第5話 武器

 5


 辺りには枯れ枝を踏む乾いた足音と、男の衣摺れだけが漂っていた。

 山を一つ超えてきた男の足元は足首まで泥にまみれ、下りの山道を滑らないよう慎重に歩いていた。

 普段の山道は獣の呻きや小鳥のよく通る澄んだ声、幾万匹もの虫の羽音があらゆる角度から聞こえているものだが、まるでこの男の行く先を全ての生き物が固唾を飲んで見守るように今は静寂に包まれている。

 時折吹く風にサラサラとした葉の揺れる音だけがこの空間が現実のものである事を証明していた。

 男は日の傾きを確認するために顔を上げた。正午を少し過ぎたあたりか、太陽は地面に小さな陽だまりを作っている。

 男は焦る様子もなく、ゆっくりと確実に足元を確認するように歩みを進めた。


 風薫る五月の爽やかな風が河川敷の木々を静かに撫でている。

 亮介は翔陵川の三角州で足を川に浸して疲れた体を休ませていた。

 明らかに人の手が入っている規則的に並んだ飛び石を、川の水面が避けるようにダラダラと流れている様子を眺めていると、今まで起きてきた出来事もなぜか現実味を持たなくなっていた。

「何で俺がこんな目に会わなきゃならないんだ。」

 川のせせらぎと柔らかい日差しを受け、亮介はその景色に溶け込み、実態がなくなるような錯覚を起こしていた。

 マノコを捕獲した時の強烈な悪寒はもうほとんど感じない。ただ、思い出しただけで身震いが起きる、鮮烈で強烈な嫌悪感は体の芯に残っている。

 ブッケンの三人は亮介の後ろで何やらノートや地図を広げて作戦会議をしている。

「なぁ」

 亮介はブッケンの三人に声をかけて見た。

「……」

 返事はない。

 三人は自分たちの会議に夢中になって誰一人反応しない。

 もう一度、今度は少し大きな声で呼びかけてみた。

「なぁって!」

 これでもやっぱりダメだ。

 亮介は川からゆっくり足を抜き、車座になっている三人に近づいた。

 川の水面に亮介の足の幅で二つの波紋が広がった。川の流れは穏やかでサラサラとその波紋を溶かして同化させた。

 ブッケンの三人は真ん中にこの街の地図を広げ、何やら指差しながら小さな声でボソボソと話していた。亮介は耳をそばだてて三人の会話を聞いてみた。

 どうやら意見を述べているのは門田部長のようだ。深雪と西村は真剣な眼差しで門田が指す地図を見ている。

「・・・龍告寺がここ・・・そしてさっきのスーパーが・・・ここ」

 門田が蛍光ペンでそれぞれの位置にマークを記している。

「・・・んで、前回のスーパーが・・・ここと」

 蛍光ペンの赤い染みが地図に三ヶ所つけられた。

「ここから・・・考えられることは・・・」

「んんんんん・・・・・」

 三人が腕を組み頭をひねり出した。

「・・・・んんんん・・・・んんんん・・・」

「ダメだ、さっぱりわからない」

 西村が相変わらずの消え入りそうな声で呟いた。

「うん。何か共通項でもあればいいんだけどね」

 深雪が深く頭をもたげた。

「・・・うーん・・・これ・・・は」

 門田が地図から顔を上げた。

「・・・これは・・・こうではないでしょうか」

 二人が門田に目をやる。

「・・・が、僕の仮説を話す前に・・・我々はついに経験してしまったのです・・・」

 門田の目に力が込められている。

「・・・皆さん、ついに我々は追い求めていた超常現象に出会えてしまったのです・・・思えば、僕がこの世界に足を踏み入れたのは小学生の頃。いつも独りで休み時間を過ごしていました・・・こんな友達のいない僕を慰めてくれたのは・・・つのだじろう先生の漫画でした。恐怖新聞、後ろの百太郎、亡霊学級、空手バカ一代はスポ根でしたが・・・いつしか僕は科学では説明のつかない話や不思議な出来事に夢中になっていきました・・・いつか僕にも・・・こんな僕にも・・・と、思い続けてここまできました・・・みんなからバカにされ、虐げられ、無視され続けても・・・僕はこんな世界があると信じてきました・・・」

