第4話 ブッケン

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 昨年この街で起きたある事件は閑静な住宅街の日常を一変させた。マスコミが押し寄せ、大人たちは警戒心を抱いた。外出はできるだけ控えるようになり、夜は人の気配がなくなった。子供たちはみな恐怖を抱き怯えたが、退屈だった日常に変化をもたらしたこの一件をどこか楽しんでいるようでもあった。


 吹奏楽部のラッパの音が遠くから聞こえてくる。毎日の気だるい授業が終わって、開放感に溢れている、放課後の独特の雰囲気が亮介はあまり好きではない。特に土曜日は明日が休みなのも含めて開放感がいつもよりも増す。私立のこの高校は進学校として土曜日も特別授業と銘打ち普通に午前中だけ授業がある。今日は金曜日、明日はその土曜日だ。

 亮介もクラブには入っていた。高校入学時点ではサッカー部に所属はしていたが、いつまでたっても基礎練習ばっかりで一向にボールを触らせてくれないサッカー部に嫌気がさしていち早く辞めてしまった。

 帰宅部の亮介はこのまま家に帰ってゲームかバイト先まで直行がいつものパターンだ。

 しかし、今日はいつもと少し違う。

 埃っぽく、すえた臭いのする廊下に亮介は立っていた。コンクリートむき出しでで出来たこの建物は、薄暗く外よりも少し肌寒く感じる。

 クラブ棟と言われる二階建てのこの建物は、全てのクラブの部室が並んでいる。主に一階は運動系のクラブが練習道具や忘れ去られたかのような私物が置かれている。

 亮介は日曜日の龍告寺の出来事がどうしても気になっていた。この一週間はフワフワした気分で授業も上の空だった。

 クラブ棟の一階の1番奥は天井につけられた弱い蛍光灯の光も届かず、ただでさえ薄暗い建物の中でも特別に暗く、ここから闇をつくり出しているかのように感じる。コンクリートの壁には等間隔に並べられた鉄のドアが冷たく冷えていた。

 人の侵入を拒むかのような雰囲気に亮介は少しばかりの緊張を感じた。

 亮介が立っているドアの前には「日本寺社仏閣研究同好会」と小さなプラスチックのプレートに書かれていた。通常、新しいクラブは同好会期間が設けられている。それから、一年後クラブが存続できると学校側が判断したならその同好会は晴れて正式なクラブと認められる。

 しかし、「日本寺社仏閣研究同好会」は同好会のままだ。この同好会はかなり歴史は古く、学校の創立時点からあるらしい。毎年の学校案内のパンフレットには必ず文化部の最後に書かれている。そしてテンプレートのようにカッコつきで(活動日は毎週金曜日)と書かれっぱなしになっている。しかし、クラブへの昇格はされていない。この同好会は学校側から忘れられているようだった。

 亮介はドアノブに手をかけた。ひんやりとした感触とともに、案外簡単に滑らかに扉は開いた。

「すみません。誰かいませんか?」

 亮介はソロリソロリとこえをかけてみた。

「………」

 返事はない。

「すみません」

 もう一度声を出してみた。

 やはり返事はない。

 亮介は部屋の中に一歩足を踏み入れてみた。

 打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた部屋の中は薄暗く、たった一つの蛍光灯で照らされている。

 左手の壁には三段仕様の事務用の棚が備えてあった。その胸の高さほどの棚にはドクロや虫や十字架、使いさしの蝋燭、あとコケシやどこから持ってきたのか、端切れなどが乱雑に置かれていた。1番下の段には「超・超常現象」や「骨法」や「実録・日本のシャーマン達」といった文庫本や雑誌「ムー」などが整然と並べられていた。

 壁にはどこかの旅行会社のものだろう。大きな鳥居が写され「伊勢志摩へ」と書かれたポスターが貼られている。

 部屋の真ん中にはコタツが置かれていて、その天板には一つのコーヒーカップと「竹生島 琵琶湖に浮かぶ神の島」という本が乗せられていた。

 ここは学校の敷地内である事を忘れてしまうかのような、明らかに私物化されているこの部屋に亮介は面食らっていた。

 亮介は腰を折り棚の1番下に置かれている本を一冊取り出してみた。特に興味がある訳でもなく、何気なく取り出したその本の表紙はどこかの部族の面が大きく描かれていた。その本のタイトルを亮介は口に出して読んでみた。

「ガダラの豚。…ガダラってなんじゃ?」

 本を元に戻し、また周りを見回した。

 やはり人の気配は無い。

 静寂が辺りを包み込む。

 むき出しのコンクリートがどんどん冷やされていくように感じる。

 足元から冷気が立ち上り、徐々に全身を巡る血液を凍らせるような感覚に陥ってしまう。亮介は身震いをした。

 この場から早く出ていかなければ何かものすごく悪いことが起きそうな予感が立ち上ってきた。

 亮介が踵を返して冷たくなったドアノブに手をかけようと後ろを向いたその時、カチャと小さな音を立ててドアノブが回った。

 ゆっくりとドアが開いていく。

 亮介は身構えた。

 開いたドアの隙間から妙に生温かい空気が流れ込んだ。

 勝手にドアが開くわけがない。

 完全に開けられたドアの向こうには、見覚えのある姿があった。

「あ?中川?」

 声の主は同じクラスの吉岡深雪だった。

 深雪はクラスでもそんなに目立つ方ではない。しかし、目はクリクリと大きく赤フレームのメガネがよく似合う。前髪が綺麗に揃えられたその顔立ちは実年齢よりもずっと幼く中学生くらいに見られるだろう。

