5/ 回転する刃1

 声がする。音がする。

 聞き取れないほどの絶叫。耳を塞ぎたくなる肉を切り裂く音。


 その怪物に抗う術はなく、あるとすればただ走って、逃げることだけ。

 人が死ぬ音を聞きながら、肺が喘ぐ程に走って逃げ出す。


 ――赤色の髪の男が居る。赤色の髪の男が笑う。


 そうして、ズブリと。

 わたしの体に怪物の黒い爪が突き刺さった。


 ◆ ◆ ◆


 ――そうして、夢から目覚め、現実へと帰ってくる。


「あ――……」


 緩慢に開いたシャノン・ハイドの目に映ったのは、自宅の天井だった。朝の光が部屋に差し込んでいる。チクタクと時計の音がする。何も変わりない、いつもの朝だ。

 そう、いつも通り。何も変わらず。何も――


「気が付いたか」


 掛けられた声に、シャノは目を伏せた。いや、違う。起こったことは夢ではなく――もういつも通りではない。

 覚悟を決めてゆっくりと身を起こす。現実と向き合うために。そうして、声の主を見た。


「まだ調子が悪そうだな」


 仮面の男は、ベッドの上のシャノを見た。空が明るくなっても、男は仮面の上にフードを目深に被り、長衣に手袋の姿だ。


「貴方は、昨日の……"ハーバード"さん」

「二度も許可なく室内に立ち入ってすまないな。しかし君が街中で倒れた故、致し方なかった」


 男は変わらず、淡々と告げた。


「貴方もあの場に」

「ああ。"事件"があったからな」


 事件という言葉に吐き気が込み上がったが、シャノは何とかそれを飲み込んだ。


「貴方、その姿は目立つからって言っていたのに」


 シャノは事件現場のすぐ側で倒れた。衆人環視の中それを助けたということは随分と目立ったことだろう。


「目立つ。だが行動が必要な時もある」

「今日の事件は……あの雑貨店は、どうなってた? 誰か、一人でも……」


 僅かな希望に縋るようにシャノは尋ねた。


「死者は三人。店主とその妻と子供だ」


 答えは無情なものだった。ぐらりとまた目眩がしシャノは額を抑えた。


「……。水を飲め」


 ハーバードから渡されたグラスをシャノは一気に煽った。水が喉を通る感覚が僅かに頭を落ち着かせる。


「あの店の家族は御前の知り合いか」

「…………そう、よく店に通っていて。安いし、色々種類が置いてあって、それでいて偏ってて」


 ぽつりぽつりとシャノは話す。


「店長のエディスンさんはいつも偉そうで、でも嫌な人じゃなかった。最近は息子が学校で工作を褒められたって自慢してた」

「工作が得意だったのか」

「多分、店の棚を直したり、そういう手伝いを良くしていたからじゃないかな。まだ小さいのにね、木のささくれも綺麗にやすりがけするんだ」

「そうか、良い息子だな」


「エディスンさん、自慢で仕方がないって感じでよく息子の話をするんだ。店では自家製のパンも売っていて、朝と昼過ぎに二度焼いてる。結構人気があってね」

「人気の商品は何だ」

「それがね、バターロール」

「王道だな」

「凡庸って思っただろ。そう、普通のパンだよ。でも美味しいんだ。手で開くとふわっと香りが広がってね。最近は色々パンの種類を増やしてるみたい。入荷する野菜の種類は増やさないくせにね」


 シャノは笑った。


「凝り性か」

「多分ね。このままじゃ雑貨屋やめてパン屋になっちゃいそう。パンだけが目当ての人も居て。昨日もそうで……」


 最後の日、エディスンとキイとは会話を交わしたが、エディスン夫人には顔を見せなかった。また次があると思っていた。明日でも、明後日でも、一週間後でも、いつだって。けれどもう二度とそんな日は来ない。


