4/ "探偵"への依頼 2

 古びたアパルトメントの夜は寒い。何処からか入り込んだ隙間風が部屋を冷やすが、まだストーブを使う季節でもない。世の中では専ら温水暖房セントラルヒーティングが主流だが、この部屋にはそのような洒落た設備はない。最近ではイーストエリアでも床下に温水暖房セントラルヒーティングを仕込むとも聞くが、縁はなかった。実の所このアパルトメントは現在の建築基準を満たしておらず、温水暖房セントラルヒーティングを入れるには大幅な改築が必要であり、管理者はそのような金を出すつもりはなかった。尤も、シャノン・ハイドはストーブの石炭を買うのも惜しむような経済状況ひとがらではあるのだが。


「……コネリーの奴、ホント性格悪いんだからな」


 土産に渡されたビンテージ・ワインをシャノは睨む。ラベルに刻印されているのはシャノの生年だ。あのような場で貰った所で嬉しいはずもなく、今頃、コネリーはシャノの複雑な表情を想像して楽しんでいるに違いなかった。


「とはいえ、質は良さそうだ。生憎、私はワインには詳しくないが。数日置いてから飲むと良かろう」

「味は良いだろうね……コネリーはそういう所を怠るタイプじゃないし。でもかなり飲みたくない感じ」

「捨てるなら俺が貰うけど?」

「ジャックは気が太いよねぇ……」


 シャノは呆れつつ、夕食に手を伸ばした。ジャックが気侭に購入した食材のおかげで、今日の夕食は豪勢だ。野菜スープにも沢山の具が入っているし、ローストビーフなど、シャノは数年ぶりに口にした。金額のことさえ考えなければ嬉しいものだった。

 シャノの部屋には真っ当なダイニングテーブルというものはなく、応接に使う小さく背の低いテーブルに並べられたいつもより多めの料理を、三人は狭そうに囲んでいる。


「あのコネリーという男……極めて危険だな」

「そうだねえ……正直、下層で一番厄介な奴だと思うよ」

「何故、あんな男と繋がりを?」

「探偵だからね」


 シャノはローストビーフを噛み、溜息をついた。


「変な感じだよ。いつもはこっちが金を払って情報を買ってるのに、あっちから依頼されて金を払われる日が来るなんて」

「お前、探偵の自覚あるのか?」

「失礼だな、あるよ」


 自称・探偵は胸を張った。普段は自称だなんだと馬鹿にしているのに、何故今度は訝しげに尋ねるのか。シャノは非常に不服だった。


「……で、コネリーの依頼の件だけど」


 オイスターグラタンをつつきながら、シャノは改めてコネリーから渡された封筒を広げた。

 被害者の年齢は二十代から四十代と様々だったが、血走った死に顔だけは同じだった。苦しみ、藻掻き、救いを求めた末路。


「極度の高熱と、発狂か。確かに夕方の人、随分と……みたいだった」

「靴すら履いてなかったもんな。俺も変人にはよくお目にかかるが、ああいう壊れ方してんのはあんまり見ないぜ。大体、人間を病気にするってどういう"怪異"だよ。俺の時とは全然違うよな」

「……狼男のようだ」


 ふと、湧き上がったイメージをグリフィンは呟いた。


「狼男っていうと、人間から狼に変身するっていう怪物だよね?」

「そうだな。人狼とも言う。古い伝承で、人から狼の姿に変わり、また人に戻る能力を持つという。満月の夜に凶暴化するとも」


 その起源は古く、完全な狼になるもの、半人半狼になるもの、頭部だけが獣となるもの、様々な姿が伝えられる。かつて科学が発達していなかった時代、人間の命を奪う自然の猛威が身近だった頃の、獣の恐怖を物語の形で伝える存在だ。


「人狼はその獣性から、精神病や狂犬病とも結び付けられることがある。――即ち、噛みつかれれば、感染すると」


 狂犬病。動物の噛み傷からヒトへと感染する病。一度発症すれば脳を破壊され、死亡するという。脳組織を侵す病のため、その過程で凶暴化する症例もある。


「感染と、凶暴化か……」

「あくまで、印象の話だ。まだどんな<遺変オルト>かも解らない以上、何とも言えん」

「ともかく<遺変オルト>を見つけないとね。手掛かりは、逃げた男だけか」


 シャノは広げた写真の中の一枚を見た。コネリーから渡された写真の中で、唯一死に顔ではないもの。資料によれば名前はロイス・キール。現在の居場所は不明。それは獣の如く襲いかかる男に追われ、シャノたちが助けた若い男と同じ顔をしていた。あの短時間で事件を把握し、情報を揃えてきたウル・コネリーの持つ情報網は底知れない。


