第6話 目覚め

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 空はもう真っ黒になり、明るい月明かりがその周りの星々の存在を消している。

 今夜の月は殊更に大きく明るい。何億年もの時間をかけてようやくたどり着いた星々の光は、最も近くにある衛星を照らす太陽光により儚く消滅してしまう。クレーターの一つ一つまではっきりと見えるほど存在感のある月は、地面に照らされた男の影をより濃く映した。

 男の眼下には麓の町の明かりがもう目の前に迫っていた。

 さっきまで歩いていた足元はもう随分前からアスファルトに変わっている。地面は歩きやすくはなっているが、この日まで歩き続けた膝が痛む。

 道の両側には倉庫のような建物が忘れ去られたかのように朽ち果てていた。周りには草木が鬱蒼と生え、時折吹く風にトタンの壁がコンコンと音を立てている。

 ようやく、ゴールが見えた。男の足取りも少し軽くなった。


 家に着いた亮介は、制服のままダイニングテーブルについた。リュックは床へ無雑作に落とした。

 仕事で遅くなる父親と亮介の二人ぶんの夕食の大皿がラップをかぶせられて寂しそうに待っていた。

 リビングでは中学生の妹の祐奈がソファに寝そべってテレビのバラエティー番組を見ている。

「お兄ぃ、早く食べて洗い物済ませなよ。またお母さんに怒られるよ」

 祐奈はこっちも見ないで言った。

「わかってるよ」

 亮介も祐奈を見ないで返事を返す。いつもの風景だ。

 亮介は立ち上がり、味噌汁を温め、ご飯をいつもの茶碗に盛った。いつもの自分の席に座り、茶碗と味噌汁を一番手前に置いた。

「いただきます」

 小さく呟いて、箸を片手に猛然と米、オカズ、汁、のローテーションで口に運ぶ。全てがいつもと同じルーティンだ。

 程なくして亮介の腹は満たされた。冷えた麦茶を一気に煽ると、今まで残っていた夕食の香りや味が全て綺麗に胃に落とされた。

 ダイニングテーブルに残された食器を眺めながら亮介は左胸の重たさを感じていた。

 胸ポケットに手を入れてみる。ブレイドに触れる。取り出して天井の照明に照らして眺めてみる。透明の楕円形は冷たく硬い。爪で引っ掻いてみても、弾いてみてもそれは傷一つつかない。といって、鉄やステンレスのような硬さがあるわけでもなく、程よく手に馴染む。

「これから、コイツが俺を守るとか武器になるとか…信じられないな。」

 亮介は手に力を込めて強く握ってから、また胸ポケットにブレイドをしまった。


 亮介が着信に気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。

 携帯が入っているリュックはリビングの床に落としたまま夕飯を食べたから、その中は確認しなかった。

 そういえば、バイトからの帰りに携帯が光っているのがわかったが、早く帰りたい一心で無視していた。

 何気なく、ベッドに横たわりながらリュックから携帯を取り出すと、着信履歴がこの小一時間の間に十五件も入っていた。それら全ては慶長からだった。着信履歴の多さから慶長の逼迫した雰囲気が伝わってくる。