 仮面の男はシャノのとりとめのない話に相槌を返し続けた。そして――不意にどちらの言葉も途切れた。静寂。窓の外でバイクが走り去る音が遠く聞こえた。

 シャノは表情のないその男の仮面を暫く眺めた。そしてグラスをサイドボードに置き、引き出しを開けた。取り出したのは小さなビニル袋。中には一本の赤毛。


「この手がかりを譲る」


 シャノはそう決めた。


「でも条件がある。金は要らない。代わりに、貴方の捜査にわたしも連れて行って欲しい」


 ハーバードは静かに問うた。


「断ったとしたら?」

「この手がかりは警察に渡す」

「成る程」


 シャノはじっと謎めいた仮面を見つめた。ハーバードは暫し熟考し、それから口を開いた。


「一言言っておく。推奨はしない」

「……分かってる。貴方に守って欲しいとは言わない。何かあった時は切り捨ててくれて良い。貴方がこの犯人を明るみにしてくれるならば」

「君が対峙しようとしているのは……人間ではない。怪物だ。君一人で遭遇しようものなら、たちまち命を摘み取られるだろう」

「それでも良い。そんな事は問題じゃない」


 勿論、シャノとて死ぬ気はない。けれど、死を畏れる以上に為すべきことがある。どうしても。どうしても犯人を突き止めたかった。


「その覚悟があるなら、良いだろう。私は君を助けない。君は私を助ける」


 頷いて、シャノは仮面の男にその僅かな手がかりを渡した。ハーバードは……しっかりとそれを受け取った。その思いを受け取るように。


「私と共に動くというのなら、今晩には働いて貰う。良いな」

「大丈夫だ。動ける」


 シャノはしっかりと頷いた。


 シャノから受け取った手がかりを懐にしまうと、仮面の男はふと気付いたようにシャノを見た。


「……こうなれば、偽名は不誠実だろうな」

「別に、わたしは構わないけど」


「いや。伝えておこう。これは既に失われた名。何の意味もなく、何の力もなく、既に何者ではないこの身だが――かつての名はグリフィン」

「グリフィン……」

「ああ、そう呼べ。この事件を解決するまでは、君と私は同志なのだから」

 

 ◆ ◆ ◆


 ――夜が来る。夜が来る。

 東の塵ダスト・イーストの夜は、立ち込める霧で月も朧げだ。"切り裂きジャック"事件が騒がしい中、真夜中に外に出るものは少ない。この大通りも今日は酔っ払いの姿さえ見ない。僅かな街灯の下、シャノとグリフィンは歩く。


「行くぞ」


 ハーバード改めグリフィンが催促した。目的地は真新しい事件現場、エディスン雑貨店。あらかたは警察が捜査した後だが、グリフィンには独自の捜査方法があるという。シャノは従った。

 現場の路地に近づくと、朝と変わらない立入禁止のテープ。そして警官が二人立っていた。警官はシャノたちに気が付くと、声を荒げた。


「おい、御前たち近づくんじゃない、ここは――」


 言いかけた警官にグリフィンは丸い小さな機械を取り出しボタンを握った。プシュー! 中から薄水色の煙が吹き出した。


「何っ! ゴッホゴホ!」

「お、御前ら……!!」


 煙を浴びた警官はふらつき、やがて意識を失った。グリフィンは倒れた警官を受け止め、表から見えない場所に寝かせた。シャノも煙を吸わないよう布で自らの口を覆いつつ、もう一人の警官を受け止めた。


「便利だね、それ」

「違法だがな」

下層ココでも?」

下層ココでもだ。……そもそも都市法は共通だろう」


 グリフィンは生真面目に答えた。


 夜においても目立つ色の立入禁止テープを越え、二人は薄暗い路地へと入る。粘ついた空気は錯覚か。現場は店内だが、残忍な殺害方法により道路にまで血の跡が溢れ出ていた。警察の残した死体の形に沿ったテープが三つ。信じられない、こんなカタチにあのエディスンが収まっていたなどと。


 壊れた棚、散乱した商品。無残に破壊され散らばったものたちに過去の面影を見出してしまい、シャノは少し額を抑えた。

 冷静になる為に懐の銃を確認する。これは父の遺したものだ。シャノの寝室の小さな箱には二つの拳銃がある。一つは軽くて扱いやすい小型のもの。もう一つは大きく反動が強く代りに殺傷力が高いもの。今日は小型のものを持ち出していた。