「黒い服の女性のこともなーんか引っ掛かるんだけどね」

「感か」

「感だねぇ。ま、今は男の方だね」


 気がかりとはいっても、黒衣の女の正体に関する糸口が何一つない現状、まずは逃げた男を調べるのが先だった。


「……シャノン。あの男の情報は信用できるのか」


 グリフィンは広げられた書類を見る。行儀よく纏められた被害者たちの情報。彼らが"怪異"の犠牲者だというのはあくまでコネリーの"調査"であり、三人が実際に確認したわけではない。


「分からない。何か別件があって、間接的に利用されてるだけかも。……でもコネリーが"怪異"という言葉を使ったのは事実だ」


 怪異。グリフィンが用いる呼称に倣えば遺変<オルト>。都市の影に潜む怪物、存在しない御伽噺。本来ならば誰からも忘れ去られる筈の存在を、コネリーは知っていた。三人がそれに関わっていることも。ただの法螺というわけではないだろう。


「……今は奴の望むとおり動くしかないか」

「逃げた彼はわたしが調べるよ。ここまで情報があるなら居所も探しやすいと思う。これでも探偵だからね」


 最後のローストビーフを頬張り、ジャックが皮肉げに口元を歪めた。


「ホントに大丈夫かよ、依頼来てるの見たことねえけど?」

「失礼だな、依頼が来ないは余計だけど、出来ないことは引き受けないよ。それともジャックが調べてくれるのか?」

「お断り。ちまちました調査は御前らに任せる。遺変<オルト>が出たら存分に働いてやるからよ」


 ジャックは笑って立ち上がり、空になった皿を持って流し台に向かった。それからキッチンの隅に置かれていた缶ゴミを集め、ガラガラと袋に入れた。


「明日、缶の日だから。ゴミ捨ててくる」


 区域指定のゴミ袋を掴んだジャックが玄関に向かう。


「……ジャック」


 珍しくグリフィンから名を呼ばれ、ジャックはきょとんとして足を止めた。


「あー……その、だな」


 引き止めたものの、グリフィンは口を濁らせる。言わなければならないことがあるが、どうにも言葉が見付からない様子だった。


「何だよ? 嫌味なら早くしろよ」

「……いや、いい。私の部屋にも缶があったような気がしたが、気のせいだった。すまんな」

「? そうか」


 腑に落ちないようだったが、ジャックはそのまま玄関扉を開けて外に出ていった。カチャ、と安っぽい扉が閉まる音がした。

 

「……グリフィン」

「……うむ……」


 シャノが物言いたげにすると、グリフィンは気まずそうに皿に目を落とした。


「あのさ……」

「――あ、今のでゴミ袋切れたから、買ってくるわ」


 ガチャリ。シャノが言いかけた時、再び扉が開き、赤毛が顔を出した。


「あ、そう? ありがとう、まだスーの店がやってると思うよ」

「おう、了解」


 手を振ると、今度こそジャックはゴミを捨てるべく、扉を閉めた。

 シャノはもう一度、グリフィンの方を見た。表情の見えぬ銅色の仮面が少し申し訳なさそうに俯いている。


「……助けてくれたお礼、言えないなら伝えておこうか?」

「ぬ。むう……次は言う」


 グリフィンは唸った。シャノは空になった自分の皿を片付け始める。


「ジャックのこと、まだ慣れない? まあそりゃ、当然だろうけど」

「……解るだろう。奴は所詮殺人犯だ。信用ならん」

「そうかな。わたしは信用してもいいかなって思い始めたんだけど」


 静かで、冷たい声がそれを否定する。


「それは理性の話だ。確かに、私から見ても奴は協力的であろうとし、こちらの規範に合わせている。そこに嘘はないだろう。――しかし、奴の本質は快楽殺人者だ。本能、衝動、欲望。彼らの根幹にあるのはそういったものだ。最も優先すべきは快く感じるもの、自らを満足させ、欲望を満たす眼の前の獲物。……一度衝動に呑まれれば、自らの快楽のため、どんな倫理も理屈も切り捨てることが出来るのが、ああいった連中だ」


