寿司よ、寿司よ 2
平日昼間でも
テムシティは歴史ある都市であり、こうして訪れる観光客は多い。歴史的建造物の多くは上層へと移されたが、下層に残されたものも多くある。政治機能と共に移設された
「お。そういやここにもスシ屋、あるぜ?」
洒落た外装のスシ屋を喫茶店の隣に見つけたジャックが言った。グリフィンの銅色の仮面が無言でジャックを見た。『黙れ』と。
「解った、わーかった。俺が悪かったです」
上層まで足を運ぶのが億劫なジャックはここで済ませられないかと打算した訳だが、グリフィンが許すはずもなかった。
「ジャック、あんまり茶々いれるのやめなよ、後が怖くなるよ」
「元はと言えば、お前がテキトーな飯を出すせいだろーがよぉ」
「それは……うーん、まあ、そうだな」
シャノは一瞬反論しようとしたが、事実を認めた。ジャックは美味しい食事を作る。シャノは棚から出した固形栄養食を置く。この件に関してはシャノに反論する権利はない。
暫く進むと、
三人は籠のような形状の車両に乗り込んだ。ブザー音が鳴ると、鉄の揺り籠は軋みを上げて動き始めた。上層と下層を繋ぐ
低い位置と高い位置を結ぶ連絡線といえば、それと
金属で編まれたロープを伝い、
「ああ、今日は天気が良いから、見晴らしも良いね」
シャノは窓の外を覗き込みながら言った。
霧のない空は、下層の街が遠くまで見渡せた。街の中央を流れるテム川では輸送船が穏やかに進んでいる。この気候であれば、もう少し高い位置になれば、テムシティの外にある田園地帯も見ることが出来るかも知れない。
「うむ。雲が酢飯のようだ」
グリフィンも深く頷いた。
――二十分後、三人の乗った
上層区域を結ぶ路線は
「ここだ」
東洋風に加工された物々しい木製看板の店の前で、グリフィンは立ち止まった。
「開業二十年、近年のオリエンタル・ブーム到来初期にいち早く現れた店で、店主の文化にかける熱意も強く……」
店の説明を始めたグリフィンを、ジャックが白けた表情で見る。
「あのな、薀蓄はいらねーから」
「内装も当初はテムシティ内の輸入品店で揃えていたが、やがて店主自ら現地まで買い付けに足を運ぶようになり、現在の姿になった。品書きは基本のマグロ、サケを中心に、近海で穫れる蟹、海老類にも力を入れ……」
「こ……こいつ止まらねえ……!?」
何時もあれだけ噛み付いているジャックに対し、グリフィンは一切の反論すらせずに淡々と説明を続けている。今日のグリフィンは強靭だった。かつてなく。
「……という訳だ。基礎的なことは理解したな?」
「え、う、うん」
次々とグリフィンの口から流れ出る情報量に押され、幾つかを聞き逃した気がするが、シャノは秘して頷いた。言ってしまうと聞き逃した部分以外に、新たな情報が増えそうな気がしたからだ。
「シャノン。何故このような話をするのかとも思うだろう。だが――食の娯楽とは、味だけではない」
相手の困惑を感じ取り、グリフィンは説明を付け加えた。
「その文化背景。その素材の在り方。料理人の意図と熱意。様々な智は、料理と共に食すことで、食の味を引き立てる調味料となる。そう即ち、食も極めれば――
今から向き合うのはただの食事に非ず。食に秘められた可能性の一端であり、人間が築き上げてきた文化という存在である――。グリフィンの熱意と言葉はそう伝えていた。
しかし。
「う、うん……」
しかし、シャノに出来ることはやはり曖昧に頷くことだけだった。言っている意味は解る。意義の理解も出来る。だが単純にいつになく熱心なグリフィンの様子に引いていた。
ジャックの方といえば話を振られないよう、微妙にグリフィンの視界から外れる立ち位置に移動していた。
木製の格子戸を横に引き、慣れた様子でノレンを潜ると、グリフィンはカウンターに向かう。
「予約を入れたハーバードだ」
――予約。何時の間に?