 グリフィンは懐から短い棒状の機械を取り出した。あの裾の長い外套には様々なモノが収まっているらしい。スイッチを押すと、棒はカシャカシャと小さな音を立てて長く伸びた。ハイテックだとシャノは感心する。銀色の棒の先端から扇状の光が伸びた。緑色の光は店内の壁や床を探るようになぞってゆく。


「それは?」

「この場所のデータを取っている。この店の形状、使われている素材、置いてある物。人では見落とす僅かな痕跡も、全てを等しく記録しておく。他に、事前に特定の情報を入力しておくと、同じものがあった時に自動で検知する」


 ピーッ。ピーッ。探査棒から小さく音が鳴った。


「持っていろ」


 シャノに探査棒を渡すと、グリフィンはオレンジ色に反応した床を調べた。


「何があったんだ?」

「"痕跡"だ」


 グリフィンは答えた。


「君が手に入れた赤い髪。その遺伝子情報を入力しておいた。ここに同じ情報を持つ痕跡があったようだな、モノ自体は警察が回収したようだが」

「そのものが残ってなくても検知出来るのか」

「削げ落ちた僅かな欠片が木板に付着していたのだろう。吹けば飛ぶような痕跡だが、残ってさえ居れば検知できる」


「一昨日の現場に落ちていた髪と同じ人物の痕跡がここにあった、っていうことか。それは……つまり」

「――この髪の人物が一連の事件に深く関係している可能性は非常に高い、ということだ」


 ピーーーッ!! その時、探査棒が一際大きな音を鳴らした。


「探偵! 後ろだ!!」

「ッ!?」


 ギャルルルルルル!! 闇を切り裂くような金属音がとっさに前転したシャノの僅か上を通り過ぎた。


「な、」

「ハ、ハハハ! 残念、一撃とはいかなかったか!」


 笑い声がした。残忍なその声の持ち主はエディスン雑貨店の入り口に立つ。

 緑色の光に照らされたそこに――鮮烈に、赤い髪の男が居た。


「御前――」


 ギャルルルル!口を開いたシャノに、素早く二撃目が振り下ろされる。寸ででグリフォンが前に出、拾い上げた探査棒でそれを受け止めた。


 ギャルルルル!ガキン!!

 男の持つ武器が動きを止める。小さなギザギザとした刃が並んでいる。小さな刃は平たい板状の金属の周囲をぐるりと囲む。根本には動力の源となるエンジン。回転し、刻み、引き裂く刃。暗がりに光るそれは、動力鎖鋸チェーンソーと呼ばれるものだ。


 探査棒が小さな刃と刃の間に噛み、チェーンソーの回転が止まった。だがそれも僅かな間のことだった。ガキン! 高い音を立て、探査棒が砕け散った。


「くっ……!」

「おお、悪くねえじゃねえか」


 赤毛の男は愉快そうに言った。グリフィンはシャノの腕を引き、店の奥まで後退する。


 ギイと床が鳴る。男の姿は一見普通だ。ラフなシャツにジーンズ。それに長い赤毛。だが獰猛に音を立てて唸るチェーンソーがそれを否定する。


「御前がここで釣れるとはな……」

「うん? 俺に用はなかったか? まあないだろうな! ハハハ!!」


 呟くグリフィンに男は笑い――それからすっと目を細めた。


「ハッ、だが悪いな。こっちには用がある。御前ら、殺すように頼まれてるんだよ」


 ギャルルルルル。チェーンソーの音が夜に響く。


「頼まれる? わたし達なんかを一体誰が何の目的で」

「そりゃあれだな、”知りすぎた”って奴だろうよ。自分で言ってて何だが、この定番台詞、ダサくねえか? ま、ともかく殺しの依頼なんてのは大体そうだ。深くは聞かねえけど、ほらプロだからな」


「御前は……何者だ!」


 男は一際大きく、愉快そうに笑った。


「さあ、何と名乗ってやろうか! 殺し屋ヒットマン気狂いクレイジー連続殺人鬼シリアルキラー

 誰も彼も適当な呼び名で俺を呼ぶが……。そうだな、最も通りの良い名前はーー切り裂きジャックジャック・ザ・リッパー!」

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