「ん?吉岡?」

 亮介は先ほどの緊張から解き放たれた安堵感から、思ったよりも大きな声が出てしまった。

「なんで、吉岡がこんなとこに?」

「それはこっちが聞きたいわ。なんで中川が?あんたは帰宅部でいっつも終礼が終わったらダッシュで帰っていくのに。どうした?」

「は?お前はなんでこんなとこにいてるんだよ?」

「それは、私がここの部員だからだよ」

「えー!お前、ここの部員だったのかよ!」

「そうだよ。私、小さい頃から幽霊とか不思議なことに興味あって、いつか自分も体験したいなって思っていたの。そしたら、ここにブッケンっていうそんなことばかり調べているクラブがあるって聞いたから。即入部よ。知らなかったの?」

「いや、俺、すぐ帰るし。クラブのことなんかあんまり興味ないし。それにお前はクラスでもそんなに目立たないから。」

「ふーん。目立たないねぇ。つまり、クラブにも私にも興味ないってことね。まぁ、なんでもいいわ。そこ、ジャマ。どいて。」

 深雪は亮介と壁の間にスルリと体を滑り込ませた。

「いや、チョット待って。今日はブッケンに用事があって。」

「はぁ?何?クラブにも、私にも、人にも、何にも興味ない人が、何の用?」

「そんな棘のある言い方しなくても。悪かったよ。さっきのは謝るから。」

「なんなのよ!もう。用事があるなら早く済ませて!忙しいんだから!」

「わかったよ。手短に話すから。」

 亮介は、日曜日にあった龍告寺での出来事を話した。

 深雪は真剣に亮介の話を聞いていた。話し終えた後、深雪は暫く考えていた。

 静かに、深く。

 深雪が何か言おうと深く息を吸い込んだ時、ふと2人の後ろから

「…なるほどねー。」

 と小さな消え入りそうな声がした。

「えっ?今何か声した?」

 亮介は辺りを見渡した。

 しかし、深雪以外に誰もいない。

 深雪はまだ深い思案の途中のようだ。

「…それは…興味…深い。」

 小さな声だがはっきりと聞こえる。

「吉岡!誰かいる。」

「ん?あぁ。いるね。」

「え?いるねって!お前平気なのか?」

「へ?普通だけど。」

「なんで?」

「あぁ、もう。ホントに存在感が無さすぎるんだから。」

 深雪が奥の壁に目をやった。

 そこにはコーヒーカップと本が置かれているコタツがある。

「…もう少し…詳しく。」

 よく見るとやたらと髪の長い小柄な男子学生がコタツに当たっていた。

 その男子学生は全身をコタツの中に潜り込ませる格好でコタツから顔だけを出していた。髪の毛はまっすぐの癖一つない直毛で、顔全体を覆っている。異様に長い前髪の隙間から糸のように細くて少しつり上がった目がこちらをのぞいている。

「えー!」

 亮介はびっくりした。

「いつからいてるんだよ!」

「…いつからって…僕は…ずっと…いましたよ。」

「いやいや、そんなことはないって。だって、部屋に入った時は誰もいなかったし。」

「いや、…あなたが…ガダラって?呟いた時からずっと…いました。」

「はぁ?なんで?全く気配がなかったよ。」

「…きちんと…挨拶は…しました。」

「部長は、存在感が皆無な人だから。私も時々見失うよ。」

 深雪がコタツにあたりながらいった。

「この人は部長の門田さん。」

「…こんにちは。」

 門田は訝しげに細くつり上がった目線だけをこちらに向けて、小さく首を折った。

「部長はいつもこんなのだよ。ところで、そんなことよりもその中川が体験した龍告寺の話だけど、それは信託系の話ね。まぁ、今まで無いわけではないけど。特に、夢のような現実のような体験をした人の話ならいくらでも残ってるわ。それに、その夢が誰かから託された系の話ならキリストとか神の信託系ね。でも、あくまでも伝承とか言い伝えレベルでハッキリとした確証が得られたものはほとんどないね。中川は去年のあの中学生事件の事覚えてる?」

「あの事件って、隣の中学三年生の男の子がカッターナイフで自分の両親をメタメタに突き刺して逃亡したやつ?」

「そう。あの時はこの街中が大騒ぎになったでしょ。テレビ局や新聞や雑誌の取材で大変だったじゃない。でもね、犯人の男の子は活発で家庭での問題もあまりないごくごく普通の男の子だったって、ありきたりで表層的な部分しか報道されていなかったよね。」

「うん。俺もあの時の事はすごく覚えてるよ。いたって普通の中学生が両親を襲うなんてなかなか考えられないから。確か思春期特有の気持ちの揺れ動きがあの事件を起こしたって話になっていたと思うのだが。それにまだ犯人の中学生は見つかってないんだろ。未成年だし、報道規制が敷かれたって聞いたぜ」

