1/ 死より来たる1

 ――夜に似合うのは静寂だと、誰かが言った。


 けれど、この夜に、この闇に。そのようなものは与えられなかった。


 悲鳴。赤色。悲鳴。

 誰かの泣き声が聞こえている。誰かの血が溢れている。

 襲い来る影の鋭い刃が、人々の肉を切り裂き、貫く。


 開いた腹から血液とともに内臓がこぼれ出る。苦悶の声がこぼれ出る。

 床に転がる千切れた体。壁に飛び散る肉塊。夜闇に消えゆく声。

 誰かを守ろうとした者も。誰かを見捨てて逃げようとした者も。等しく殺戮されてゆく。

 何人も、何人も、何人も。

 

 悲鳴。赤色。悲鳴。そして――静寂。

 その路地が真っ赤に染まり切った時、ようやく夜は相応しい静けさを取り戻した。


◆ ◆ ◆


 ――その日は、生憎の曇天だった。


 生憎。即ち、いつもの通り。

 上空から落ち始めた雨粒に高層部のネオンが反射し美しく煌めく。空を見上げれば、人々はその叡智の輝きを見ただろう。もしもそんな下層民が、居たならば。


 煌びやかなりし栄光の電脳機科都市。かつてはニューフォートと呼ばれた大帝国の都。今やその名を冠するのは、天高く掲げられた上層プレート地域”ガーデン”のみだ。

 上層下層を合わせた全体の正式名称は、その都市の中央を貫く川の名に因み、テムシティ。下層のみを指すならば、それはデューストと呼ばれる。即ち、東の塵ダスト・イースト


 芸術の如く洗練された科学技術により、複数のプレートが高架橋道によって繋がれ、入り組み絡み合い、美しい幾何学模様を呈した人智栄える上層プレートと、それを羨望と嫉妬を交えて見上げる下層プレートは違う世界、違う都市なのだ。


 僅かに酸性を帯びた雨粒がぽつりぽつりと地面を濡らしてゆくのを見、下層の汚れた通りを歩く人々は帽子を目深に被ったり、コートの襟を窄めたりしていた。それはあくまで気分程度のものだ。


 最盛期に比べ、今日こんにちの酸性雨にはそれ程酷い影響はない。三十年ほど前、蒸気科学が世界を牽引していた昔はそれこそ公害と呼べるもので、防雨コートなしに数時間酸性雨に打たれれば死に至る程であった。下層にまで電送線が張られつつあるほど科学技術が発達した今では税金で清浄装置が設置され、雨は概ね浄化されている。

 それでも人々は、雨が降れば気持ち程度にも肌を隠す。そうする事で、己の知性を確認するかのように。


 人々が次いで雨宿りを始めるのとは反対に、一人、雨脚強まる通りを抜ける者が居た。裾のよれた茶色いトレンチコートに鳥撃帽ハンチング

 大昔の娯楽小説に登場するかのようなその若者の足取りは確かだ。


 大気に満ちる湿度に乗り、下水の臭気が強くなる。男が一人、小型通話器セルフォンに怒鳴りつけながら通り過ぎた。雨の日は電波の状態が良くない。これが上層部であれば、洗練されたアンテナのおかげでそのような事はないが、そのような技術が下層にまで及ぶのは一体何年後の話か。


 少し身なりの良い学生がタクシーを探している。彼は恐らく将来は上層を目指すのだろう。下層から上層へ移る、そのような野心的な人間も時折居る。だが多くはここで生まれ、死んでいく。上層の管理された大気の胸のすくような心地よさも知ることなく、この停滞した街の中で。