 ブッケンの二人は門田の話に聞き入っている。特に西村の目は赤く充血している。

「・・・そして・・・ついに・・・昨日と今日・・・目の前で僕の手首がぁぁぁ・・・燃えるようにぃぃぃ・・・あかぁくぅぅぅ!」

 門田の言葉の語尾に力がこもったその時

「部長ぅぅぅぅっ!」

 西村が門田に飛びついた。

「やりましたね!部長ぅぅ、ついに!やりましたよ。僕たち!うぉぉぉぉ!これでもう靴を隠されたり、机に変な落書きされたり、鞄にカラカラに干からびたカエルの死体を入れられたり、いじめられないで済みますよぉぉ」

 ヒョロくチビで変な長髪と坊主頭の高校生の抱擁を亮介は美しく見えながらも、アホらしく覚めた目で見ていた。

「あのぉ、悦に浸っているところ悪いんですけど・・・」

 深雪が二人に声をかけた。

「部長の仮説をそろそろ聞かせてもらえませんかね?」

 亮介も同じだった。

「・・・あぁ、申し訳ありません。・・・つい、気持ちが高ぶってしまって」

 門田は我に返ったようにいつもの聞き取りにくい声になっていた。門田の喋り方はくぐもったようにボソボソと喋る。よく聞き耳を立てておかないと必ず聞き逃してしまう。亮介は門田の話を聞こうといつも以上に集中力を研ぎ澄ました。

「では・・・僕はアポカリプティックサウンドだと・・・思います」

 聞きなれない言葉が急に出てきたので亮介は何のことか理解できなかった。

「アポカリプティックサウンド?でも音は鳴らなかった」

 深雪がすぐさま反論した。

「・・・そうです・・・音はなりません・・・」

「アポカリプティックサウンドなら確実に音が出るはずじゃない」

「・・・違います。アポカリプティックサウンドといえば・・・2011年のウクライナが有名ですよね。・・・カナダやイギリスとか・・・世界各地で聞かれています・・・実は・・・日本でも・・・あるのです・・・はじめは2011年でした・・・京都です・・・」

「それで?」

 深雪が続きを促した。

「そう・・・アポカリプティックサウンドは音だけ・・・とは限らないのです・・・あらゆる自然現象が・・・アポカリプティックサウンドに・・・ハマるのです」

「・・・部長、ハテナしか出てきませんが」

 深雪が訝しんで答えた。

「俺も。そのアポポリス?何とかって何?」

 亮介も深雪に同調した。

「えーっ!アポカリプティックサウンドも知らないの?そこからの説明?」

 深雪は大げさに驚いて見せた。

 どうやら亮介と深雪の間には大きな知識の溝が横たわっているようだ。

「アポカリプティックサウンドといえば『終末の音』って言われている音のことよ。ヨハネの黙示録に描かれていて、この音が響き渡れば世界の終わりがやってきて人類が滅亡するのよ。んでこれが最近になって世界各地で聞かれているの。」

 深雪がまくし立てるように説明した。

「・・・そうです・・・世界の終わりです・・・」

「でも何でアポカリプティックサウンド?確かに音はなっていなかった」

 西村が小さな声で囁いた。

「・・・西村くん・・・君は・・・ブッケンの研究員でしょう・・・我々は既成概念や・・・常識などという・・・通俗なものとは別離した存在でしょ・・・なぜ・・・アポカリプティックサウンドが・・・音だけなのでしょう・・・現象もアポカリプティックサウンドでいいのじゃ」

「へ?何それ?それじゃあざっくりしすぎじゃん」

 深雪がまたもや反論する。

「それじゃあ、サイコキネシスとかフーディーニの暗号とかポルターガイストとかもそれの一部ってわけ?そんな訳ないでしょう」

 深雪が大きく否定した。さらに続けて、

「さては、部長、最近アポカリプティックサウンドって言葉覚えたんでしょう。だってさっきからやたらアポカリプティックサウンドって言ってるもん。もうアポカリプティックサウンドがゲシュタルト崩壊し始めてる。要は部長は最近覚えたての言葉をさも前から知ってるかのように、そしてこれを知らない一部の人間に知識のひけらかしをしたいだけで言ってる!そうでしょ!残念ながらその言葉は私たちには通じてしまった。だからそのベクトルは中川一人に向いたと。それが証拠に見なさい!」