「実はあの話には少し気になるところがあって、報道もされていなくて私たちだけが知っている事なんだけど、実はあの時私の地元でその男の子の友達だっていう子がいて、その子が言うにはあの男の子は事件を起こす一週間位前からものすごく食欲が旺盛になったんだって。以前ならそんなにたくさん食べるような子じゃなかったんだけど、急に三人前とか四人前のお寿司 とかお弁当を食べだしたんだって」

「それって、一番よく食べる時期だからじゃないの?」

「普通はそう思うじゃない。でもねその時その男の子はなんか変なこと言ってたらしいよ」

「変なことって?」

「なんかね、これは食べるものこれは食べないものこれは食べるんだけど食べられないものって。なんか取り憑かれたようにブツブツ言いながら。」

「それって誰かに憑依されてるってこと?」

「それで私の友達は事件を起こす前にその男の子と話したらしいのね。そしたら、その男の子は変な夢の話をしてきたんだって」

「変な夢?」

「毎晩夜になると夢で誰かに食べる事を命令されるようになったんだって。それって絶対に誰かから信託されてるんだよ。中川の話と似てるじゃん。」

「うん。それはそうなんだろうけど、その話ってやっぱり、今回のと何か関係あるの?」

 亮介は探るように聞いてみた。

「そら!あるに決まってるでしょ!」

 妙にかん高い男子の声が横から聞こえてきた。

「へー!誰?」

 あまりにも突然すぎて、亮介の腰は砕け尻餅をついてしまった。

 よく見ると、深雪の向かいに小さな坊主頭の男子学生がコタツに足を突っ込んでいた。

 部長、深雪、坊主頭の三人は目を輝かせていた。


 一度来た道というのは、大抵刺激はなく、淡々と過ぎていく。龍告寺への道は昨日よりも幾分短く感じた。

 最寄りの駅からの急な坂道もそれほど辛くは感じなかった。むしろ爽やかな五月の風が、心地よく道の周りの草花たちが華やいでいるようにも感じた。

 昨日、亮介から話を聞いたブッケンの三人は早速行動に出ようということになった。

 幸い今日は土曜日なので、時間はある。亮介に道案内をさせながら龍告寺を調べようとフィールドワークに出てきたのだ。

 龍告寺の門前は相変わらず荘厳な雰囲気を漂わせていた。

 大きな門扉をくぐると真ん中に大きな松の木がシンメトリーに配置された広い境内が現われる。

 この間はここにコバトのつくボールの音が聞こえていたが、今はシンと静まり返って風の音だけがなっている。

「うわー、広いねぇ」

 深雪が龍告寺の境内の広さに声をあげた。

「坂道は辛くなかった?」

 亮介が声をかけると深雪は

「全然、平気だよ。だって中学まで陸上部で長距離を走ってたもん。」

 と誇らしげに言って深雪は辺りを見渡した。

「ここで昨日はコバトちゃんに出会ったんだね。」

「うん。一人でボールをついてた。」

 二人が並んで松の木の下まで歩いて行くと、門田と坊主頭の西村明夫が支えあいながら門をくぐって来た。

「…はぁはぁ。…こんなに…辛いとは。」

「部長〜、もう、僕は歩けません。」

「…僕もだ。西村くん。…これ以上は…」

 二人はボロボロになっていた。

「はぁ、情けない。」

 深雪はぼそりと呟いた。

「オイいいのかよ。随分と疲れ切ってるぞ。」

 亮介は少し心配したが

「いいよ。ほっといて行きましょう。」

 と本堂に向かって歩き出した。


 線香の匂いが漂う本堂の中は涼しく外の風の音さえ届かないくらい静まりかえっていた。

「不思議な仏像ね。」

 深雪は薬師如来を眺めて言った。

 手にコロッケ、足元には各種の魚たちが置かれた皿の上に乗っている薬師如来立像は優しく柔和な表情でこちらを眺めている。

「うん。なんかねここの寺は変なんだよ。でも由緒は正しいみたいだよ。」

「へー。俄然興味が湧いてきた。」

 深雪は薬師如来との距離を詰めて、舐めるように凝視した。

「薬師如来さまね。てことは、両脇に居てるのは日光月光菩薩ね。」

「さすが、ブッケン。よくわかったな。俺なんか違和感だけでただの仏像としかわからなかったのに。」

「…この…仏像は…」

 門田の消え入りそうな声が背中越しに聞こえてきた。

「…どう…いう…」

「部長、あまり無理しちゃダメですよ。まだ体力は回復していません。」

 西村が門田を庇うが、その西村も足元がおぼつかない。本堂へ至る数段の階段さえ今の二人にははるか高いハードルに思えただろう。

「…いや、西村くん。…これは我々ブッケンが…しっかりと研究しなきゃ…ダメなんじゃ…」

 とうとう、門田はその場に座り込んでしまった。引きずられるように西村も尻餅をついてしまった。

 二人はもう動けなくなってしまった。

 ちょうどその時、本堂の横にある寺務所から慶長が掃除機を片手に出てきた。

「おお、これは亮介さん。一昨日は大変な目に遭われましたな」

 茶色い作務衣を身につけた慶長の頭は、綺麗に剃り上げられ優しく輝いていた。

「こんにちは。私たち、清稜高校の日本寺社仏閣研究同好会です。私は吉岡深雪です。」

 深雪が自己紹介をした。

「こんにちは。龍告寺の織田慶長です。」

 慶長は持っていた掃除機を静かにおいて合掌した。

