5/ "探偵"への依頼 3

 天上きらめくネオンの光も、その影には届くことはない。

 ――そこは東の塵ダスト・イースト。繁栄から零れ落ちたる下層都市。


 その暗がりに這い寄るものを、止める者は居ない。


 それに名はなく。人の姿ではなく。命の姿ではなく。在るのはただ、忘れ去られた遺物たち。

 理解みたせよ。理解みたせよ。理解みたせよ。


 それはばら撒くものとして存在する。それは操るものとして存在する。 


 誰かの心が蝕まれる。誰もその死に気付かない。

 襲い来る影の絡みとる腕が、人々に病を齎し、狂わせる。

 

 零れ落ちた命は闇に溶け、戻ることは――二度とない。


  ◆ ◆ ◆


 ゴボゴボと、地を這う下水から音が響く。漂う悪臭は下水の整備不足によるものか、道に無造作に捨てられたゴミの山のせいか判別がつかない。他の区では時々見かけるような、ゴミ山に埋もれて眠る酔っぱらいもここでは見ることはない。死ぬからだ。


 シュガーポット地区はイーストエリアの中でも殊更治安が悪い。かつては街の中央を横断する大河から船で運ばれてきたビートを精製し、砂糖を作る工場が建てられていたことからその名が付けられた。しかし製糖産業が大規模工場化を辿るに連れ、シュガーポットにあった工場は消え、今では"シュガー"と言えば別のものを指す言葉になっている。


 シュガーポットは危険な一方で、詮索をしない場所だ。ロイス・キールの足跡を追って、シャノはここへ来た。ロイスは18で手に職をつけて働き、結婚もしている。立派な若者だ。シャノは昨日、泣きつき縋ってきた若者の顔を思い出す。乱れた金の髪と、無害で素朴な顔。彼のような男が、こんな地区にまで足を運ぶ理由があるのだ。


 薄汚れた安酒場パブの前でシャノは立ち止まった。ロイスの友人によると、最近はこの店に通っていたようだった。

 入り口の階段を上る前に、シャノはわざと手でぐしゃぐしゃと頭を掻き乱し、整えた髪を崩した。場に合わせたスタイルだ。シャノのようなよく言えば小綺麗な、悪く言えば舐められる顔つきにとっては、ささやかな雰囲気作りも重要だった。

 

 二階に上がり扉を開くと、カウンターと二つの立ちテーブルしかない狭い店には、昼間にも関わらず既に数人の客が居た。何人かが一瞬、見慣れぬ余所者を睨んだが、すぐに目を逸らした。

 詮索代として店主に酒を注文する。小銭皿カルトンに金を置くと、皿の下の機械腕アームが動き、自動売上処理機キャッシュレジスターが小銭を飲み込む。やがて金額の計算が終わると、再び小銭皿カルトンに釣りが吐き出され、シャノの手前まで戻った。


 渡された酒を一口飲むと不味いジン&トニックの味が広がった。ここではどんな酒も不味いし、何ならつまみのナッツすらボソボソとして不味い。最近は軽食も注文出来るようになったコネリーの酒場とは全くの別物だ。けれどそれで良いのだ、ここに求められているのは美味い酒ではないのだから。

 酒の味に眉を顰めていると、肩を叩かれシャノは顔を上げた。


「シャノ、久々じゃねえか」

「ああ――」


 それは知った顔だった。安っぽいシャツにほつれたジーンズ、厳つい男の逞しく黒い肌は工業油で汚れている。


「相変わらず綺麗な顔してやがる、どうだ? 金がねえんだろ? 今日こそ一発やっていかねえか。俺はかなり良くしてやるぜ?」


 男は意味ありげに指を動かした。この男は若い男を恋人にするのがシュミだ。会う度に違う男を連れており、どうやってそんなに綺麗な男ばかり見つけられるのかは仲間内でも謎とされている。


「はいはい、ご自慢の息子をちょんぎられたくなかったら、そういうのはプロに頼んでね。そもそも、身を固めたんじゃなかったのか?」

「ガハハ! 他の男とヤッたのがバレてな、あいつとは別れた!」

「まったくもう……」


 酒臭い息を吐く男に、シャノは呆れる。


「でも会えたのは嬉しいよ。調べてることがあってさ」


 見知らぬ者の機嫌を取って話をさせるより、気心の知れた知人から話を聞ける方がありがたい。


「また探偵ごっこか? 面白そうじゃねえか」

「ごっこは余計だ。それに、今回は大きな所からの依頼だよ」

「はあ! お前に!?  浮気調査でも遺失物捜査でも家出人探しでもなく!? そりゃ驚きだ」

「わたしも驚いてる」


 シャノは肩を竦め、懐から一枚の写真を取り出した。


「ロイス・キールっていう男を探してるんだよ。23歳で金髪。以前は彫版師をやっていったって。ここで見たことはないか?」

「ん、んんー? 何だ、お行儀の良さそうな男だな……いや、こいつ見たことあるな、何度かここで……ここらにしちゃ素行がマトモそうだから目立つんだよ。そうだ、話したこともあるぜ、キールだ。確かに名乗ってた。こいつがどうかしたのか?」

「死人が出た現場に居てね。容疑者ってわけじゃないんだけど、姿を消しちゃってさ。今の所、彼しか手掛かりがないから話を聞きたいんだよ」


「なーるほど。そうだな、あいつなら逃げるかもな。小心そうなツラだった。金がねえって言ってたな、まあここらじゃよくある話だが。病気の嫁がいて……最後に会った時は、今度デカい取引をするって自慢げに言ってたな」