 グリフィンはローストビーフの皿に残る、溢れた血溜まりを見た。


「何かの切っ掛けで、奴が自らの快楽に呑まれれば、"理性"の上の行いなど意味を為さなくなる」


◆ ◆ ◆


 薄汚れた路地の上に、似つかわぬ黒い高級車が止まっている。車内の明かりの下で、黒眼鏡の老人、エドガー・ベーコンはニタリと笑う。隣に座る長身赤毛の男に向かって。


「――上手くあの二人に取り入れてるようじゃないか、"切り裂きジャック"くん?」

「ハ、当然。人殺しなら一般人を騙すくらい出来なくちゃあな」

「いやいや、すまないねぇ、つける真似をして!」


 ジャックがゴミを出しに玄関に出たところ、アパルトメントの通路にベーコンの使いが現れたのだ。そしてジャックは買い物に行く振りをして、こうして老人の呼び出しに応じている。


「ハン、ストーカーには慣れてる」

「うんうん、ウルのツテを以てしても、先日の事件において、キミが犯人だと決定づける証拠はない。あれだけの派手な犯行をしておいてね! 最初に耳にした時、私は随分と苦労好きな殺人犯だと思ったものだよ。いや、私は殺しはシンプルが好きだからね。やっぱり、キミみたいな実力者なら相当モテるんだろうねぇ、そういう界隈では」

「まあ、そうだな。大体の奴らは気が変だから、面倒なだけだが」


 職業人殺しという界隈にもコミュニティはある。互いに自分の殺しを自慢もするし、その中で突出していると見做される者は賞賛を受け、熱心な取り巻きフォロワーも現れる。とはいえ殆どが気がおかしい人間だ。取り巻きと言っても対象を尊敬するというよりも滑稽な自己解釈や、狂った執着を向けられることが大半で、面倒だった。だからジャックはそういう時は殺すことにしていた。


 気が変な連中というのはやはり、殺しても楽しくないものだ。常人と同じように切り刻んでも、喚く言葉は奇天烈だし、突然偏った持論を述べ立てて笑い出す。正直殺人どころかただのゴミ処理に過ぎなかったが、少なくともこの世から危険な人殺しを減らすのだから善行になるだろう、と自分を慰めて解体していたのだった。自分にも他人にも利益のない殺しシュミは殊更気が滅入るからだ。


「素晴らしい! 既に高い実績があるということだ。キミは、この街で働くのは初めてかい?」

「この街にはこの間の件で来た。前は別の街で働いてたよ」

「成る程! つまりここには詳しくないし、ツテもない訳だ。じゃあ――キミ、才のない探偵のトコは辞めて、ブラックドッグで働かないかい」


 ベーコンは自らの長いヒゲを弄る。


「私はね、キミが気に入ったんだ。手間を惜しまず、残酷、無慈悲!。ハッハ! 実に良い、あの無害な探偵に預けておくには惜しい! ウチは今人手不足でね。何せ信用のおける人材がウルとギブ、そして私しか居ない。能力に間違いの無い人手が欲しいのだよ。今なら優遇するよ? 社員特典として酒も飲み放題だ!」


「俺の利益メリットは?」

「キミに楽しみを提供できる。探偵の所じゃあ、殺しなんてさせて貰えないだろう? 何とも勿体ない話だ、人材の飼い殺しだよ。ウチは東のダスト・イーストじゃあ一番優秀だ。他の組織も自分の所が一番だって思っているだろうけどネ! つまり、我々は常に争っている。キミの望む殺しの仕事には事欠かないということだ」


 ベーコンは勢いよく踵で座席の下を蹴った。すると何かのスイッチが入る機械的な音が響き、開いた座席下から縛られた女が転がり出てきた。


「ンーーッ! ンーッ!!」


 口を塞がれながら泣き喚く女の身なりは良く、健康的にふくよかだ。

「まずは、この女でも如何かな?」


 ベーコンが指を鳴らすと再び機械の擦れる音が鳴り、高級車の天井、シート、そして座席が捲れ、整然と並べられる幾つもの凶器が現れた。


「キミ好みだろう? 好きな道具を使い給え。この車の防音機能は犬の遠吠えさえ通さんよ」


 女は怯え、救いを求めるように見知らぬ赤毛の男を見上げた。ジャックは女の愚かさに呆れ、嘲け笑った。ベーコンは機嫌よく杖を撫でた。


「気に入ったなら――手始めにやって欲しい仕事がある」

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