「私たち、日本の不思議な現象を研究しているんです。それで、中川くんからここの話を聞いて物凄く興味が湧いてきて。」

「そうですか。んで、随分ボロボロになっているこの方達もですか。」

 慶長はへたり込んでいる門田と西村を見た。

「…ふぁい。よろしくお願いします…」

 門田が声を絞り出した。

「ま、こんなところでは何ですから奥へどうぞ。」

 慶長はゆっくりと振り返り、四人を寺務所へ招き入れた。


「亮介さんからお聞きになりましたか。なら、だいたいお話は分かってらっしゃるということですね。」

 慶長の言葉はゆっくりと優しい。

 本堂と同様、寺務所の中はキッチリ整理整頓が行き届いていたが、仕事の途中だったのか乱雑に積まれた書類が机の上を覆っている。

「ところで、コバトはどうなったの?」

 亮介は慶長に聞いた。

「コバトはあれ以来全く目を覚ましません。ずっと眠ったままです。我々も初めてのことなので少々戸惑っているのです。」

「そうなんだ。」

 亮介はコバトに会いたくなった。

「コバトはまだあの部屋に?」

「はい。あれ以来眠ったままで食事もとらずです。」

「ちょっと会いにいってもいい?」

「どうぞ。あなたはコバトにとって、大切な人ですから。」

「私たちは慶長さんにこのお寺のコトを取材しておくし、中川はお好きにどうぞ。」

 深雪がそう言って亮介を送り出した。

「では、この寺の由来からお話ししましょう。」

 慶長はブッケンの三人に向かって話し出した。

 亮介はその姿を見て、寺務所から出ていった。

 本堂の裏から続く渡り廊下を渡って、コバトが眠っている部屋の前に亮介は着いた。

 引き戸の扉を開けると、部屋の電気は消され障子が閉められ、薄暗かった。

 障子越しに入ってくる太陽の光は程よく、優しく畳を照らしていた。新しいい草の匂いが爽やかさをより際立たせている。

 その優しい光に照らされて、コバトは布団の中でスヤスヤと寝息を立てていた。

 亮介はコバトの横に座り、その寝顔をそっと眺めてみた。

 前髪が揃えられたオカッパ頭。透き通るような肌の白さに、一点の赤い唇。長い睫毛はピクリとも動かずその姿はまるでとても良くできた人形のように見えた。

「綺麗だ。」

 亮介はふと口から漏れた。本当にそう思えた。

 亮介はしばらくコバトの寝顔を眺めた。不思議と飽きることはなく、むしろずっと眺めていたい。この顔を記憶に焼き付けておきたいとさえ思っていた。この美しい少女にあんな壮絶な過去が隠されているとは、誰も気がつくことはないだろう。

 なぜか鼻の奥が熱くなり涙がこぼれ落ちていた。今はこの部屋には誰もいない。亮介は流れ出る涙を拭うこともせず、ただただ自然の成り行きに任せておいた。

 亮介の涙はコバトの真っ白な頬の上にポトポトと細い筋を描き出した。

 コバトは穏やかに寝息を立てているだけだった。


 亮介が寺務所に戻った時、慶長たちの姿はなかった。亮介は置きっ放しになっていた自分の荷物を持って本堂へ出てみた。

 相変わらず薬師如来は優しく微笑んでいた。

 境内の方へ目をやるとブッケンの三人が松の木の下で所在なさげに立っている。

 本堂から数段の階段を降り、靴を履き亮介が三人に向かって歩き出した。

 深雪が亮介に気づき、手を振った。

「中川!このお寺って面白いねぇ。すごく好きになっちゃった。」

 深雪の顔はまさに好奇心丸出しでキラキラしている。

「それに、これもらっちゃった。」

 深雪は右手を差し出した。その手首には黒くて小さな数珠が巻かれていた。

 門田も西村も同じように右手に数珠をはめている。二人ともグヒグヒと奇妙な笑い声を立てていた。その数珠を満足げに眺めている。

 きっと二人なりの表現なんだろう。とにかく喜んでいることは理解できた。

「それは何?」

 亮介が聞いた。

「えっとね、この数珠は特別な力が宿ってるお守りで、もしもの時には私たちを必ず助けてくれるんだって。チョーカッコいいでしょ。」

 深雪は手首をクルクル回しながら、目の前に持ってきた。

「ふーん」

 お守りとかお札とかの類にはあまり興味もなく、信じることもない亮介はただ相槌を打つだけだった。

 ブッケンの三人は龍告寺がえらく気に入ったみたいで、慶長から聞かされた話を事細かに亮介に話した。

 三人の顔は興奮し、高揚して、今まさに生きているエネルギーがほとばしっていた。その姿に亮介は少しうんざりしかかっていた。

 一通り話を聞いた辺りで、真っ黒い袈裟を身につけた慶長が玉砂利を踏みしめながら亮介達の輪の中に入ってきた。

「さて、参りましょうか。」

 さも当たり前のように袈裟を翻しながら門の方へ歩いて行った。

「ちょっと、待って。参りましょうって何の話なんだよ?」

 亮介は戸惑っていた。

「あ、ごめん。話すことに夢中になっちゃって忘れてた。これから私たち、慶長さんと一緒にマノコ退治に出かけるの。」

 深雪が言った。

「はぁ?何それ?」

「慶長さんが、何やら感じるらしく今から様子を見に行くんだって。それに同行させてもらうの。んで、あわよくばマノコ退治まで見られたら…ふふふ。もちろん中川も一緒に行くよね。」