「何だよ。どうしたんだろうか?」

 亮介が不思議に感じたその時、手に持っていた携帯がブルブルと震えた。名前は「織田慶長 龍告寺」とあった。

「もしもし」

 亮介が慌てて電話に出た。

「もしもし、やっと繋がりましたな。」

 それよりも慌てた様子で慶長が話し出した。

「えらいことになりましたよ。」

「なにが?どうしたんだ?」

「それは、もう、大変なんです。」

「だから、なに?」

「いや、だから、とにかく早くこちらに来て下さい。」

「はぁ?今から?」

「はい。今すぐに。」

「何で?急に言われても。それに何も話してくれてないし。」

「話しは、ここに来られるとすぐにわかってもらえるかと。」

「いやいや、とにかく、概要だけでも教えてくれよ。」

「概要もなにも、コバトが起きたんですよ!」

「コバト?」

「そうです。あのコバトが目を覚ましたんです。」

「そうか。それで。」

 亮介はコバトの存在を忘れていた。

「あれ?あまり驚かないのですね。」

「いや、それは、驚いてるよ。」

 亮介の頭の中はフル回転でコバトを思い出していた。

「とにかく、こちらへ来てもらえないですか?」

 考えを巡らせていた亮介の神経回路が急につながった。「ピン」ときたとはこのことなのか。頭の中はすっきりと、ハッキリとコバトを思い出した。

「わかったけど、もう夜も遅いし。明日にしてはダメ?」

 慶長に悟られないように敢えて、努めて冷静に答えた。

「何で!今すぐきて下さい!」

 慶長の勢いが、迫力を増している。

「わかったよ。とにかくちょっと待ってて。支度するから。」

「早くきて下さいよ。待ってます。」

 そう言って慶長は電話を切った。

「ふう」

 あのコバトが目を覚ました。そうだ、初めて龍告寺に行った時に出会った女の子だ。あの子の吐いたものが俺にかかってから、変な夢を見て俺はいつものようにはいかなくなったんだな。不思議と亮介の心にはコバトを恨むような気持ちはなかった。しかし、あれから、コバトはずっと眠りぱなしだったのだ。恨むよりむしろ、コバトが目を覚ましたことに安心している自分がいた。

 亮介はリュックの中にブレイドを入れて制服のシャツの上から、厚手のパーカーを羽織り部屋を出た。


 龍告寺の門前はシンと静まり返り、亮介のバイクの音が普段よりもけたたましく聞こえる。亮介は龍告寺の門前にバイクを止めた。

 亮介はヘルメットを脱ぎバイクのインジェクションキーを左に回しエンジンを切った。エンジンの残響と入れ替わるように、あらゆる周りの音がクッキリと耳に届いた。緩やかな風に揺らされ、隣り合う葉が擦れ合う音、それによりきしむ枝、翔陵川の穏やかな水音、麓の幹線道路を走り抜ける車のエンジン音が遠くに聞こえる。

 亮介はさっきまでバイクのライトに照らし出されていた龍告寺の門を見上げた。いつになくこの巨大で違和感のある門前は来るものを威嚇し、この門を潜ろうとするものを拒んでいるようだ。玉を咥えた龍の目が眼光鋭くこちらを睨んでいる。ましてや、今の空は漆黒の闇に覆われている。大きく明るい月は巨大な門の後ろに隠れ、逆光となり光だけがその門の輪郭を際立たせていた。

 主となる門扉の右側に勝手口が添えられている。大人がギリギリ通れるほどのその小さな鉄の扉が少しだけ隙間を作っていた。亮介はその勝手口を開きそろりと中を覗き見た。

 境内に光はなく、左右に植えられている松の木も闇に隠れてその存在も小さくなっているようだ。周りの雑木から聞こえてくる小さな虫たちの鳴き声が静けさをより際立たせる。

 妙に明るい月明かりが本堂の影をこちらに引き伸ばし、そこから漏れるロウソクの明かりを薄くボンヤリと淡くさせていた。

 亮介はゆっくりと本堂に向けて歩き出した。

 玉砂利の足音だけが辺りに響き渡った。


 本堂の中は薄暗く、薬師如来像の足元に太いロウソクが二本、小さな炎を揺らしていた。下からロウソクの炎に照らされた薬師如来は、黄金色に染まり顔の陰影がよりはっきりとし、微笑みを浮かべている口元が妙なリアリティーを持っていた。相変わらず、右手は上にあげ、手のひらをこちらに見せ薬指だけを少し前に出した独特のポーズはこの仏像が薬師如来像だと言うことを物語っている。左手の上に乗せられているコロッケは昼の太陽光でみる雰囲気とはまるで異なり、ロウソクの少ない光量で衣にあたるモコモコとした柔らかそうな感じはなく、むしろ恐ろしく鋭い無数の突起物のある投擲系の武器のようにも見える。

 この薬師如来は昼の顔と夜の顔の両面を併せ持っているようだ。

 両脇に脇侍として備えられている日光月光の両菩薩は薬師如来像より少し前に置かれているので、ロウソクの光は足元から背中にかけてボンヤリと照らされている。この両菩薩がちょうど光の分散を抑える壁のような役割をなし、また背中の金箔が光を反射させその反射光が薬師如来を照らし続けるかたちになっている。そのため、薬師如来像の輝きに比べ、背後からの斜光気味に光が当てられた両菩薩は暗くその表情は夜の闇に溶けていた。

