4/ その影に、その暗がりに
「――シャノン・ハイドだな」
聞き覚えのない男の声がした。
「誰だ」
ゆっくりと、男の長い裾が影より現れる。
――その風貌には、顔がなかった。
頭部はある。しかし顔のあるべき箇所は、暗い銅色の仮面で覆われ、フードを目深に被っている。
仮面には表情がなく、六つの無機質な黒穴が空いているのみで感情を読み取ることは出来ない。
長衣に手袋を纏い、素肌というものを一切見せない、不気味な男。
「独身。探偵業。黒杖通り22番地7号室。シャノン・ハイドで間違いないな」
仮面の男は繰り返した。
「家主の留守中に家に立ち入って、随分な態度だね」
「私の風貌は外では目立つ。許可なく室内へ立ち入った事を詫びよう」
男の淡々とした口調からは、本当に悪びれているのかただの社交辞令なのかは分からない。
(鍵は掛けて出たはずだけど……)
シャノの考えを察したのか、男は玄関の方を見た。
「解錠程度ならば、私にとっては容易いものだ。特にこのような鍵であれば」
男は
「それで、わたしに何の用かな」
「依頼だ」
仮面の男は調子を変えずに言った。
「探偵へ、事件の依頼に来た」
◆ ◆ ◆
湯沸かし器の音が鳴る。シャノは長く使っていないティーバッグをカップに突っ込み、沸騰した湯を注ぎ、仮面の男へと差し出した。男はソファに腰掛けた侭、カップを受け取った。シャノも男の正面に椅子を置き(この家の居間にはソファが一つしかないのだ)、男を見る。古ぼけたアパートに似つかわぬ白と深紺のロングコート。仕立ての質も良い。下層では珍しいものだ。
「私の名は……そうだな、ハーバードとしておこう」
男は一応の礼儀のように、名を名乗った。
「わたしも、偽名を使われるような依頼を受ける日が来るとはね」
シャノの呆れ半分困惑半分の呟きに、男が返す。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。私の名はとうに失われた。であれば、これは私にとって新たな本名とも言える」
男は淡々とした態度で、謎めいたことを言った。
「それで、依頼っていうのは? "ハーバード"さん」
肝心なのはそれだった。仮面と偽名で素性を隠した怪しげな依頼人は切り出した。
「――"切り裂きジャック"」
「!」
ハーバードが口にした言葉にシャノは驚く。――切り裂きジャック。なぜこの男がそれを?
「数か月前から続く正体不明の大量殺人事件。君はこれを追っているのだろう」
男は懐から丸めた紙を取り出し、広げた。今時使わない古めかしい羊皮紙。しかしそこには何も書かれていない。
「私もこの事件を調べている」
男が無地の羊皮紙を指先でなぞる。すると不思議なことに、男の触れた所が光り、ぼんやりと文字が浮かび上がったのだ。
「えっ……」
――今のは何かしらの機械か? それとも化学?
シャノの困惑をよそに、ハーバードは文字の浮かんだ紙を見せる。
「一度目。二度目。そして今月に入ってから、三度目と四度目。犠牲者は合わせて27人」
書かれていたのは事件についての情報だった。現場の様子。予想殺害時刻。犠牲者の名前、その一人ひとりの外傷と死因。事件についての様々な情報が図と共に纏められていた。
「これは私が独自に集めた情報を纏めたものだ。一部だが」
「この情報を貴方が一人で?」
「そうだ」
訝しむシャノにハーバードは頷いた。警察に頼らずこれだけの情報を整理したとなれば、事件を追っているというのは本当なのだろう。
「この事件は特殊だ。目撃者も証拠もない、異常なまでの大量殺戮。警察にも、探偵にも手に負えない程に」
「……それで?」
「依頼だ。君が手に入れた"痕跡"を譲って貰いたい」
シャノは愕然とした。
「それは――……」
それは昨日、シャノが黙って現場から持ち出したものだ。あの場に居たブロディですらまだ知らない事実。この仮面の男が何故それを知っているのか。
「私は見ていた。先日の現場に、君が現れるのを。そして男と会話した後、その物証を持ち去るのを」
――あの場に警部以外の誰かが? 気づかなかった。迂闊だ。シャノは内心で舌打ちした。
「これは依頼だ。当然、報酬も用意している」
ハーバードは紙に額を書き込み、シャノに見せた。提示された金額は悪くない額だった。少なく見積もっても家賃が一年分払える。
「何故あんなものを? 貴方はあれを手にとっては居ないだろう。何故あれが重要で、貴方にとって必要なものだと分かる」
「独自の調査だと言っておこう。君へと辿り着いたのがその証だ」
それに、とハーバードは言った。
「君も何かを感じたからこそ、あの"髪"を持ち出したのだろう」
確かに、そうだ。何の理屈でもない。あの一本の髪が、ただ気にかかった。
「その直感は君の能力だ。大事にしたまえ。――それで、返答は?」
「……わたしは……」
シャノは悩んだ。自分にツテがない訳ではない。けれど確かな筋ではない。自分よりこの謎の人物に任せるのが良いのかもしれない。シャノや警察にはない秘密の技術やツテを持っている様子でもある。しかし、この男が信頼出来るという保証もない。部屋には勝手に入ったもののその後の対応は誠実と言えるだろう。
けれど本当に信じられるのか。何かしらの理由で素性を隠すこの人物が本当の犯人で証拠を隠滅しようとしているとも考えられる。やはりブロディに返すべきではないか?
