2/ 死より来たる2
シャノが住むのは大通りからは外れた、よく言えば静かな、悪く言えばうらぶれた古いアパルトメントだ。
一帯が建てられたばかりの頃は安く洒落た賃貸として若者に人気があったようだが、今では見る影もない。住んでいるのは衰えた者たちばかりで、現在の若者はもっと街灯の整備された地域を選ぶ。
人通りの少ない薄汚れた道を歩き、シャノは狭いアパルトメントの一室へと戻った。
「ふう……」
少し埃っぽい空気を吸いながら、帽子とコートを脱ぎ、使い古されたソファにかける。
今日の現場を思い出しながら、シャノは手に握った一つのものを取り出す。
それは、一本の髪の毛だ。
血がこびりつき、元の色も分からぬそれは血液と共に現場の壁に張り付いていたものである。
犠牲者の血しぶきで壁に張り付いたのだろう。
固まった血液と壁の凹凸に隠れ、警察の現場検証から見落とされたそれを、シャノはブロディの目を盗んで、剥がし、持ち帰った。
誰のものかも解らない、そもそも事件とは関係のない時間帯に残されたものに、上から血が吹きかけただけかもしれない。ただ、シャノはそれに何かを感じたのだ。
シャノは己の直感というものを大事にしていた。頼っている、と言っても良いかも知れない。何か大事な時、それはシャノに囁きかけてくれる。今回もそうだった。この行為は必要になると、天啓したのだ。
シャノは洗面所で髪に張り付いた血液を洗浄する。現場から黙って物を持ち出した罪悪感がない訳ではないが、素直に警察に渡した所で、下層の事件ではきちんと科学調査して貰えるかどうか。やれ、費用がかかる、担当者が居る日ではない、他の仕事がある、調べられる程の機材がないだの言われ、他の品々とともに埃を被るのが関の山だろう。
「そもそも見落とした鑑識も悪いわけだし、そう、後で返せば、ね?」
探偵というのは人の秘密を漁る仕事なのだから、ふてぶてしく在らねばならない。それが自称・探偵業だとしても。シャノは強く心を持つ。個人業は弱気に出たら負けだ。
水道を止め、血液を洗い落とした髪の毛を見る。
――光に透かすと赤い、長い髪。
正直な所、ありきたりだった。赤毛などいくらでも居る。このアパルトメントの管理人だって赤毛だ。この長さでは男のものか女のものかもわからない。シャノは気が抜けた。さて、これをどうしたものだろう。既にひらめきは消え去っていた。
――自分のカンも衰えたものだろうか。自分がこれを手に入れることに意味があると、そう感じたのだが。
落ち着いてみれば髪の毛一本に自分が何を期待していたのかも分からなかったが、意気消沈し、溜息を吐きながらシャノはその髪の毛を小さなビニル袋に保存した。
居間に戻るとすっかり外は暗くなっていた。ざあざあと強い雨音が室内にまで聞こえてくる。シャノはカーテンを閉めてからカレンダーの日付を確認する。依頼の締切があるのだ。
依頼といっても、残念ながら探偵業ではない。小さな雑誌記事の執筆である。
探偵業の傍ら、シャノはコラムなどの小さな記事の仕事をしていた。探偵業で外を歩いた際、見聞きしたものをネタに出来て採算が良いのだ。
仕事中に偶然見つけた小さな酒場を紹介した時など、評判が良い。
正直な所、自称・探偵業だけではとても稼げないのでこうした副業をしている。更に正直な所、探偵業よりは金の入りが良かった。実質はこちらが本業のようなものだ。シャノにとっては格好がつかないので認めたくないところだが。
上層に赴いて記事を書くこともある。これは上層向けの記事ではなく、下層住まいではあるものの、時折上層へ遊びに行くだけの収入や教養がある中流層向けのものだ。これは報酬も良く、また経費を使って上層での昼食を摂ることも出来るので、偶の贅沢の一つだ。
確認した所、明日に締切が一本。犬猫預かり業の予約はなし。
「ううん……でも眠い……いや明日、明日で大丈夫」
未来の自分に全てを委ね、シャノはふらふらと寝室に向かう。恐らく、明日の自分からは恨みを買うだろう。致し方ない。今は今日の自分なのだから。