シャノはジャックを見たが、ジャックは面倒そうに肩を竦めた。
「一つアドバイスしてやる。こういう時は突っ込むな。心の引っ掛かりを流せ。でないとこっちが変になるぞ」
「そう、なんだけどさぁ……?」
あれほど楽しそう(恐らく)なグリフィンを流すのも、シャノには気が引けた。
その時、店員と話していたグリフィンが訝しげな声を上げた。
「――何?」
「申し訳ありません、それで宜しければ――」
「何かあった?」
東洋のシンプルな
話し声を聞きつけてか、調理場からもう一人男が姿を表した。やはり東洋の服を着た白髪の男だった。彫りの深い顔は険しく、その奥に強い情熱を感じさせた。
「あ、ペトロさん!」
若い料理人が壮年の男を振り返った。この男が彼の上司、恐らく店の主だろう。
「ああ、予約入れてくれたお客さんか、アンディから話は聞いたか? すまねえな」
「何があったんですか?」
シャノは尋ねた。ペトロは、調理場から現れた時は気難しそうに見えたが、近くに立つと思慮深く親しみやすい雰囲気だった。
「それがな――ネタが、入荷出来てねえんだ」
見渡せば、昼時だというのにシャノたち以外に客は居ない。料理人と向き合う数個のカウンター席と、座敷が二つあるだけの小さな店とはいえ、この閑古鳥具合は妙だ。理由はこの件であろう。
「本当ならなァ、昼時に合わせて魚が届くはずなんだ。だが、今日は中々配達人が来ない――道路が混んでンのか、と思ってたんだよ。そしたらさっき連絡が入ってなァ……どうも、運輸車両の事故らしい」
「事故?」
「いや、正確には、アレだ。盗まれたんだよ」
事故ならば不運な話で済む。しかし、盗難ならば悪意が絡む。ただならぬ話だった。
「ウチの魚……特にマグロの大半はな、毎日海から届けて貰ってんだよ。北や西の海だったり、大陸の向こうだったり、色々だが……海から地上を走って届くわけだ、特別な運輸車両でな。街に届いてからは、下層を通じて上層のウチまで運んでもらうわけだ」
通常、テムシティでは魚介などの傷み易い生鮮食品は、冷凍状態で運輸される。しかし、上層の最新科学技術の恩恵を受ければ、長距離でも高品質な流通管理が可能である。
「その運輸車両がな、襲撃されちまった。強盗団にな。仕入れたネタは車ごと盗まれた。運転手は大怪我で、それでこっちへの連絡が遅れたらしい。最近、そういう奴らが出没しているらしいとは聞いていたが、ついにウチも被害に遭うとはな……」
店主は怒るというよりも、ただ寂しそうに呟いた。
「悪いなァ、あんたらからの予約を受けた時は、俺もそんなことになってるとは思わなくてな……。ただ、北から仕入れた海老とか蟹、あとタマゴなんかは出せるからよ。それで良いってんなら握るけどな。まァでも、本当ならちゃんと色々食って貰いたいよなァ……」
「成程。事情は理解した」
グリフィンは静かにスシ屋の店主を見た。
「であれば――その件。こちらが解決しよう」
「えっ……!?」「えっ!?」
ペトロは驚いた。シャノも驚いた。
「あんた……本気か……?」
「冗談ではないし、謝礼を要求するつもりもない」
店主は彫りの深い眉を顰め、グリフィンを見た。淡々とした声色は誠実そうに聞こえるが、銅色の仮面からは一切の表情を伺うことは出来ない。
「何でそんなに……」
「――当然。この店の味を口にしたいからだ」
それは真実だった。ただその為に、ここまで来たのだから。店主はグリフィンの言葉に感動し、強く口を結んだ。
店主とグリフィン、二人の間にはこの瞬間、強く深い互いへの信頼が生まれていたが、熱く気持ちを通じ合わせる趣味人同士の周囲には、残りの二人にとって増々近寄りがたいオーラが漂っていた。
「シャノン。構わないか」
「まあ……困ってるって聞いちゃったからね。仕方がないな」