 電力はこの本堂では使われていないようだ。本堂の中を照らす光源はこの薬師如来像を照らすロウソクと、本尊を囲う二本の横板を支える四隅の支柱の上に薬師如来像のロウソクよりも少し小ぶりなロウソクが燃えているだけだった。その小ぶりなロウソクはそれぞれの食べ物を模した擬宝珠を優しくも怪しく照らしていた。

 慶長が薬師如来の足元に置いている前机を整理しているのが見えた。黒漆が黒々とひかる、四隅に彫金が施されただけのいたってシンプルな作りの前机。慶長はその引き出しから香炉に入れる香炉灰を掬うスコップの様なものを片付けようとしていた。

「どうも」

 亮介は背を向ける慶長に声をかけた。

 自分ではかなりボリュームを下げたつもりの声だったが、静まり返った本堂では思いの外大きく感じた。

 慶長がこちらに気づき顔をあげた。

「おお、亮介さん。夜分に申し訳ありません」

 慶長は引き出しの扉を音もなく閉じ、前机の上を傍に置いていた雑巾でサッと一拭きして形ばかりの合掌をした。

 そして、改めて亮介に向き直り

「ちょうど夜の仏様のお掃除が終わったところです。」

 とよく通る声で言った。

「我々は日々こうして、お掃除をさせていただいています。」

 とまた合掌をした。静かな本堂に慶長の言葉が響く。

「へぇー、毎日同じように掃除するなんて、お坊さんも大変なんだね。」

「いえいえ、お掃除は最も大切な修行の一つとされていますから。これは苦ではありません。」

「はあ、何でも修行なんだ。」

 亮介は慶長の生真面目な勤勉さに感心するとともに、幾分かの不器用さも感じた。

「ところで、コバトが目を覚ましたって?」

 亮介は本題に入った。

「そうなんです。突然目を覚ましたらしく、私が夕方のお勤めをしていると、この本堂にフゥッと姿を現したんです。」

「夕方に。俺、完全にその頃きっとバイトの真っ最中だったわ。なんか申し訳ない。それで?今は?」

「それが、ふらふらとこの本堂にやってきて、何かを確認するように周りを歩いたらまた部屋に戻ってしまったんです。」

「じゃぁ今は、あの部屋にまだ居るってことだね。」

「そうです。あの子がどこにも行っていなければ。」

 亮介はゆっくりと本堂を見回した。特段変わったところはない。相変わらず奇妙に輝く薬師如来像と両脇の菩薩が並んでいる。

「とにかく、部屋に行ってみよう。」

 二人は奥の離れにある部屋に向かった。

 本堂から離れに至る渡り廊下は、外気に触れひんやりとしていた。あかりは無く、合わせ木の板間はギシギシと二人のはやる足音を強調させた。

 暗い夜の渡り廊下を渡りきり、二人は観音堂に入った。観音堂の中は抑え気味のオレンジ色の光で照らされ、本堂ほどの薄暗さは無く部屋の様子が確認できた。昼間に見た真新しい十一面観世音菩薩は、厨子の扉が閉じられその様子は見られなかったが、木の独特の匂いが鼻腔をくすぐる。亮介は迷わず右の部屋にむかい、慶長は一旦立ち止まって観音菩薩が収められている厨子に向かって合掌、一礼をした。

 亮介は部屋の扉の前に立ち、息を整えた。短い距離の移動だったのに、妙な緊張感からか胸は高鳴り呼吸は少し乱れていた。

 亮介はすりガラスの扉の取っ手に一旦手をかけたが、すぐに手を離した。深く深呼吸をし、気持ちの落ち着きを少し待ち、静かに扉を開けて畳敷きの部屋にはいった。

 部屋の中は新しい畳から出るい草の匂いとお香の香りが混ざり合い、部屋中に行き渡っていた。亮介にこの匂いは心地よく、より気持ちを落ち着かせた。

 部屋に明かりは無く、窓からさす月明かりだけが青白くボンヤリと部屋全体に膜を張ったような印象を持たせた。そんな整理整頓が行き渡った薄暗い部屋の真ん中に敷かれた布団の上にコバトは背中を向けて座っていた。