ベッドにたどり着くと硬い布団の上に倒れ、シャノはゆっくりと眠りについた。
◆ ◆ ◆
繁栄せし都市の影、置き去りにされた街のさらに奥に、それは在る。
昏き闇が微睡む
そこに名はなく。人の姿はなく。命の姿はなく。あるのはただ、忘れ去られた遺物たち。
ここに遺るは幻想。この世から失われしもの、その全て。
正しき
◆ ◆ ◆
翌昼。
昨日の己の予想通り、シャノは
幸いにも前々日までの自分が記事の概ねの方針やメモ書きを作成していてくれたので、それらの体裁を整えればどうにかなりそうではあった。
かつての自分に感謝を。昨日の怠け者に災いあれ。
ぐったりしながらああでもないと文章を弄るシャノに反して、中古で買った安い真鍮軸の
記事の内容は、世間を騒がす切り裂きジャックについて。
シャノにとってもタイムリーな話だ。勿論実際の事件現場で見たことなど書けるはずもないし、新聞記者のように事件を大々的に伝える一面記事を書く訳でもないのだから、そういった話は除外して安雑誌らしいそれっぽい事を書くのである。
――切り裂きジャック。
世間では怪物、怪人と幻想の如く騒がれているが、シャノやブロディ警部にとっては大量殺人犯、確かに存在する人間の犯罪者だ。
けれど――こうして名を与えられ、語れてしまうと、本当にどこか遠い物語のように聞こえてしまう時があった。
まるで古典本の中のおとぎ話のように――畏しく幻想的な怪異として。
ピーーーーーッ。
湯沸かし器の音が響いた。シャノは頭を上げ、時計を見た。時刻は十三時になろうとしていた。
のろのろと湯沸かし器まで近づき、それから気付く。食料がない。最後の
「……駄目だこれ。一端、頭スッキリさせよ……」
――生活費、あと幾らだっけな。
軽い財布を掴み、シャノはアパルトメントを出た。
商店の並ぶ通りはいつもと変わらず賑わっていた。
買い物をする人間。通りすがりの人間。昼食を摂りに来た人間。様々な人が行き交い、通りは騒がしい。
人混みに
混雑を極めた中心部を抜け、やや奥まった場所へとシャノは進む。
向かう先は、一件の雑貨屋だ。
「こんにちは」
「あん?……ああ、シャノじゃねえか」
色褪せた看板をくぐったシャノを大柄な店主が目に留め、顔を上げる。
「こんな昼間っからウチに来るのは珍しいな。大体いつも閉店ギリギリに駆け込んでくるのによ。さては備蓄切らして泣きつきに来たな」
「泣きついたことがあるような言い草はやめて欲しいね、エディスンさん」
エディスン雑貨店は大通りの裏側、あまり日の当たらない路地の並びにある。小さな店舗に商品が窮屈そうに並べられており、来る客はほぼ顔見知りの常連という地域密着型の店である。先月には隣の古いビルで偽札作りの一団の入居が発覚し、警察騒ぎになった。そういう店である。
雑貨店と言うものの、ここ、エディスンの店は野菜などの生鮮食品から保存の効く
「おうガキ、珍しくこの時間に来たんだ。今ウチのが昼のパンを焼いてるからよ、焼きあがるまで待て」
「折角だからそうするよ」
「ウチのお得情報を教えてやった代りにだな、煙草持ってねえかシャノ」
「エディスンさん、子供が出来てから煙草は止めたんでしょ」
「チッ、ウチのと同じでケチ臭いなぁ、御前は」
そうは言うものの、エディスンの息子はもう八歳だ。息子が生まれてからの八年間、エディスンは妻との約束を守って一度も喫煙していない。口寂しさを紛らわす軽口だ。
パンを待つ間、シャノが他の買い物を済ませていると奥からひょっこりとその息子が顔を出した。
「シャノさんじゃん、今日は買い出し多いな。備蓄切らしたんだろー?」
「君、お父さんとソックリな事言うねえ」
エディスンの息子、キイは今日も元気だ。父親譲りの黒い目は溌剌としており、幼くして客の様子にも目が届いている。
「なあなあ、まだ探偵はやってんの? じゃあさ、切り裂きジャックの話、聞いてる?」
「あー……」
どう答えたものかと言葉を濁すシャノに、キイは続ける。