 古びたタクシーが煤けた排気を出して学生の前に停まるのを見ながら、トレンチコートの若者は角を曲がり細い路地へと入った。


 人目を逃れるように足音を立てずに路地を進み、その先に警官の姿をを認め足を止める。暫し思案すると、若者は目的の方向から大きく迂回した道を選んだ。

 割れた窓をくぐり、随分前に廃墟となった建物の中を慣れた様子で歩くと、用心しながら反対側の窓を抜け外に出た。


 目的の場所は裏路地から少し奥にある、小さな酒場の前だ。そこには誰もいなかった。野次馬も、警官も、住民も。

 あるのは、かつて生きていた者の痕跡だけ。


 それは、凄惨の一言に尽きた。


 死体が片付けられても、その場にはその夜の痕跡がありありと残されていた。

 石畳に、建物の壁に、犠牲者の血液がバケツをひっくり返したようにこびり付いている。黒ずんだその色は出来事から時間が経ったことを感じさせる。

 人の形に貼られたテープや、痕跡に添えられた番号札がなくてもここで何があったか解らぬ者はいないだろう。


 ――これは、だ。


「まだ探偵なんてやってンのか、シャノ」


 突如、背後から名を呼ばれ、トレンチコートの若者、シャノ――シャノン・ハイドは振り返った。

 雨空の下、コートの裾が重く翻る。年齢にしては落ち着いた目つき。その若い風貌は長い髪に包まれてなお、男のような、女のような曖昧な印象を受ける。

 シャノは罰の悪そうに苦笑した。


「流石は警部、いつもお仕事ご苦労様です」

「全く、いつも何処かから嗅ぎつけてきやがって……野良犬みたいな真似してないでさっさと帰れ、シャノ。逮捕すんぞ」


 警部と呼ばれた壮年の男は最近出っ張りだした腹を揺らし、不機嫌そうに言った。

 ジョン・ブロディ警部。頼りがいのある貫禄を持ち、部下からも慕われていると評判の熟練の男で、シャノとは長い付き合いだ。


「久し振りですね、お元気そうで何よりです。隠れてチョコバーを食べていること、まだ奥さんにバレていませんか?」

「下らん雑談で話を逸らすな。バカに見えるぞ」


 ブロディは不機嫌な顔で眉を寄せたが、その手は増量しつつある腹に触れていた。ブロディは愛妻家だが、同じくらい甘いものを愛している。


「ファイヤースター社のチョコバーはやめて、せめて糖質制限商品にしたらどうです?」

「甘さが足りないんだよ、甘さが。それと腹のことを言おうが、話は変わらないからな、バカ野郎」

「駄目ですか。厳しいですよね、警部」

「今俺が厳しいのは、怒ってるからだ」


 ブロディはシャノを睨み、現場に顔を向けた。塗りたくられたような血の海の跡。

 否が応でもここで起こったことを想像させられる。犠牲者の恐怖や苦しみを。


「こんな事件に興味を持つんじゃねえ。ここだけでも何人死んだと思ってる。朝起きてみれば、死体、死体、血の海! 犯人の手がかりは欠片もなし! まったく反吐が出る」

「……でも、もう何度死人が出てるんですか」


 血の海から目をそらさず、シャノは言った。

 そう、この惨劇は初めてのことではなかった。今回で四度目のことであり、これ以前の事件も犯人は見つかっていない。


「ニ度目は先月。三度目は今月初め。そしてそれから一週間と経たずに――また、昨晩の惨劇」


 一度目と二度目は今とは少し違った。凄惨な死に様は同じだが、犠牲者は一人だったのだ。だが三度目からは変わった。今回と同じく、現場は血の海で何人もの犠牲者が出た。犯行時刻はいずれも夜。


 被害者の肉体はどれも酷い有様だった。元はヒトを形作っていたはずの内臓や四肢はばら撒かれ・・・・・もがれ・・・飛び散っていた・・・・・・・

 大型耕運機トラクターに轢かれたかのように滅茶苦茶な有様ながら、悪趣味なことに頭部だけは殆ど傷つけられることもなく、裁断された手足に紛れてゴロリ、と苦悶の表情が転がっていたという。

 

 とても人の所業とは思えない事件だった。そんな怪物が、今も都市の闇を彷徨いている。


「何人も死んで、こんなに凄惨な現場なのにただの一人の目撃者も、声を聞いた者すらいない」


 シャノは壁に手を触れた。今回の事件現場は酒場だ。裏路地に位置する、近隣住民に愛される小さな酒場。そこが何者かに襲われ、多くの人が殺された。逃げ出した者を追ったのだろうか、店の前の路地まで血に染められ、それでも誰一人その場を見たという者は現れない。

 異常な事件だった。新聞は当然、面白おかしく騒ぎ立てた。犠牲者の殺害方法から、――”怪物・切り裂きジャック現る”と、正体不明の犯人に名前までつけて。


「警部たちが頑張っているのは解っています。でも、上層ガーデンはどうですか? 結局は下層ダスト・イーストの事件じゃ、予算も性能の良い機材も下ろしてくれないでしょう。本当は見つかるはずのことが、確かに存在している犯人に繋がる情報がこうしている間も、闇に消えていく。だったら、わたしも何か出来ることをしたい。警察じゃない、わたしのようなフリーなら闇に零れ落ちる情報を拾い集めることも出来ます。上層の綺羅びやかさがなくても、ここはわたしの街です」

「街の役に立ちたいなら、大人しく不倫調査や犬猫探しでもしておけ」


 ブロディは絆されず、冷静に言い放った。


「……シャノ、解っているだろ。何も御前に意地悪をしたいわけじゃねえ。俺は……」

「……。解ってます、ジョンおじさん」

 シャノも理解している。ブロディはただ素人を追い払いたいのではなく、その身を案じているのだ。


「だったら帰れ。こんな現場になんか居ずにな」

「見つかった以上調査はさせてくれなさそうですし、今日は引き下がります」

「”今日は”じゃねえ、二度と来るなバカ。おい、普通に表には出るなよ、部下に見つかると面倒くせえ。来た道で戻れ」

「はーい」


 言われた通り、シャノは来た時と同じ、窓の割れた廃墟へと戻っていく。

 ……ひっそりと、小さな手がかりを握りしめて。




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