 敷居を跨いだところで、亮介は声をかけてみた。

「コバト…ちゃん?」

「………」

 返事は無い。

 コバトは部屋にあるたった一つの窓に目を向けている。花の蕾が太陽の方角に向くように、コバトは月明かりが夜を照らしている窓の向こう側を見ているようだった。

 遅れてやってきた慶長が部屋の電気をつけ、敷居の向こう側で様子を伺っている。

 亮介がもう一歩部屋の中に踏み込んだ。静かな畳が軋む音がした。その時、胸の辺りが熱を持ち光を放ちだした。ブレイドが亮介の胸ポケットから飛び出した。慌てて亮介はそのブレイドを両手で掴んだ。ブレイドは虹色に輝き、まぶしく部屋全体を明るく照らした。熱は思ったほど熱くなく、両手からその温度が優しく伝わる。続いてミランが亮介の目の高さに浮かんできた。

「うわー。これはまたすごいエネルギーですね。これはきっと、ご主人様が持ってらっしゃるとてつもないポテンシャルでございますよ。」

「突然目の前に現れて、何を言ってるんだミラン。」

「このブレイドは、近くにあるマノコエネルギーと反応していろんな光に輝くんです。その光が多ければ多いほどエネルギーは大きいということなんです。しかもこんなにたくさんの色がある。このエネルギーは凄いものだと思いますよ。」

「いやいや、俺まだマノコとかお前とか完璧に受け入れられていないんだけど。」

「すぐに慣れますって。」

 そう言ってミランはコバトの正面にふわふわと浮遊していた。

「ああ、もうお目覚めになってますね。あなたがコバト様ですね。以降よろしくお願いします。」

 ミランはペコリと頭をさげた。

「ご主人様、こちらへいらして下さい。コバト様の目が開いてますよ。」

 促されるまま、亮介はコバトの向かい側に移動した。

 改めてコバトの顔を見ると、肌は抜けるように白く真っ赤に染まった口元は小さく閉じられて、小ぶりな鼻とキリッと上を向いた眉毛が美しかった。その大きな目は焦点が合わず右目は閉じたままで、左目だけがパッチリと開けられていた。瞳は薄いグレーでその瞳がコバトの境遇をより仄暗く印象付けていた。