 深雪は後ろを指差した。

 その先にはボーッと遠くを眺めている亮介がいた。

 亮介はもう早いうちに会話を聞くのを諦め、ただただその場に立っている地蔵のような存在になっていた。

 門田部長の見解は、深雪の現実的かつオタク心理を鋭くえぐるような意見の前にあえなく撃沈した。

 気持ちを改めて亮介は一番気になっていることを思い切って切り出して見た。

「なぁ、お前たち三人は見えていたのか?」

 亮介は自分が見えているミランの事や、食霊と呼ばれるあの真っ黒い霞が他の誰かにも見えているのか確認が取りたかった。

 深雪は

「見えてるって?中川の調子が悪くなってたのは見えてたけど?」

「いや、それじゃなくて」

 目の前で起きた物理的な現実の出来事は認知できている。しかし、亮介が聞きたいことはそんなことじゃない。亮介のような幽霊や超常現象には懐疑的で詳しくもない一般的な人間には信じられないような出来事がブッケンの三人には見えていたのかどうかという事だ。

「さっきのスーパーでなんか変なものとか見なかったか」

「変なもの?」

 深雪に視線を送っていたので深雪が答える。

「たとえば、視界が急に曇って見えたとか」

「ん?」

「小さい女の子が武装して飛び回ってるとか」

「はぁ?アホですか?中川が悶絶して気持ち悪いなぁって思ったくらいで、ほかに変わったことなんか何も見えなかったけど?」

「他の二人は?」

 門田も西村も頭の中にはハテナマークが揺れているようだ。

「やっぱり」

「・・・やっぱりって・・・何ですか?」

 門田が突っ込んできた。

 亮介はこの中で一番突っ込んできて欲しくない人間に興味を持たれて、少し面倒くさいと思いつつも、この問題を一人で抱え込むのは自分のメンタル的に耐えられそうになかった。

「いや、俺の体調が悪くなったあたりから、実は俺、見えてたんだよね」

「ん?・・・見えてたって?」

 門田の視線は次の展開に期待している目をしていた。

「いや、だから」

 亮介はゴクリと生唾を飲み込む音がしたように思えた。

 周りを見渡せば、他の二人もこちらを凝視している。

「あのスーパーに入った時は、別に何とも無かったんだよね。でも、みかん飴のあたりで急に体調が悪くなっちゃって。」

「・・・はい・・・承知しています・・・」

「それから、一つだけモヤのかかった真っ黒いみかん飴を見つけたんだ」

「ほう。だから中川はピンポイントであの大量にあったみかん飴の中から問題のあるやつを見つけられたのね」

 深雪が割って入る。

 亮介は正直ホッとした。

 門田や西村よりは深雪の方が幾分話はスムーズに進められそうだ。

「そうなんだ。あのみかん飴の色を覚えてるか?」

「いえ、私には普通のみかん飴にしか見えなかったけど」

「じゃぁ、その後の武装した女の子の姿も見えなかった?」

「はぁ?女の子?そんなの見えるわけないじゃない!そんな子いたら中川の体調どころじゃなくなるよ。武装してんでしょ?面白すぎるじゃん。一気に興味はそっちにいくよ。体調悪すぎて幻覚でも見たんじゃないの」

 深雪はバカにするような口調になっていた。

「じゃぁ、何で俺の体調が復活したのかもよく分からないのじゃない?」

「うん。なんか昨日はほら、慶長さんがいて除霊してくれたから元気になったと思ってた。でも、言われてもれば今日は何で?中川はスーパーの駐輪場で悶絶していて、私は慶長さんに電話したけど出てくれなくて。困っていたら、急に肩で息してた中川が立ち上がって、なんか変なことを言いながらここまでフラフラ〜って歩いてきたんだ。私たち、ついて行くしか無かったんだよ。え?もしかして、中川、覚えてないパターン?」

