寿司よ、寿司よ 1
「スシ屋が出来るんだと」
雑誌を眺めていたジャックが唐突に言った。本人同様に、長い赤毛が気だるげにソファの上に
澱んだ雲は薄く、湿った風は穏やかに流れ、テムシティにおいては晴れとされるその日。
シャノが探偵事務所と称するその居間は、外の気候のように緩やかな空気が漂っていた。即ち、暇をしていた。
家主のシャノが、まだ熱い珈琲から視線を上げる。ぐしゃぐしゃに皺の寄ったシャツには珈琲の染みがついている。いつも通り探偵業の依頼などなく、いつもと違ってペット相談の依頼すらない。時計の針が刻む音が、貯金が目減りする音に聞こえつつある。
「へえ、近くに?」
「おう、フラットダウン地区だと」
「へー、隣じゃないか。あっちの方、本当にどんどん新しい店が増えてるね」
再開発の進むフラットダウン地区は、学生街を中心に先進的で洒落た店が増えており、イーストエリアで最も勢いのある場所と言って良い。
「それにしても、スシかぁ」
――スシとは、炊いたライスに魚の切り身を盛った料理の一種である。多くの場合は小さく纏めたライスの上に生魚を乗せるが、ライスで魚を包んだもの、生魚ではなく加熱済みの魚を使用するものなど、種類は様々だ。
「ウェストエリアならまだしも、この辺りにスシ屋なんざ珍しいだろ、行ってみようぜ。お前の景気の悪い顔見てるのも飽きたしよ」
「そういう、話は、家賃を払ってから、言ってくれ」
ジャックが支払っているのは食費と衣類などの生活用品代のみである。グリフィンも似たようなものなのだが、彼の場合は壁をぶち抜いて繋いだ隣室を主に使用しており、そちらの家賃を支払っているので強くは言えなかった。
「まあ景気はともかく……わたしは構わないよ。グリフィンは――」
「駄目だ」
シャノはきょとんとした。表情の読めぬ銅色の仮面が静かに面を上げた。
「既に行ってきたがあそこは評価出来ん」
「行ったんだ」
――意外、だった。グリフィンが、開店したばかりの流行店に一人で行くタイプだとは思いもしなかったのだ。
「大したことのない、二流、三流の店だ。はっきり言って、訪れる価値はない。サイドメニューのカレーうどんを頼んだ方がまだ賢いと言える」
「いや別に、ンな高級志向じゃねえから良いんだけど」
ジャックは素直な言葉を口にする。そう、何も高級な食事を探しているわけではない。新しく出来た流行りの、珍しい店を冷やかしに行こう、という話なのだ。
――しかし、それがグリフィンを本気にさせた。させてしまった。
「――いいや違う、貴様は解っていないようだな」
ゆらりと紺白の長衣の裾が舞った。本を置き、グリフィンは椅子から立ち上がった。
「……三割引の肉も良いだろう、五割引の野菜も良いだろう。簡易食も構わん。だが寿司はそれらとは違う。何故なら寿司は、鮮度が命だ」
グリフィンは低く、奥底から響く声で強く断言した。
並々ならぬ強い語気に、シャノは思わず言葉を呑んだ。期せずしてグリフィンが普段の食に不満を持っていることが分かってしまったが、何か言い出せる雰囲気ではない。
「グリフィン……やっぱり昨日の夕飯が野菜煮込みと固形栄養食だったの気にして……」
「お前、俺の居ない日そんなモン出してんのか……?」
ジャックは憐れむような表情を向けた。グリフィンはシャノの言葉には黙秘を貫き、話を続ける。
「故に――あのような。ただシャリにネタを乗せただけのものを――寿司と呼ぶことは許さん。あれらは粗雑な模倣品に過ぎん。新作ロールを作るな、という意味ではない。もっと根本的な、寿司の根幹を支える要素があの店にはない」
いつになく熱っぽく呟くグリフィンに、ジャックが眉をひそめた。
(――おいシャノ、こいつ、面倒くさいぞ)
(なんか、変なスイッチを押しちゃったのは解る……)
まさかグリフィンが東洋の食事に一家言あるとは思ってもみなかった。今までそのような素振りをグリフィンが見せることはなかった。否、食の好みを匂わせる機会に遭遇することすら出来ず、グリフィンはシャノン・ハイド家の生活費に圧迫された食事を耐えていたのだろう。
そして、今その押さえつけられた不満と欲がだくだくと漏れ始めている。
「上層に行く」
――静かに、しかし強く、グリフィンが言った。
上層とは、比喩でも何でもなく、まごうことなき上層のことだ。
「上に……!?
「いやー、あのな、俺もそこまでしては……」
「私が全て持つ」
静かにしかし確かにグリフィンは言い切った。
「え!? 本気で!?」
「交通費も、食費も、一切を気にかけるな」
――大変なことだった。堅物のグリフィンが暴悪なジャックのために金を出すなどと天変地異があってもありえないことだった。
それが、起こった。今ここに、天は割れ地は震えた。
――スシ。一体何者だというのか。
「……へえー……」
普段はグリフィンのどんな言葉にも、多弁に皮肉を返すジャックですら、あまりの事態に二の句が告げずにいた。グリフィンが立ち上がり、白いコートが力強く翻った
「御前達の
「みらいに」
味蕾とは、舌に存在する味覚を感知する細胞のことである。
シャノは当惑したまま、グリフィンの言葉を反復するしか出来なかった。
「出掛ける用意をしろ。本物の寿司に会わせてやろう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます