3/ 死より来たる3

 食べる物は手に入れたが、シャノにはまだ立ち寄る場所があった。

 最近人気の、さほど高級ではないが雰囲気のあるイタリアンレストラン――その地下にある酒場である。

 まだ昼の二時を過ぎた所。酒場の開店時間ではない。しかし鍵は開いていた。


 店の名はブラックドッグ。看板には風を纏った黒犬の姿が描かれている。石壁で作られた地下は昼でもひやりと冷たい。営業時間前なので明かりはなく、夜は穏やかに音楽を流すスピーカーも今は深い眠りについている。


「コネリー、居るかい?」


 階段を下り、シャノは店の奥へと声をかける。すると、


「……ヒヒ、客が来る時はいつでも居るとも。このオレはね」


 カウンターの奥から、ぬらりと影が現れた。それは男だ。ニヤニヤと笑みを浮かべシャノの方へ近づいてくる。

 黒い髪を肩まで垂らし、赤いレザーのジャケット。首にはいつも水玉のスカーフを巻いている、胡散臭い優男。

 彼がこの酒場、ブラックドッグのオーナー、ウル・コネリーだった。


「いつでもって言っても、常に酒場にいる訳じゃないだろうに。外でだって会うんだし」

「勿論、オレだっていつも穴蔵に居るわけじゃない。でも、事実そうなんだ。顧客が来る日は、いつだってオレは鼻が利く。客を待たせたことは一度だってない。良い店だろ? まさに忠犬さながらだ」


 ヒヒヒ、とコネリーは笑った。


「それで? オレの顧客で一番若いアンタ。最も愚かなシャノン・ハイド。今日の用は何だい」


 勿論、シャノは酒を飲みに来た訳ではなかった。この場所に、このオーナーに特別な用事があるのだ。


「その前に、これを」


 しかし、シャノはコネリーの話を一度遮り、手土産の紙袋を渡した。

 コネリーはふむと袋を開けると、歯をむき出して笑顔を見せた。


「これはエディスンのキュウリ漬け! 流石若き探求者シャノンだ。心得てくれてるじゃないか」


 コネリーはエディスン店のピクルスが好物だ。ただし、色々あって店には二年前から出禁である。

 何があったら小さな雑貨店を出禁になるのかは分からないが、シャノは恐らくコネリーの方に非があると踏んでいる。


「わたしも今から昼食だからね。食べながら話すよ」


 シャノもまた、机に腰を掛け、エディスン店で買ったパンを頬張る。


「最近のアレ……聞いてるだろ? 新聞に倣うなら、”切り裂きジャック”」

「そりゃ聞こえてるとも。今この街で切り裂きジャックの話を知らないなんて、ヒヒ、赤子くらいさ。アンタのことだから、また勝手に現場に入ってブロディに怒られたんだろう」

「それ、誰かから聞いたんだろ。耳が早いんだから」

「鼻が良い、という表現のほうが好みだな」

「それで、貴方の方には何か情報は来てる?」


 この場合、シャノの言う情報とはつまり、裏の話である。警察にも届いていないような噂話、もしくは――人に言えない生業の人々の間で伝わる話。コネリーへの用事とは、そういうことだ。コネリーは酒場を経営しながら網を張り巡らせ、情報を集め、提供しているのだ。

 勿論相応の対価は必要だ。金で支払う場合、高い部類ではないが、シャノにはやや背伸びした額ではあった。そこで、先程のようなピクルスの賄賂などでマケて貰っているのだった。他にも副業の執筆で酒場の宣伝をしたりもする。



 しかし、コネリーから帰ってきた返事は芳しくないものだった。


「いや、残念。オレの所にも何も来てないんだな、これが。オレが知ってることは、警察が把握している所までだ」

「そうか……。貴方でも何も掴めてないなんて、どうしたものかな」

「ヒヒ、まだまだ駄目だな、アンタは」


 気を落としたシャノに、コネリーが意味深に歯を見せて笑った。


「え? あ!」

「気付くのが遅いなァ。そうだ、何もないんだよ。

 このオレが! 下層デューストを知り尽くす、死体漁りの犬ブラックドッグすら情報を得られない怪事件!

 絶対に、おかしなことがこの下層で起きてるンだ。ヒヒヒ」


 愉快そうにコネリーはピクルスの瓶を撫でた。


「調べるんだよ、シャノン。これはただの大量殺人じゃない。この不可思議な事件を追うんだ。そしてここに帰ってくるんだ。アンタの得た情報をオレが繋げて、三倍にして返してやる」

「……。わたしにも、貴方にも得がある」

「そういうことさ」


 コネリーは自身の益の為、シャノを危険へと焚きつけようとしている。だがこれは元から調べようとしていたことだ。ならばシャノの選ぶべきことにあまり変わりはなかった。


「そろそろ帰ったほうが良い、アンタ、今日締切があるんだろ?」

「そこまで把握されてるのは気持ちが悪い」

「ヒヒ、今の仕事が廃業したら、秘書になるのも良いかもな?」


 コネリーの声を聞きながら、シャノは酒場ブラックドッグを後にした。


 ◆ ◆ ◆


 寄るべき所には全て寄った。あとは原稿を仕上げるだけだった。シャノは荷物を抱え、帰路につこうとする。

 階段を上がると、通りは最も混雑する時間を過ぎ、先程よりも人が少なくなっていた。道路を渡ろうとシャノは左右を確認する、そこに声をかける者が居た。


「おい、シャノか」

「ジョンおじさん?」


 シャノが振り返れば、そこにはブロディが居た。少しよれた黒いコートに使い込まれているもののしっかりアイロンのかかったシャツとズボン。仕事スタイルだ。


「警部、お仕事中ですか」

「ああ、ちょっとな。御前は買い出し帰りか? 偶然だな……いや丁度良かったか」


 何やら頷くと、ブロディはシャノに尋ねる。


「シャノ、御前今夜は暇か? 空いてるならウチに飯を食いに来ないか」

「警部からお誘いなんて珍しい。どうしたんです?」


「いや、例の事件について情報があってな。夜は留守にするんだ。御前が良ければ家内の相手をしてくれればと思ってな。そうすりゃほら、帰ってから聞かされる愚痴を多少減らせるだろ。と言ってもここの所はデタラメな通報が増えてるからあんまりアテにしちゃいないが」


 切り裂きジャック事件以降、警察には不安になった市民やいたずら通報が増えている。かと言って無視するわけにもいかず、こうして信憑性の高そうなものから一つ一つ当たっているというわけだ。今の所、成果が出ては居ないのだが。


「嬉しいお誘いですが、今日は原稿仕事が残っていて……また後日誘って頂ければ、その時は是非」


 シャノは少し迷ってから申し訳なさそうに返答を口にした。

 シャノはブロディに恩がある。


 父が病死してから暫く後、シャノが独り立ちをしてすぐの頃、酷く酔った男に殴られたのだ。驚き抵抗出来なかったシャノから男を引き剥がし助けてくれたのがブロディ警部だった。それから後も、父を亡くして心細かったシャノをブロディは気にかけてくれた。その頃からの癖でどうにも彼に対しては親しくなってからも丁寧な言葉が抜けない。


 それ故、ブロディの頼みなら快く受けたい所だったが、今日の締切は大事な収入の一つだ。やはり、昨日のうちにもう少し進めておくべきだったのだとシャノは反省する。


「あー、そりゃしょうがねえな。まあそっちでどんどん稼いで、探偵なんてバカな仕事はやめることだな。……オイ、仕事だとか言って御前、俺の後をつけるんじゃないぞ?」

「安心して下さい、今日は無理です。日付を越えるまでに原稿を送信しないと」

「そうか。ちゃんと自衛の鍛錬は続けてるな?」

「はい、勿論」

「いいかシャノ、俺が助けた命を無駄にするなよ。……いや、すまん、嫌な言い方だったな……ただ、自分の身は大事にするんだ」


 ブロディはシャノの肩を叩く。


「じゃあな、また」

「ええ。警部も、気をつけて下さいね」

「おいおい、心配性だな。俺は御前が生まれる前から刑事やってんだぞ? 当たり前だ、ちゃあんと心得てる」


 ブロディは笑った。その影が長い。少し日が落ち始めていた。シャノも微笑み、立ち去るブロディを見送った。


「……そういえば、髪の毛」


 予定外の遭遇だったこともあり、今回は言いそびれてしまった。いや、コネリーに鑑定のツテがあるか尋ねてからでも良いかもしれない。

 そろそろ、上層のネオンの中でも気の早いものが点灯し始める頃だろう。シャノは乗り込んだ巡回バスの中から、空を見上げた。霧がかった空からは、上層のネオンを見ることは出来なかった。


 ◆ ◆ ◆


 巡回バスから下り、シャノは見慣れた路地へと帰ってきた。活気あふれる大通りとは対象的に人は少なくしんと静まり返っている。道の端にゴミが転がっている。今日の路上清掃業者が手を抜いたのだ。いつもならアパルトメントの一階二号室からつけっぱなしの映像機テレビジョンの音が漏れてくるのだが、今は留守のようだった。


 アパルトメントの金属製階段はギシギシと頼りない音を上げる。シャノは紙袋を片手に抱え、部屋の鍵を開けた。

 玄関から伸びる廊下は薄暗い。電気をつけるべく、シャノは居間の壁を探り――


「――シャノン・ハイドだな」


 ――そこに。仮面の男が立っていた。

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