「いや、俺は別に…」

 亮介は断ろうとしたが、背中に四つの生温かい何かを感じた。門田と西村が亮介の背中に手を当てていたのだ。

 悪寒。亮介は何とも言えない気持ち悪さを覚え足を踏み出すしかないと悟った。


 龍告寺から歩いて十分ほどの小さなスーパーの前に五人は立っていた。

 そのスーパーはテント張りの庇に薄暗い入り口。自動扉の前には申し訳程度にガシャポンの機械が四台ほど並べられていた。看板には「スーパーたかむら」と赤い文字で書かれていた。

 この地域では「スーパーたかむら」は亮介の働いている「スーパーマルカツ」との競合店となっている。それぞれ古くからこの地域で商売を営み、街に根付いているスーパーである。

「さて、この辺りから気配が感じられるのですがね」

 慶長がぼそりと言った。

 5人は自動扉を抜け店内に入っていった。

 冷房のよく効いた店の中は外とは打って変わって非常に明るく、楽しげな音楽が鳴っていた。

 二重の自動ドアをぬけ、すぐに野菜コーナーがある。色とりどりの春野菜が棚状になっている冷蔵庫の中でみずみずしく照明に照らされていた。

「まずは壁沿いにいきましょう。」

 慶長は持っていた数珠をだらりと右手に垂らしながら、食い入るように野菜たちを見回した。

 冷蔵棚には葉物野菜やカット野菜。通路にはジャガイモや根菜類が手に取りやすいさに置かれている。

「特に何も感じませんね。」

 続いて向かった先は、鮮魚コーナーである。サワラやブリ、スルメイカやホタテといった鮮魚が氷を敷き詰められた棚に所狭しと並べられていた。

 亮介は鮮魚の匂いがあまり好きではなかった。この生臭い匂いがどうも自分とは合わないらしい。

 少し、胃の辺りに違和感を感じながら、慶長の後についていく。

「ここも大丈夫です。」

 壁沿いに設置された冷蔵棚は長くコの字型に折れ曲がっていた。鮮魚コーナーはあまり長くなく、亮介のスーパーマルカツほどの充実感はなかった。

 しかし、精肉コーナーは非常に売り場面積も広くいろんな精肉を扱っていた。

 ブタ肉や牛肉、鶏肉はもちろんのこと、滅多に市場には出回らない牛の顔の肉であるツラミや、ウルテ、フワといったホルモンも充実していた。

 さらに驚いたことにこのスーパーでは羊肉も扱われていた。

 スーパーで働いている亮介はこの店が精肉店と特別な契約をしていることがよくわかった。下処理が面倒で、技術がいる内臓系のホルモンは素人ではなかなか手は出せない。

「うん、ここも問題は無いようですね。あと残っているのは冷蔵品コーナーと仲棚だけですね。」

 慶長の顔が益々真剣味を帯びてきた。

 通路は五人が連れ立って歩くと、いっぱいになり向かい側から来るお客とすれ違う事はなかなか難しいほど狭い。店内のBGMはいつしか、ビートルズのプリーズプリーズミーに変わっていた。この曲を聞くと亮介の心は少しざわつく。この曲はスーパーマルカツではレジ応援の要請をするときにかける特別な曲である。

 しかし、今は見渡すかぎり混んでいるようには思えなかった。きっと別の意味がそれぞれあるんだろう。スーパーの仕事はレジだけではなく品出しから掃除、検品まで意外とたくさん用意されている。この曲が、このスーパーでどういう意味を持っているのかはわからないが、突然BGMが変わったということは、何かしらの仕事が発生したということだろう。

 五人は冷蔵コーナーを見終わり、店内をぐるりと一周したことになる。特に冷蔵庫関係は妙な気配など感じることなく普通のスーパーのようであった。

「特に何もありませんね。」

 慶長が四人に話しかけた。

「皆さんのご念珠にも何も反応はありませんよね。」

 ブッケンの三人は右手に付けた数珠を確認してみた。特に何も変化はなかった。

「ではこちらの方へ行ってみましょう。」

 慶長は中棚に向かって歩き出した。

 中棚は背中合わせに三列で、冷蔵コーナーから見て左からラップやビニールや洗剤などの雑貨、真ん中はお菓子やカップ麺が、そして一番右側は醤油などの調味料や酒類が置かれていた。

「やはり最近のマノコは生の食材には取り憑かない傾向にあるのですね。最近は加工品によくマノコの気配を感じます。と言う事は、やはり一番怪しいのはこのコーナーですね。」

