当に撃つつもりだろうか。奴の銃口が向けられているのは何処だ? 銃を持つ俺の手か? 床に立つこの足か? ……それとも。
冷やりとキールの鼻筋に汗が伝い、額の中央がひりついた。
「あ、あんた、あんたは、撃てるのか」
「…………」
シャノは答えなかった。少なくとも、シャノの指はキールよりも早く引き金を引くことが出来る。
「うううう……ッ、ううう……!!!!!」
キールが顔を歪め、違法銃の角度を上げた、その時。
――カン!
軽い音と共に、シャノの銃が蹴り上げられた。
「……ッ!?」
打痛の走った手首を押さえ、シャノは振り返った。その視界にゆらりと、鮮やかに舞う赤毛が見える。
「悪ィなシャノ。こいつの情報を残すなって頼まれてんだよな。ここで警察にくれてやる訳にはいかねーんだわ」
「ジャック!!!!」
シャノはすかさずもう一つの
「おお、こわ。ホラ、逃げて良いぜ。頑張るんだろ、奥さんの為にさァ。じゃ、捕まってる暇ねえだろ」
「あ、あ、……ぁ、」
新たに現れた男に、キールは混乱する。逃げる。逃げて構わない? この状況から? 赤毛の男の言葉は、悪魔の誘いに思えた。
「これは、お前の為だぜ?」
「……ッ、う、うあ、うわああああッ……!」
キールは叫び、違法銃を抱えたまま、我武者羅にその場から逃げ出した。追おうとするシャノの行く手をジャックが妨害する。見る見る間にキールの姿は階段の下へと消えて行った。
「キールさん! くっ……!」
「ハハハハハハ!! お前にどうにか出来るような俺じゃあないぜ? お前自身が十分、それを知っているだろうが」
殺人鬼『切り裂きジャック』と呼ばれたモノ。
「ジャック、何で……!」
「言っただろ? 依頼があったんだよ。お前がコネリーの仕事を請けたのと同じだ」
「……コネリーからの二重依頼か……!」
「結構動いてたんだぜ? まさか、全く気付いてなかったってこともないだろうに、どうして疑わねえかなァ!」
確かに、ジャックを怪しまなかったわけではない。引っ掛かりを覚えることは幾つかあった。それを問わなかったのは、偏にシャノにそうするつもりがなかったからだった。信じると決めたのだから疑わないと。
「あの犬野郎はさァ、お前に依頼をした裏で、あいつの情報が他に渡らないようにしていた訳だ。お前の動きがよーく解る、俺を使ってな。お前、ホント胡散臭い奴と繋がりがあるよな。もう少しコネは選んだ方が良いぜ?」
「余計なお世話だよ」
「それもそうだな。ま、でも褒めてくれよ。ちゃあんとお前の喜ぶこともしておいたからな」
ジャックはズボンのポケットに手を入れると、小さな
「
「これが何か解るか?」
「なに、って……」
「これはな、
「…………!」
「どうも警察に回収されてたみたいだな。キールの目当てはコレだったってワケだ。で、あいつの手に渡らないように俺が先に預かっておいたんだ。まあ、
灰色の
「で、どうするかな。前の時さァ、お前との決着、つかなかったよな。あの怪異とやらに邪魔をされて」
「…………」
「どうだ? 今ここで、仕切り直すのも楽しそうじゃあねぇか。――まあ」
赤毛の元殺人鬼はチェロケースから武器を取り出した。凶悪な鉄の歯がずらりと光る。
「お前が俺に勝てる状況なんざ、一つもないんだがな」
シャノが
「
力ある声の後、輝ける緑光が廊下を眩く照らした。――大いなる力。
「チッ……!」
ジャックは舌打ちし、襲い来る高純度の
「シャノン……!」
「グリフィン!」
目深に被ったフードと銅色の仮面。紺白の長衣を纏うその人物は、ジャックを追っていたグリフィンである。気絶から回復し、騒ぎの方へと駆けつけたのだ。
「おっと、怒らせた相手が来たな」
「貴様……!」
グリフィンはシャノの前に立ち、
「仕方ねえな。俺もキールをコネリーに引き渡さねえとならねえし、ここまでにしておくか」
「待て! コネリーに渡せばキールは……!」
「殺されるだろうな」
ジャックは楽しげに口元を歪め、廊下の窓に足を乗せた。
「待て……!」
「じゃあな、俺は先に行くぜ!」
チェロケースを担いだジャックが笑うと、するり、とその体が窓枠に乗り出し――そのまま、三階の窓から飛び降りた。駆け寄った二人が、長い赤毛の消えた先を覗きこむ。舗装された道へと着地したジャックが手を振った。
「ハッハア! 止めたきゃ追ってくるんだな、シャノ! 俺があいつを殺す前に、追いつけるならな!」
笑い声はやがて夜闇に溶け、遠くなっていった。シャノは振り返り、走り出す。
「行こうグリフィン! キールとジャックを追わないと!」
「ああ、急ごう」
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