『幽霊』

 今の時代、外に出なくたって生きていける。外に出ないから新しい服なんていらないし、けど可愛い寝間着必要ね。食事はお母さんが持ってきてくれる。ネットがあれば暇はしない。私はこの家で、この部屋で、もう一年間過ごしている。高校三年になったはずのこの春、何の変哲もなかった私の生活は、この男にあっけなく壊された。

「ねえ、出て行ってくれない」

「君が学校に行くならいいよ」

 部屋の前に置かれていたチャーハンにパクつきながら、私は後ろに下がり、目の前の男と距離を置く。

一週間前、こいつは突然現れた。そう、本当に、突如忽然唐突に。朝起きたら知らない男が隣で寝てましたなんて、三文小説のネタにもならない。だって三カ月前ネットに投稿したそのネタの小説の観覧数は〝十五〟から全く伸びないのだから。

「お母さんだって心配してるよ」

「……うるさい。そもそも何なのよあんた。幽霊なんてふざけないでよ」

「幽霊じゃなかったら警察呼ばないと。それかお家の人に確認してもらいなよ。誰もいないって言われるだろうけどね」

 警察なんて呼べるわけない。引きこもりの上に警察を呼んで騒ぎを起こすなんて。それに家族とも話したくない。誰の声も聞きたくないのだ。それにもう諦めている。だってこの男には触れることができなくて、少なくとも普通の人間ではないのだ。

「俺がいた方がいい暇つぶしになるだろ」

「邪魔なだけよ」

 食べ終わったお皿を元の場所へ。お盆が通る隙間だけ開ける。ドアの外は見るのだって嫌なのだ。

「ねえ。顔みせてよ。まだちゃんと見たことない。前髪切ったらいいのに」

「絶対いやよ。ブスの顔なんて見てどうするのよ」

「ブスなの?」

「そうよ」

「誰かに言われた?」

「クラスのやつら。ご丁寧に机とか、ノートにも書いて……」

「ふーん。それじゃあ確かめさせてよ」

「ちょっと何!?」

 男の手がこちらへと伸びた。私はそれを振り払おうとしたが、当然、私の振り上げた手は空を切っただけだった。

「そんなに抵抗しないでよ。俺は君に触れないんだから」

 その声はどこか寂しそうで、私はどうしてか心が痛んだ。

「咄嗟に手が出ただけよ」

「ということで、君が自分で前髪を上げないと俺は顔を見れないから、どうぞ」

「どうぞじゃないわよ。絶対に嫌」

「それじゃあ俺の顔を見てよ。その前髪じゃあ、俺の顔だってまだまともに見たことないんじゃない?」

 そうだ。私はこの男の顔を知らない。ずっと俯いていたから。

「え……!」

 私は前髪を手のひらでそっと持ち上げた。どうしてこんなことをしたのか分からない。だけどこの男が、彼が、悲しそうな表情をしている気がしたから、放っておけないと思ったのだ。

「あ……、かっこいい」

 くせ毛なのか、毛先にかけて髪がうねっていて、その前髪から除く切れ長の目は、私を真っ直ぐに見ていた。

「そんなストレートに言われると照れるな」

「あっ、今のは違うから!」

「じゃあ俺もストレートに言わないとね。ほんと、早く見たかったよ。ねえ、すごく可愛いんだね」

 目頭が熱くなったと思ったら、次の瞬間には涙が流れた。

「どうして泣いてるの!? 泣かないでよ。俺は、君の涙を拭ってあげられないんだから」

 たったこれだけのことだけれど、前を向くことは悪くないかもしれない。そう思った。この感情は今この瞬間だけのまやかしだったとしても、それでも、確かに感じたこの喜びを、彼にもらったこの心を、私は信じることができる気がした。

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