シャノは苦笑した。正直な所まだこのスシウェーブ空間にどう乗れば良いのか判断が付き兼ねているが、困っているならば答えは単純だ。
「集団で繰り返し強盗を繰り返してるってことは、解決しておかないと、今後何度でも起こることだしね。それは頂けないな」
「俄には信じ難いが……たしかにあんたらよ、妙な連中だもんな。」
無謀な提案にもう一人も頷いたことに、店主は更に驚いたが、三人の風貌を見て何かを納得したようだった。しかし、この空気を躊躇いなく無粋にする人間が、この場に一人居た。
「俺は行かねーからな。そこまで付き合ってられるか」
赤毛の男は心底下らないとばかりに腐す。元々半ば強制的に付き合わされて訪れた店である。思い入れも同情も激しいスシ欲もジャックにはない。
「ま。お前らが効率悪く働く分には勝手だからな。好きにするが良いさ、俺はのんびりと待ってるよ」
ジャックは厭らしく口元を歪め、せせら笑った。だが、グリフィンは怒りを見せなかった。普段の彼ならば何かしらの反論をしただろう。怒りを燃料に言葉を重ねただろう。しかし、今は違う。グリフィンは思案し、スシ屋の店主に尋ねた。
「……店主、海老は仕入れてあると言ったな。赤海老を一つ頼んで構わないか」
「あ? ああ、構わねえよ」
突然の注文に驚きながらも、スシ屋の店主は頷いた。数分後――客が訪れない中、それでもカウンター内の冷蔵室で準備されていた赤海老が、二貫一皿で手渡された。
「シャノン。食べてみてくれ」
「え?わたし? 良いけど」
桃色の光沢が艶やかなそれを、シャノは言われるがままに受け取った。若い料理人から渡されたショーユを数滴垂らし、その柔らかな剥き身とライスへ歯を立てる――。
――瞬間、上品な甘みが口内へと広がった。
「ンッ……これ……っ、えっすご……」
そこに在るのは、旨味だけだった。一切の生臭みも、雑味も存在しない、純粋なアカエビの蕩ける味わいが口内に染み渡ってゆく。
「すごっ、甘くて、柔らかい味が広がって……ああっ、口の中でライスと混ざって……ジャック、このスシ美味しい!」
シャノの灰色の目が驚きと感動に見開かれた。そして疑わしげに残ったスシを口に含んだ。それは――やはりかつてなく美味だった。決して幻覚でも偶然でもない、確かな味が喉を通っていった。もしもその時価を知っていれば、落ち着いて味を楽しむことなど出来なかったかも知れない。しかし幸いにもスシを頬張る探偵はそれに気づいて居なかった。
シャノがスシを咀嚼する度に、険しかったジャックの目線が、次第にカウンターで完璧な温度管理によって冷やされているスシネタへと動いてゆく。グリフィンは頷き、ペトロに言った。
「店主。こいつには出さなくていい」
「なっ、グリフィン、てめえっ!」
思わず叫んだジャックに、グリフィンは仮面の奥から冷笑を向けた。
「興味が出たようで何よりだ。味わいたいだろう」
「……ッ!」
威圧するようなグリフィンの言葉に、ジャックは怯んだ。
「――口にして、深く咀嚼し、舌に触れさせてみたいだろう」
シャノは二貫目のアカエビに手を伸ばし、満足気に頬を緩めた。その甘美な様子に――負けた。ジャックは屈した。
「あーーーっ! 解ったよ!!! 手伝えば良いんだろ! 手伝えば!」
ジャックは捨て鉢に叫んだ。
「グリフィン! 奢りの約束、忘れんじゃねえぞ!」
「当然だ。貴様こそ、本物の寿司を口にした時、その身がどうなるか恐れ慄くが良い」
グリフィンは不敵に笑い、
これで、目的は決まった。目指すは下層、強盗を繰り返す高級魚介強盗団を見つけ、退治し、世の中にマグロを取り戻す――。
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