「学校ですげえ話になっててさ、危ないから夜は早く帰れって先生たちがしつこいんだよ。なあ、メチャクチャでかい爪で襲ってくるってマジ?」
「爪はどうかなぁ、それじゃ怪物っぽいよ。犯人だって人間なんだし、もうちょっと普通じゃないかな」
「えー、じゃあやっぱでっかいナイフとか、カタナとかかな」
子供にとっては切り裂きジャックの話題はコミックのようで刺激的なのか、キイは饒舌だ。
「おいキイ、そろそろ焼けるだろ。取ってきてくれ」
「えー、はーい」
見計らったように父親に言われ、渋々とキイは店の手伝いに戻る。
「エディスンさん、良くなかった? 子供に事件の話なんてしちゃって……」
「どうせ外で散々聞く話だ。それに俺の息子だぜ? 実際に危ねえってことは解ってるさ。……まあ、っつてもだな」
ニヤリ、と意地悪くエディスンは笑った。
「最初は怖くねえなんて馬鹿言うからよ、ホラー映画を借りてきて散々脅してやった」
「……成る程」
この豪胆な親が居れば、キイもきっと彼とよく似た、我が強く口が悪く、それでいて憎めない大人へと健やかに育つことだろう。
「はい、お待たせ!」
キイによって運ばれた出来たてのパンたちが店内を香ばしい匂いで包む。
「ほら好きなやつ持ってけ持ってけ、御前が一番乗りだ」
「有難う、エディスンさん」
そこに、時間を合わせたように店の扉が開いた。
「よお、焼いてるか?」
現れたのは、長身の若い男。シャノは知らない相手だ。中々整った顔立ちの男で、長い赤毛が目についた。
「御前か。いつも時間通り、規則正しいこったな」
「オッサンとこのパンが一番美味いからな」
「バーカ、御前、それどこでも言ってるんだろうがよ。こないだロウのとこのパン抱えてるの見たぜ」
「あっはっは! 見られたか! あそこのパンも良いよな」
若い男はエディスンと親しげに話し、それからカウンターの前のシャノへ視線をやった。
「よう、御前もここの常連か?」
「主には普通の食料品が目当てだけどね」
「へえ、勿体ねえな。俺は最近通い始めたんだが、良い店だよな」
ラフな格好。目元の色付きの眼鏡で少し表情が図りづらい。
男は頷きながら、並んだパンを物色しだす。目当てはジャム入りパンのようだった。
「御前は近所のヤツ?」
赤毛は尋ねた。そう尋ねるということは、この男は近隣の者ではないのだろう。
「そうだね、まあ、近所と言っても二停留所先なんだけど」
「コイツ、探偵やってるんだぜ」
「探偵?」
「ハハ、自称だけどな!」
「もー、エディスンさん……」
からかうようなエディスンの物言いに、赤毛は興味深げに目を丸くした。
「へえ、探偵っていうと、小説みたいに事件を解決したり?」
シャノは苦笑した。
「そうだったらカッコ良いんだけど、まあ浮気調査とか、ペット探しとか、そっちの方だよ」
「ふーん、良いじゃねえか、人のためになる立派な仕事だろ」
「ありがとう、そう思って貰えたら嬉しいよ。貴方はどういう仕事を?」
「ンー、今はここらのパン狩りが仕事かな?」
「フフ、何それ」
赤毛の冗談めいた物言いに、シャノは苦笑した。
「だってここら、意外と良い店が多いんだよな。穴場っていうの?」
「そうだぞシャノ。こいつは解ってる。モノ買うのは良いが、パンもちゃんと買いに来い!」
「分かった分かった、また買いに来るって」
パンの焼ける時間はシャノにとって都合がつけづらいのだが、ここのパンが美味なのは事実だ。エディスンも喜ぶ。
「じゃあまた、御前と顔を合わせるかもな」
「そうだね、お兄さん。その時は宜しく。じゃあね、エディスンさん」
赤毛の男とエディスンに別れの挨拶を交わし、シャノは荷物を抱えて店を後にする。
――赤毛。少し、昨晩の手がかりのことを思い出す。
けれど、大通りに出、往来する人々の中に幾人もの赤毛を認めると、シャノは苦笑し、すぐにその引っ掛かりは霧散していった。
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