 深雪の声のトーンが一つ上がった。

「おう。そうなんだ。断片的に記憶はあるんだけど・・・」

「なにそれ?」

「・・・それは・・・興味深い・・・です」

 耳元に直接届くような、それでいてくぐもってボソボソした声が聞こえた。

「うわっ!急に入ってくんなよ!」

「中川くん・・・それは・・・中川くんの守護霊じゃ・・・」

 立ち上がった門田が亮介のすぐ後ろから話に入ってきた。

「その体調不良が・・・悪い下級霊の仕業で・・・中川くんを・・・助けたとは・・・考えられませんか?」

「確かに、この手の話はよく聞きますネェ」

 西村が小さな声で自信なさげに言った。

「いや、でもこのパターンは大体夜に起きるもので」

 深雪が否定的に割ってはいる。

「確かにです。それに心霊スポットに入り込んだわけじゃない」

 西村はすぐに自分の意見を曲げ、深雪に同調した。

「・・・昼間だからって・・・起きないわけじゃ・・・1972年の岐阜県では・・・白昼堂々と・・・猫の霊に取り憑かれたという記録が・・・」

「確かに。京都ではそんな事例はたくさん上がってきています」

 西村がこれにも同調した。

「でも、岐阜の件はただの虚言だったと後で否定されてます」

「・・・しかし・・・広島での報告は・・・」

「それも、当時の中学生が仲間の気をひきたくて嘘でしたと後から証言してる。それよりも、私は土地神説を唱えるね。」

「ああ、なるほど」

「中川は、触れてはいけない何かに触れてしまったのよ。それで、その土地の神様が怒ったの」

「・・・その線は・・・考えられません・・・あそこは・・・普通の土地ですし・・・スーパーを建てる時に必ず地鎮祭・・・してる・・・」

「そうですよ」

 西村がまた意見を変える。

「・・・西村くん・・・君は・・・さっきから・・・どちらの味方に・・・」

「いやぁ、・・・」

 西村は消え入りそうな声を出し肩をすぼめた。

「とにかく、これについてはもっと調査が必要ね」

 そう言うと深雪は広げていた地図をもう一度見つめ直した。

 ブッケンの三人は地図に向かってまた何やら話をしだした。

 亮介は寄る辺のなさを感じ、その輪から少し離れた。

 五月の風が川の水面に小さな波を作り、広い土手に爽やかな土と若草の匂いを運んでいた。

 亮介は胸ポケットからミランを取り出して見る。

 ミランはスヤスヤと眠っている。

「こいつも実態はないんだな」

 小さく呟いた。

 ある一定の能力がある人間には見えるが、普通の人には全く見えないこの少女を掌の上で眺めていると、ますます不思議な感覚になる。

 ミランに重みは全くない。空気のようだ。だが、彼女の形やサイズは感覚的に理解できる。だから、こうして胸ポケットから取り出すこともできるし、掌の上に乗せることもできている。ミランは確実に存在している。このことは、紛れもない事実で彼女が亮介を守ってくれたという出来事も現実に起きたことだ。

 亮介はふと何気なく時計をみた。日の傾きは夕方とはっきりと言える時間になっていた。

「あ!バイト!」

 急に思い出した。こんなにゆっくりとしてはいられない。バイトの時間が迫ってきていた。遅刻は厳禁だ。タダでさえ人員の足りていないスーパーマルカツはベテランパートのおばちゃんの高木さんにシフトやら何やらを全て任せている。おばちゃんは時間に厳しい。特に入れ替わりの時間はかなりのこだわりを持っていて、少しでも遅れようものならチクチク嫌味を言われながらエプロンをつけなければならなくなってしまう。入れ替わりの相手が他のパートさんなら特に問題ないのだが、今日に限って、その相手はベテランパートの高木さんだ。ダラダラと感傷に浸っている場合ではない。とにかく、急いでバイクを走らさなければ。

 亮介はミランを胸ポケットに戻し、立ち上がった。

「俺、今からバイトだし。行くわ」

 そうブッケンの三人に告げて歩き出した。ブッケンの三人には聞こえたのかどうかわからない。何しろ、三人は地図を広げて、何やらボソボソと相談していた。三人は三人の世界に入り込んでいて、こちらに向こうともしなかった。


 バイトにはギリギリ間に合った。汗をかきながらクーラーの効いた店内を横切り、クロークへ入ったと同時にベテランパートの高木さんが奥の倉庫から在庫の「すずなりナスの辛子漬け」の段ボールを抱えて入ってきた。

「あ、お疲れ様です。」

 亮介はつとめて元気に挨拶をした。

「お疲れ様。早くエプロンつけて、品出ししておくれ。もう人手が足りなくて、忙しい、忙しい。」

 高木さんの機嫌は悪くないようだ。

 ふぅっと胸を撫で下ろして、亮介はロッカーの扉を開けて、カバンをしまい、エプロンをつけた。

 店内は夕食の食材を求める客でピークを迎えていた。三つあるレジは埋まり、それぞれに長い列を作っていた。

 社長が珍しく品出しをしている。部長は第一レジを担当している。残り二つのレジはパートのおばさんが切り盛りしていた。社長に笑顔はなく、ただ淡々と目の前のプラスチックトレーからパック詰めされた鯖の切り身を冷蔵棚に並べる仕事をこなしていた。パートのおばさん達は、愛想の良い笑顔とよそ行きの声で、気だるそうに並ぶ客を見事にさばいている。