 慶長はお菓子コーナーにずんずんと進んでいった。

 今日一番の真面目な顔で慶長はお菓子の並んでいる高さ2メーターにも満たない棚をじーっとにらみつけた。

 その横で、慶長を囲むように四人が同じようにお菓子の棚を覗き込む。

 じー、じー、じー。

 五人はいつしか腰を曲げ顔を棚にくっつく位まで近づけていた。

 息を止め、背中に力が入り、両手を置いた太ももは固く両足に力が入った状態でしばらく動かずにいた。

「…っんーん…ここも何もないですかね。」

「ふぅー、こんなに力が入ったスーパーでの買い物なんか初めてだよ。」

 深雪が肩の力を抜きながら吐き出すように言った。

「…はぁ、はぁ、僕も…です」

 門田はもう肩で息をしている。

 西村は何も言わない。いや、言えなくなっている。

 ふとその時、亮介には見慣れた影が見えた。

 ちょうど精肉コーナーからお菓子の棚に向かって歩いてくるスーパーマルカツの営業部長がいた。部長はキョロキョロと辺りを見回し、何かを警戒しているようだ。

「あれ?部長」

「おお、これはこれは中川くん」

「何やってるんですか?」

「いや、何って、偵察ですよ。偵察。」

「偵察って」

「ここのスーパーは我々のライバル店ですよ。どんなところに力を入れて、どんなところが弱いのか見ておく必要があるでしょ。あと特売品とかも現場でチェックしなきゃ。」

「まさか、部長毎日偵察してるんですか。」

「そ、そんな訳ありませんよ。たまにね。たまに。」

「なんか焦ってません?」

「な、な、何いってるんですか。あああ、焦ってなんかいませんよ。」

「いや、怪しいですよ。もしかして、部長もマルカツに見切りをつけるとか?」

「バカなことを言ってはいけません!私がそんな事するはずがないでしょう。もう行きます。今日のシフトは夕方からでしたよね。早く来てくださいよ。ただでさえ人が足りなくて大変なんだから。」

 部長は足早にその場を立ち去って行った。

 それから五人は、最後の棚である調味料コーナーにやってきた。

 そこでも同じように棚を凝視するが、何も変わったような様子はない。

「うん、やはりここも空振りですな。ま、空振りの方がいいんですけどね。」

 少し残念そうに慶長は背中を伸ばしながら呟いた。

 ふとその時、亮介の喉の内側が熱く燃えたぎるように熱を持ち始めた。その熱は煮込まれた粘度の高い液体が突然ドロリと喉の奥深くに流し込まれたように、首元を熱く焦がした。亮介 は苦しくなり、自分の首を力一杯握りしめた。

「どうしました、亮介さん。」

 慶長が亮介の異変に気がついた。

「喉が、焼けるように熱い。」

「なんですって!これは、もしかして、マノコ!」

 亮介は胃の中のものが逆流してくるような気持ち悪さを感じた。喉が熱く、胃の中を鉄の棒でグルグルとかき混ぜられるような感覚。胃の中のものがせり出してくるような吐き気を感じ亮介はその場に座り込んでしまった。

「亮介さん?大丈夫ですか?」

「ぐ、苦しい。」

 亮介は慶長の長い袈裟を掴み、助けを求めた。

「どこですか?原因はどこにあるのですか。」

 慶長は辺りを見渡す。しかし、これといった怪しい気配はない。

「う、うら。」

「裏?何の裏ですか?」

 慶長は棚に並べてあった醤油や酢のパッケージを手に取り裏返してみた。

「特に何もありませんが。」

「う、うぅぅ、うら。」

「困りましたね。何の事を言っているのでしょうか。」

 慶長の額から汗が滲み出てきた。

「もしかして!」

 深雪が調味料の棚から飛び出し、野菜コーナーに回った。

 野菜コーナーの野菜は壁越しに設置された冷蔵棚に並べられてはいたが、その向かい側には納豆や豆腐といった大豆系の加工食品や麺類が並べられている冷蔵棚が置かれていた。

「ここは、さっきの棚の裏側にあたる。きっと中川はここの事を言ってるんだ。」

 慶長の肩を借りて、おぼつかない足取りでやってきた亮介の顔面は蒼白になり、目の焦点は全く合っていなかった。亮介は腹部の嫌悪感に加え、頭痛も出ていた。こめかみをグリグリと太いボルトをねじ込むような痛みが数秒おきに襲ってくる。その太いボルトは自分の心臓の鼓動の早さに合わせ、右に左にギリギリと回され涼介の脳味噌を絞り上げる。

「ここですか。少し調べてみましょう。」

 慶長が右手に持った数珠を商品にかざしながらゆっくりと歩いて回った。慎重に一歩一歩確かめるように慶長は冷蔵棚を調べた。一往復をした帰り際に慶長の足が止まった。

「こ、これは!」

 慶長は持っていた数珠を上下に動かし、パックに詰められた絹ごし豆腐の上にゆっくりと置いた。

「…マノコです。」

 慶長の黒い数珠は赤く光り出した。

「この商品の中のどれかにマノコが取り憑いています。」

 慶長は二列二段に並び、高さの揃えられた十個はある絹ごし豆腐を一つずつ手に取り調べ出した。

「どこでしょう。どこにいるのでしょう。」

 さっきまで黒かった数珠は、赤くその光は増しているようだった。

 慶長が上段一番奥の豆腐を手に取り引き寄せた時、亮介の吐き気は最高潮に達し、意識は途切れそうになった。

「コレですね。」

「ちょ、ここで…は…」

 薄れていきそうにになる意識の中で、亮介は初めて会った時の除霊を思い出していた。あの『鈴なり茄子の辛子漬け』の時のように大騒ぎで除霊を始めてしまっては駄目だ。最悪警察沙汰にまでなってしまう。