「外はまだ暖かいの?」

 焦点の合わない目で、コバトは小さく呟いた。

「もう夜だよ。少し肌寒いかな。」

「ふーん。でももうすぐしたらこの辺は厚い雲に覆われて大粒の雨になるわ。その前に早く準備を急がなきゃ。」

 亮介は何のことかわからなかった。

「あなたのコはこの子ね。」

 コバトはミランを見て言った。

「はい。ミランと名付けていただきました。」

「そう。」

 コバトは興味なさそうに、また窓を眺めた。

「早く準備をしてあげてね。」

「はい。」

 ミランは小さく答えてまた亮介の胸におさまった。

 コバトはゆっくりと体を布団の上に横たえると、また小さな寝息を立てはじめた。

 亮介はその光景をただ黙って眺めていた。

「さぁもういいでしょ。」

 部屋の外でこの様子を眺めていた慶長が声をかけた。亮介は小さくうなずいて、コバトに掛け布団を優しくかけてあげた。コバトは姿勢良く眠っている。

 本堂に向かう廊下は少し空気が重たくなっていた。亮介は慶長に尋ねた。

「準備ってなんだと思う。」

 先を行っていた慶長は懐中電灯で足元を照らしながら、振り向きもせず

「多分、何かが起きるかもしれない予言めいたものなのかもしれませんね。」

「それは一体どういうことなんだろう。」

「わかりません。あの子が特別な子だということぐらいしかわからないので。」

「そんなんじゃ、準備のしようもないじゃないか。」

「そうです。だから我々は日常通りに過ごしていくしかないのかもしれません。」

「ミランは何かわかっているようだったけど。」

「そうですね。もしかするとマノコ達だけが感じていることがあるのかもしれません。」

 本堂に戻ってきた二人は、直接寺務所に入った。

「今お茶をいれますね。」

 慶長が寺務所の奥にある棚に手を伸ばした。

 寺務所の入り口から一番近い椅子に腰掛け、亮介は本堂に目をやった。寺務所から見る本堂は暗く、薬師如来の左右にある献蝋の炎がぼんやりと光っているだけであった。

「そういえば、今日恵さんは?」

 背中を向けている慶長に亮介は聞いた。

「病院に行ってます。何やら今日は大切な日らしくて。」

「恵さんどこか悪いの?」

「いやどこか悪いというわけではなく、ちょっとした検査みたいなものですよ。」

 慶長はお盆に湯飲み茶わんを乗せ、慎重に運んできた。

「まぁ私にはよく分かりませんがね。」

 亮介は湯飲み茶碗を受け取り一口お茶をすすった。ほどよい温度の緑茶の甘みが口いっぱいに広がった。鼻から抜けるその香りは気分を落ち着かせた。

「少しお時間よろしいですか?」

 慶長が神妙な面持ちで亮介に聞いてきた。

「ん?別にこの後の時間は大丈夫だけど」

「良ろしかったら少し見てもらいたいものがあるのです」

「見てもらいたいもの?」

「はい。これはきっとこれからの亮介さんに物凄く重要なことになるかも知れません」

「何だろう?」

「とにかく、少し席を外します。失礼します。」

 そう言うと、慶長は席を立ち寺務所から出て言った。

 一人取り残された亮介は改めて寺務所の中を見回した。

 八畳ほどの広さの寺務所には、壁伝いに大きな書類棚が置かれ、何やら書類や寺のパンフレットなどが雑然と置かれていた。縁起書やお経に関する書籍も多く見える。そして、横置きにされて大量にあるサイズの違う封筒にはそれぞれ「総本山 龍告寺」の文字が住所とともに印刷されている。

 その書類棚の隣には、急須や茶葉や湯飲み茶碗などが置かれている亮介の身長ほどの食器棚がある。木製の食器棚はいかにも寺の調度品らしく、重厚で歴史を感じさせるものだった。

 棚の向かい側は本堂に向けて窓ガラスが貼られている。寺務所からは本堂が一目でわかるようになっていた。その窓ガラスの下側には、朱印を書くための墨液と硯が大きな机にキチンと整理されて置かれていた。