「今日の仕事も大変だったんだろうけど、部長もう少しまともな笑顔とか出来ねぇのかな?」

 亮介は素朴に思った。部長の笑顔はいかにも作り笑いで、唇の両端が単に顔の筋力で持ち上げられただけの張り付いた笑顔になっていた。お客が商品を会計するためにサッカー台に置いた時に言う

「いらっしゃいませ」

 も気持ちが全くこもっていない。テンプレ挨拶に終始している。もちろん、

「ありがとうございました」

 も同様だ。

 亮介は一旦、クロークに引き返して、パックに小分けにされた精肉をプラケースから取り出し、専用のトレーに乗せてもう一度店内へ入っていった。

 ほんの一瞬店内から目を離しただけだが、さっきよりもっと客が増えたように感じた。


 今日の仕事はいつもよりも増して忙しく思えた。客が増えると品出し番の亮介の仕事量も増える。生鮮食品はプラケース、乾物は段ボールから商品を取り出し、ひたすら補充をしていた。今日はなぜか漬物コーナーの品出しが多かった。普段なら閉店間際に確認する程度で済むはずのコーナーが今日は引っ切り無しだった。特に特売品となっていた「すずなりナスの辛子漬け」がやたらと出ていたように感じる。亮介はひたすら店内とクロークの往復をし続けた。

「はぁー、今日は疲れたなぁ。」

 今日一日の出来事をまとめて吐き出すように亮介はため息をついた。

 朝から学校で授業を受け、放課後はマノコ退治だし、バイトはこの忙しさ。もう、一週間分の体力を使ったような感じがしていた。

 後は、今付けているエプロンを外して上着を着てロッカーの鍵をかけて店を出ていくだけだ。

 あと、スリーステップで、解放される。そう思うと心なしか気持ちも体も軽くなるようだ。

 亮介が扉の開いたロッカーにエプロンをかけて、上着を手にした時、上着の左胸に何やら重さを感じた。それは、上着全部が重くなっている訳ではなく、ズシッと左胸のそこだけが重たい。

 亮介は不思議に思い、左胸の内ポケットの辺りに上から手を乗せてみた。

「何か入れていたかな?」

 マノコのミランには重量は無いし、スマホはいつもお尻のポケットに突っ込んでいる。ハンカチを持たない亮介は高校に入学してから一度も内ポケットにものなんて入れたことがない。

 特に変わった様子はないようだ。

 しかし、確実に亮介の手にしている上着はいつもと様子が違う。

 不思議に感じて、亮介は内ポケットに手を入れてみた。

 手に何かプラスチックのような手触りのものを感じた。それは、平べったく、楕円形の手のひらサイズの大きさだった。

 昔、小学校の友達がハワイに旅行に行ったとかで、安っぽいサーフボードのミニチュアキーホルダーをクラスの男子全員に買ってきたことがある。ヤシの木と赤から紫に変わるグラデーション柄がいかにも南国風のデザインで亮介は美しいと思い気に入って上靴入れに付けていたことがあった。亮介が高学年になってからそのキーホルダーは、上級生との喧嘩でつなぎとめていたチェーンから無残に引き千切れ、何処かに飛んで行ってしまったが。

 そのキーホルダーよりも少し大きめのツルツルした手触りのそれは少しだけ熱をもっていた。

 内ポケットから取り出して見てみると、透明のプラスチックのようだった。見た目はまさしくサーフボードで、側面は面取りがされて丸みがあった。

「こんなもの俺、もってたかな?」

 親指と人差し指で、つまむようにそれを眺めた。重さはそんなに重くない。亮介の持っているスマートフォンほり少し小さいぐらいか。裏からも表からもじっくり眺めてみると、クロークの照明に反射してそれはキラキラと虹色に輝いている。