「吉岡、ここでは…ダメ…。店の外に出して。」

 最後の力を振り絞るように亮介は深雪に言った。

 深雪は慶長の手から絹ごし豆腐を奪い取りレジへ走った。

「袋いりません。お金は後で来る人が払います。」

 バーコードを通してもらった絹ごし豆腐を両手に店の外に飛び出した。

 続いて慶長がレジを通過しようとした時、店員に袈裟の首筋を掴まれ呼び止められた。

「46円」

 店員の冷たく、投げるような声に慶長は身震いした。財布は持たない主義だ。常に現金を裸で懐に入れている。そして今、慶長はお金を全く持っていない。どうすればいいのか。焦る頭で考えて出した答えが

「後から来る人が払います。」

 だった。

 後から三人がゆっくりゆっくりとレジに向かって歩いてきた。

「46円」

 一部始終を朦朧とするなか眺めていた亮介はポケットに手を入れた。50円玉が指先に当たった。

 亮介は西村に支えられながら、レジのトレーに50円玉を置いた。

 門田がお釣りを受け取り、三人はようやく店の外に出た。

 スーパーたかむらの店先の自転車置場になっている隅に慶長と深雪がいた。

 すでに除霊が始められているようだ。

 地面に直接置かれた絹ごし豆腐に慶長が何やら念仏を唱えている。

 遅れてやってきた亮介たち三人も絹ごし豆腐に注目する。

 亮介の体調は今や絶不調の極みに達していた。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!」

 絹ごし豆腐が顔の横にくる位置に亮介は仰向けに寝転がった。背中と後頭部が地面のコンクリートにぶつかり痛みがある。見上げた先に深雪の健康的な太ももがスカートの中に続いていた。しかし、そんなことより今はこの苦しさからの解放が先決だ。

「オン…。ワカ…。オン…ワカ…。」

 慶長の言葉がだんだんと早くなっていく。

「はぁー、はっ!オン…。ワカ…。オン…ワカ…。はぁ!はぁ!」

 慶長が叫んだ。その様子を薄ぼんやりと眺めていた亮介の目に、絹ごし豆腐から黒いモヤが伸び出てきたのがハッキリと見えた。

 このモヤは除霊の時に出てくるモヤだ。何度か見ているのであまり驚きもしない。

 亮介は無意識のうちに絹ごし豆腐に手を伸ばしていた。

「亮介さん。念じてください!マノコよ退散と、早く念じてください!」

 慶長が必死の形相で訴えてくる。その迫力に圧倒されて、亮介は心の中で言われるまま念じた。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!」

 慶長のお題目はまだ続き、ますます力が込められていく。

 徐々に絹ごし豆腐からモヤが高く伸びてきた。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!…オン、アビラウンケンソワカ!」

 ズッズッツ、動くはずのない絹ごし豆腐が地面を這っている。モヤは吐き出されるように絹ごし豆腐のパッケージの真ん中から出続けている。

 ついにそのモヤが人の背ほどの高さまで上りきったとき、絹ごし豆腐が地面から高く飛び跳ね、まばゆく光を放った。その光は見るもの全員を照らした。一瞬の輝き。そして、すぐに絹ごし豆腐はゆっくりと地面に降りてきた。

 亮介は目を固く閉じ、全身に力を込めた。それからゆっくりと目を開けていった。亮介の体調はさっきまでの嫌悪感がまるで嘘のように、みるみるうちに回復していった。頭の痛みも潮が退くように緩やかになって行く。亮介の体調はこのスーパーたかむらに入る前のよりも、むしろすっきりと爽やかだった。

 冴えた脳であたりを見回すと、四人が亮介と絹ごし豆腐を眺めていた。

 亮介が地面の絹ごし豆腐に目をやると、そこには小さな女の子が絹ごし豆腐の上で眠っているのが見えた。

 その女の子は胴回りに薄く丸い鉄の板を何枚も繋ぎ合わせた鎧を身につけていた。胸のあたりにはひときわ大きな鉄の板に、龍の文様が描かれている。肩には虎の毛皮が施された肩当てが装着され、腕は胴回りと同じく薄くて丸い鉄の板が繋ぎ合わされていた。その鉄の板がキラキラと陽の光を反射させまるで魚の鱗のように見える。朱色で縁取られた黒い陣羽織は分厚く華麗な花の文様が施されている。朱色に光る籠手は分厚く、手の先まですっぽりと覆っていた。少し太めのスウェットのような朱色のパンツは大きなバックルの革製のベルトで止められ、足元は華やかな装飾のついたブーツを履いていた。