「取引? どこと?」

「詳しいことまでは聞いてねえよ、聞かねえだろ、そんなもん。ホントかも解らねえ、ただそう言ってたってだけだ」

「そうか……ありがとう、助かったよ。これ、今日の酒代にしてくれ」

「ハハ、お前は払いが良いから好きだよ、一丁前によ!」


 渡された紙幣を握り、男は機嫌よく酒を煽った。

 他の客にも尋ねてみたがロイスに覚えがある者はなく、ただ鬱陶しがられて終わった。それ以上得られる情報はなかった。シャノはグラスを空にすると、店を出た。


 川から昇る湿気た風がシャノの頬を撫で、冷やす。男から聞いた、『大きな取引』の話。一体誰と何を? ブラックドッグのような闇組織か、企業か、それとも別の勢力か。ロイス・キールはただの被害者ではなく、事件に関係があるのかも知れなかった。"怪異"の関わるこの事件に。


「……病気の奥さん、か」


 汚れた路地を踏んだシャノは、ぽつりと複雑な胸中を吐き出すように呟いた。


 ◆ ◆ ◆


 アパルトメントに一人残ったグリフィンは、自室――即ち壁を壊して繋げた隣室で秘術<フィア>による術具を作っていた。コネリーの齎した情報が事実であれば、今回も強力な力を持つと予想される遺変<オルト>、そしてちぐはぐながらも三人での協力を結んだことにより、今までとは違った手段が必要になるであろう。これはその為の武器の一つだ。

 特殊な加工を施したフィア片石を、三つの小型機械に取付セットする。電源を入れるとフィア片石から動力が巡り、機械の通電照明ライトが仄明るい緑に輝いた。あとは街に出て、を立てるだけだった。


 その時、玄関から強いノック音がした。この場合の玄関というのは、シャノの部屋にある玄関扉のことだ。グリフィンは静かに立ち上がると、客人に応対すべく扉を開けた。

 そこに居たのは、貫禄のある顔つきにやや腹の出た中年体型の男。グリフィンにとっては二日前に会った男。


「ブロディ……殿」


 畏まったグリフィンの言葉に、ブロディはその気の強そうな眉を顰めた。


「殿はいらねえ、ブロディで良い。シャノは居ねえな?」

「ああ、シャノンとジャックは出掛けている」

「だろうな、今日は仕事に行くって言ってたからな」


 今朝方、シャノはブロディからの電話を受けていた。またアパルトメントに訪れるからいつなら空いているか、というものでシャノの都合の良い日を訊いていた。つまり、ブロディはわざとシャノの都合が悪い日を狙ってきたのだ。彼が留守であることを見越して。


 ブロディは部屋に上がると、慣れた様子でキッチンに入り、棚から取り出した簡易インスタントコーヒーの瓶を振った。


「御前は仕事に行かないのか?」

「私は自宅仕事だ。研究職でな」

「ドラッグでも作ってんじゃねえだろうな」

「……!? いや、そんなことはない……!」


 不意に予想だにせぬことを言われ、グリフィンは狼狽えた。ブロディは電気給湯器ウォーターヒーターの給湯ボタンを押した。


「ハッ、その動揺っぷりじゃホントだな。悪かったよ、疑って」


 グリフィンは困惑したまま、疑問を口にする。


「何故シャノンが居ない時に来た……?」

「あいつが居ないから話すことがあるんだよ」


 給湯ボタンを離すと、分厚いマグカップから安いコーヒーの匂いと共に湯気が漂った。


「……昨日の件だが、やっぱり単なる傷害事件じゃあなくて、脳炎か、感染症で頭がやられて気が変になったらしい。まだ特定は出来てないそうだ。ただ気になるのがな、どうも他にもあるみたいなんだよな、似たような症状の奴が。今までは熱病ってことで処理されてる。まだ情報を集めさせてる所だが……ただの単独の症状じゃあなくて、流行り病か、人為的なバイオ汚染・・・・・・・・・の可能性もある。どっちにしろまずい」

「……何故、それを私に言いに来た」


 奇妙だった。グリフィンから見て、ブロディは実直で真面目な警官に思えた。目撃者とは言え、そんな男が無関係の人間に捜査の情報を漏らすなどと。ブロディは少し黙ると、暫くしてから静かに口を開いた。


「これは俺の個人的な行動だ。バラすんじゃねえぞ? 俺の給料が下がる。ただな……俺はシャノが心配なんだよ。あいつは病で父親を亡くしてる。……ちょっと敏感なんだよ、そういう方には」


 ブロディの言葉は少し曖昧で、含みがあった。細かな言及を避けるように。


「俺は、御前らとシャノの関係は知らん。あいつも言わんだろうさ。だからこそ、俺は御前らに言いに来た。あいつが無茶しないようにしろ。あいつは馬鹿だが、足だけは動かすから、この件に何かあるならそのうち気付く。変なことさせるんじゃねえぞ」


 ブロディは強く言い含めるというより半ば脅すように、グリフィンを見た。


「……解った」


 グリフィンの返事を聞くと、ブロディは気が落ち着いたようだった。そしてコーヒーを揺らしながら、ぽつりとぽつりと話を続けた。


「……昔な、一時だけシャノを俺の家に住ませてたことがある。色々あったんだよ。シャノは家族が居なかったし、女房もあいつと仲良くなったから、俺はあいつを家族に迎えても良いと思った。だが、そうはならなかった。あいつはすっかり落ち着いた後、俺たちに感謝して、この部屋に一人で戻った。別に喧嘩した訳でも性が合わなかった訳でもない。ただ、あいつはそれを選んだ。そして、今あいつの側にいるのは御前らだ」


 ブロディはカップの中のコーヒーに目を落とした。泥水色のコーヒーは暗く、カップの内側を浸水の跡のように汚している。


「あいつを一人にするなよ」


 呟いたブロディの背からは普段の頼もしさはなく、歳相応の影を落としていた。

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