 このキラキラは嫌いではない。

 少し眺めていると、ミランが内ポケットから少し顔を出して

「やっと届きましたか」

 と言った。

「うわっ!突然出て来るなよ!」

 亮介の声が少し上ずってしまった。

 もしミランと話しているところを他の誰かに目撃されてしまうと、独り言で感情的になっているおかしな奴としかうつらないだろう。亮介は辺りを見回し、誰もいないことを確認した。

「お前は基本的に人には見えないんだから、出て来るときは気をつけてくれよ」

 亮介は声を潜めてミランに言った。

「申し訳ありません。嬉しくてつい」

 ミランはいたずらっぽい笑顔を亮介に向けた。

「嬉しくってって、これのことか?」

 亮介は少し重さを感じる不思議な物体を自信の顔に近づけた。

「なんだこれ?」

「それは、ご主人様の武器であり、お守りです」

 ミランが内ポケットからゴソゴソと這い出して亮介の目線の高さまで浮いてきた。

「これは、ブレイドと言いまして、もしマノコが近くにいるとそれが熱く反応します。これがあればいちいちしらみつぶし的にマノコを探さなくても、大丈夫でしよ」

 ミランはニコニコしている。

「お前、なんだか嬉しそうだな。」

「だって、私はご主人様に助けていただいたんですよ。あのままだったら、私もマノコになってしまって今頃は誰かに悪さをしていますよ。それを止めていただけた。そのご主人様がマノコ狩りに参加してくださるなんて。そんな嬉しいことはございませんわよ。」

「いや、俺は無理やりに付き合わされているだけで、マノコ狩りなんて興味ないんだけど。」

「またまた、そんなことおっしゃらずにぃ。」

「いや、ホントなんだけど。」

「でも、ご主人様は私のマノコ狩りに少しは気持ちが熱くなりませんでしたか?」

「いや、まぁ。」

 確かに、あの気持ち悪さの中にミランを本気で応援している自分がいたが、あれは、苦痛から早く抜け出したい一心がそうさせていただけだった。

「このマノコ狩りは運命なんです。逃れられないのです。」

 ミランの顔が少しだけ真面目になった。

「それに、ご主人様には特別な力が宿っています。それは、私のような経験の浅いマノコでもわかります。ご主人様からビンビン強烈な波動を感じます。」

「はぁ?俺には何にも変わったところなんてないけどな。お前みたいな変なモノが見えるようになった以外は。」

「それですよ。もう、それが正解なんですよ。私とこうしてお話しできてる段階で、ご主人様は力を開花させてらっしゃる。それに、この状態は普通の方から見れば十分おかしな人ですよ。」

「それは、そうだろうけど。」

「もう諦めるしかないのです。きっともう直ぐ大きな何かがやってきますから、その時までにしっかりと準備しておかないと。」

 ミランは何かを警戒するような目になり遠くを眺めた。


 外に出るとすっかり日は沈み、肌寒い5月の夜風が身を包んだ。

 学生服のシャツのままではまだ夜は寒い。この時期はいつも服に迷う。

 学生服のジャケットを羽織って亮介は駐輪場へ向かった。

 左胸にブレイドが入って、いつもと違う違和感がまだある。

「よくよく考えるとこれはまだまだ使い方がよくわからないな」

 新しいアイテムを手にした高揚感と、ミランが言うこれから起こる「大きなこと」の不安感が心をざわつかせていた。

 亮介はブレイドを胸ポケットにしまいバイクにまたがり、ヘルメットをかぶってバイクのエンジンをかけた。通学用のリュックから手袋を取り出しハンドルを握ると、スタンドを倒して慎重に駐輪場からバイクを出した。左右に振られたバイクのライトが、せわしなく辺りの景色を照らし出しては、また別の場所を照らす。

 亮介の愛車はスポーツタイプのバイクだ。このバイクにまたがった時にちょうどガソリンタンクを太ももで挟むような形になる。亮介はバイクに乗るときはリュックを胸の位置で抱え込むようにしている。こうすれば、リュックの中身が必要な時にすぐに取り出せるからだ。友達にはリュックは背中に担ぐもので危ないからやめるようにと良く注意されるが、この方が利便性が高いし、リュックの形状の特性から両肩にきっちりとぶら下がり固定されているので、危険なめにあったことは一度もなかった。

 胸に抱えたリュックからスマホの光が漏れていた。スマホのバイブが長く小刻みに震えていることから着信だとわかったが、今は家に帰ることが優先だ。スマホは後で確認すればいい。

 亮介は勢いよくバイクのスロットルを開けて発進させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る