 ダイニングテーブルのような机が椅子とともに部屋の真ん中に置かれている。

 亮介は足元は畳なのに、ダイニングテーブルという不一致に純和風建築である龍告寺に異様さを感じた。

 亮介はお茶を一口すすった。

 ひと心地ついた亮介はミランを呼び出した。

「ミランは何か知っているのか。」

「はい。知っていると言えば知っているのですが、私の口からは言えません。私の役割はご主人様をお守りすることですので。」

「なんだよそれ。」

「本当に申し訳ないのですが、ご主人様の成長が私の成長にもつながります。いずれ時が来れば理解してもらえると思います。」

「でも、準備をしろって言われた。これじゃぁ何を準備していいかわからないし、何も動きようがないじゃないか。」

「そうなんですよね。でもいずれわかります。それよりマノコの鼓動が少し強くなっています。早く手を打たなきゃです。」

「まぁ、乗り掛かった船だからそのマノコ退治には付き合うけど。」

「ありがとうございます!」

 ミランは大きく微笑んだ。

 ほどなくして、慶長が細長い木の箱を両手で持ち部屋に入ってきた。

 それをダイニングテーブルの上に優しく置いた。

 その箱は煤けて、退色が激しくいかにも年代物のようだ。

 蓋には筆書きで何か書かれているが、ミミズが這いずり回ったような字でかつ、所々経年劣化のため墨が消え途切れていた。

 亮介にはここに何が書かれているのか全く読めない。とにかく、箱の形状や、慶長の扱い具合から、古く貴重なものであることは感じ取れた。

 慶長は慎重に箱の蓋を開けた。

 その箱の中には薄紙に包まれた巻物が入っていた。

 その巻物は、箱にぴったりと収まり全く隙間がなかった。

 亮介はカビと埃の匂いが立ち上ったような気がした。

 慶長は巻物の片側に指を掛け慎重に箱から取り出した。

「この巻物は龍告寺に代々伝わり大切にされてきた巻物の一つです」

 慶長はテーブルの上にゆっくりと巻物を拡げていった。

 相当な年代物であろう巻物だが、中の紙は劣化があまりなく小さな茶色いシミが点々としているだけだった。

 巻物の中は線の細い文字で何やら書かれていた。

 当然、亮介には一文字も読めない。

「この巻物は今から四百年以上前、明暦三年に起きた麓の街の大火災の様子を記しています」

「ほう。挿絵の一つでもあれば分かりやすいのにね」

「いやいや、この内容をお分かりになられると、絵なんてかけないということがわかりますよ」

「これ、何て書いてるの?」

「ここにはこう書いてあります」

 慶長はゆっくり、一文ずつ丁寧に指差しながら読み出した。

「ここに記す。明暦三年、麓の町に大きな火災ありき。火災は三日三晩続き、街のほとんどを焼き尽くしき。わたりは逃げ惑ひ、略奪や暴力がいたるさるほどに驚きき。わざと川沿いの集落はあらゆるものやわたりが消えてなくなり原野となり、いと人が住めるようなる状態にあらざりき。全ての災いは二つの玉が合わさりし時に起こる。この玉を引き離し、封印するが何よりも解決なり。ですな」

「んんん?…なるほど…よくわからん。古文の授業なんて、睡眠時間だもん」

「はぁ、情けないですな。この程度の文章が読めないとは。嘆かわしい」

「うるさいよ!それよりなんて書いてるんだよ!」

「要するに、明暦三年、麓の町で大きな火災がありました。この火災は三日三晩続き、町のほとんどを焼きつくしました。人々は逃げ惑い、略奪や暴力が街のいたるところで起きました。特に川沿いの集落はひどくて、あらゆるものが無くなり原野と化しました。とても人が住めるような場所ではなくなりました。」

「えー、それって俺が住んでる街のこと?」

「はい。この麓の街のことです。それよりもここからが肝心なところなのです」

 慶長は続けた。

「すべての災いは二つの玉が合わさったことから始まりました。この二つを引き離し、封印しなければこの災いはおさまりません。とあります」

「二つの玉?なんだそれ?」

「それが、ここまでしか書かれていないので、よくわからないのですよ」

「なんだそれは。結局、この近所で大きな家事がありましたよーってことじゃん。ただの災害記録ってことね」

「まぁ、そぅ、ですね」

「それってよくあるよね。津波とか地震とか火山の噴火とか。聞いたことあるよ。寺とか神社とかにそんな記録が残されてるって」

「えぇ、まぁ。でもこれは大きな意味があると思いませんか?」

「いやぁ、でも、何か本当に絵でも描いていてくれたらもっと具体的に伝わるのに」

「我が寺に絵巻物はございません。すべて文字だけの記録しかござらんのです」

「はっはぁ、アンタ達はもしかして、絵がヘタクソ家系なんじゃ?」

 慶長の顔が急に曇った。

「えっ、図星」

「確かに私の描く絵はお世辞にも上手いとは言えません。小学校の図工科で君の絵の人物はみんな裸なんですねぇ、なんて言われたし、虎を描いたつもりが馬っぽいって言われたし、友達をモデルにする課題ではその友達がなぜか私の描く絵を見て泣き出してしまいましたし…」

「いや、その」

「私は全身全霊をかけて課題にチャレンジしたんです。それなのに、ああぁ、それなのに。なぜ泣く?なぜ泣かせてしまったのでしょう?」

「あぁ、わかったから。アンタまで泣きそうじゃないか。ゴメン。何か確信めいた急所を突いてしまったようだ」

「いえ、すべて私の不徳の致すところです。修行がたりません」

 慶長は涙をぬぐいながら、立ち上がり巻物を片付け始めた。

 亮介はその様子をただ黙って眺めるしかなかった。

 重たい空気が寺務所を包み込んでいた。

 それからの慶長の落ち込みようは酷いものだった。亮介は何か居た堪れない気持ちになってそそくさと龍告寺を後にした。結局何もわからずじまいであったが、コバトの灰色の瞳だけが印象に残っていた。

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