――それとも、この男が。この仮面の男こそがシャノの"直感"が指し示した相手、この手がかりを渡すべき相手なのだろうか。
「……もう少し考えさせて貰っても良いかな」
「今すぐ、と言いたい所だが。成程、そちらにも事情があるだろう。明日の昼まで待つ」
シャノは時計を見た。午後六時前。あと十八時間ほどか。
「分かった。その時には返答する」
「承知した」
話は済んだというように、ハーバードは羊皮紙を丸め、ソファから立ち上がった。
玄関の扉が閉じる前、ハーバードはシャノを振り返った。
「シャノン・ハイド。御前たちにはこの事件は手に余る。この事件を起こしたのは人間ではない。――亡霊だ」
「それは……――」
言葉の意味を確かめるべく、シャノが扉を開けた時――男の姿は忽然と消えていた。
男は一度も仮面を外さなかったが、テーブルの上のカップの中は空になっていた。
◆ ◆ ◆
天上きらめくネオンの光も、その影には届くことはない。
――そこは
その暗がりに這い寄るものを、止める者は居ない。
それに名はなく。人の姿ではなく。命の姿ではなく。在るのはただ、忘れ去られた遺物たち。
それは切り裂くものとして存在する。それは裁くものとして存在する。
誰かの血が溢れている。誰の声も聞こえない。
襲い来る影の鋭い刃が、人々の肉を切り裂き、貫く。
零れ落ちた命は闇に溶け、戻ることは――二度とない。
◆ ◆ ◆
ジリリリリ。ジリリリリ。
甲高く騒ぐ電話の呼出音でシャノは目を覚ました。窓の外は明るく、朝の白い光が部屋に差し込んでいる。
シャノはのろのろと電話台まで歩くと受話器を取った。
「あー……、ハイドです」
「おはようございます、ハイドさん。原稿無事に届きました」
電話の主は雑誌の編集者だった。
「ああ、おはようございます、無事に届いていたようで何よりです」
この担当は少々変わっていて、データ自体は
暫く仕事についてのやり取りを交わした後、編集者が、そういえば、と言った。
「そういえば、聞きました? 今朝のニュース!」
「……ニュース?」
――嫌な予感がした。シャノの眠気が冷める。ここ最近で大きなニュースになることと言えば、嫌でも連想する。
「"切り裂きジャック"ですよ!」
◆ ◆ ◆
朝早くだというのに、通りには人が溢れていた。ある者は興味深そうに、ある者は不安げに。皆一様に同じ路地を見つめている。
衆人のざわめきと野次馬を追い払う警察の声。
「はあっ、はあっ、はあっ」
シャノは人々を押しのけて走る。途中、バカヤロウと罵り声がしたが構わない。恰幅のいい男も若い主婦も無我夢中で押しのけ――。
そして。
色鮮やかな立ち入り禁止テープの向こうに――血に塗れた"エディスン雑貨店"の姿を見た。
「あ――……」
ぐらりと、強い目眩がした。路上にまで撒き散らされた赤い色が目に痛い。
凄惨な現場は過去にも見た。一昨日だって見た。けれど、駄目だった。
頭がキリキリと痛む。体がギリギリと痛む。
ああ、どうしてか、視界が熱くておぼろげで――
――そうして、シャノの意識は途切れた。
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