 手には長い槍を持ち、傍らには少し尖った形のヘルメットが転がっていた。

「亮介さんは見えますか?」

「ハッキリと見える。なんかキラキラ光る鎧を着た女の子が。」

「そうですか。これは、この絹ごし豆腐にとり憑こうとしていたマノコです。」

 慶長はそういうと絹ごし豆腐の上で寝ているマノコをそっと優しく両手ですくいあげ、亮介に手渡した。

「このマノコはあなたが持っておくのが良いでしょう。」

 亮介はマノコを優しく受け取った。

 マノコには重さは感じられず、空気のようだった。

 改めて見ると、キラキラと輝く鎧が美しい。

 亮介は、制服の胸ポケットにマノコをそっとしまった。

 胸ポケットは一瞬膨らみ、また元に戻った。


 週明けの月曜日の昼休み、ブッケンの三人に呼び出された亮介は学校の屋上にいた。

「どうしたんだ、こんなところに呼び出して」

「いや実は、昨日みんなと話し合ってやっぱり今日早速動こうと思ってさ」

 深雪が右手を差し出して言った。

 差し出された右手には、昨日慶長からもらった数珠がはめられていた。

「実は、土曜日にスーパーたかむらで除霊したじゃない。その時、この数珠が熱く熱を持っていたんだよね。それから、私たちは確信を持った。これは間違いない。私たちが信じていたことが現実に起きている!」

 深雪は興奮を隠せないようだ。

「…昨日は…興奮して…眠れなかった」

「そうです。僕の頭も凄く冴え渡っていたんです。」

 ブッケンの三人に静かに、でも恐ろしいほどの情熱を感じた。

「まぁ、そうだろうと思っていたよ。」

 亮介は諦めたかのように呟いた。

「んで、どうすんの?俺に除霊をする能力なんて無いし、正直、迷惑と思っているんだけど。」

「その点は大丈夫。昨日私たちは帰ってから戦略を練ったから。」

「戦略?」

「そう。まずこの辺のスーパーやコンビニを地図で調べたんだよね。そうすると、スーパーが四件コンビニが五件あることがわかったんだ。」

「それで?」

「早い話がこのスーパーとかコンビニをしらみつぶしに回ってみるの。昨日もらったこの数珠が何らかの反応を示したら、ビンゴ!」

 深雪は片目を瞑りウィンクした。

「それから、慶長さんに連絡するの。」

「…慶長さんも…マノコ探索に人手が足りないって…言ってたから…」

「僕たちがお手伝いしましょうてことです。ハイ。」

「そんなの勝手にお前たちがやればいいじゃないか。何で俺が付き合わなきゃいけないんだよ。それにあの時の気持ち悪さはもう嫌なんだ。」

「いいじゃない。中川も付いてきてよね。」

「いやだ。俺は忙しい。」

 亮介はハッキリと断った。

 しかし、ブッケンの三人は食い下がってくる。

「…付いて…きて」

「お願いいたしますよ!」

「ダメだね。」

「どうしても…ダメ?」

「ダメだね。」

 亮介が教室に戻ろうとした時、深雪が掛けていた眼鏡を外し

「ウルウル。お願い。中川。ウルウル」

 潤いをたっぷり溜めた大きな目で見上げるように訴えた。

 それを見た亮介の鼓動は少し早く脈打ち、ドキドキした。

「…わかったよ。行きゃいいんだろ!行きゃ!」

 亮介はついに観念した。

 予鈴が気だるそうに午後の始まりを告げた。

「チョロいね。」

 深雪は眼鏡をかけ直して髪を掻き上げた。


 放課後、亮介とブッケンの三人は学校から一番近いスーパーの前にいた。

 スーパーたかむらやマルカツと違い、このスーパーは全国的に展開している業界最大手のチェーン店だ。それだけに、品揃えは豊富で大量入荷なので値段も安く設定されている。

「さて、始めましょうか」

 深雪を先頭に四人が自動扉を開け中に入っていった。

 店内は明るく、清潔なイメージがした。ここも心地の良い音楽が聞こえている。

 前回同様、店内を壁沿いに回ってマノコを探した。

 ブッケンの三人の数珠に反応はなかった。

 中棚にも異常は無い。

「ここは…何も…なさそう…ですね」

「そうね、ここは何もないね。」

「じゃあ、次行こう。」

 深雪の言葉に引きずられるようにブッケンの三人は店を出ようとした。

 亮介は内心ホッとした。またあの吐き気や喉の痛み、あらゆる体調不良に襲われると思うともうやってられない。三人の後ろから亮介は付いて行った。

 ここは普通のスーパーで、レジを済ませてセルフで商品カゴから商品をビニール袋に詰める台がある。レジ周りにはガムや飴などの小さなお菓子や、ライターやなぜかろうそくや線香なんかが置かれていた。

 出口に向かって出て行こうとレジの脇を通りすぎようとした三人の足が止まった。

 亮介はいやな予感がした。

「皆さんこれ、見てください。」

 西村が震える声で右手を差し出す。

 西村の右手に巻かれた数珠が心なしか赤く変色しているようだ。

「うん。わかってる。私もさっきから凄く興奮している。この近辺にマノコがいる。早く慶長さんに連絡しなきゃ。」

 深雪が携帯を取り出そうと、スカートのポケットに手を入れた時、亮介の体に悪寒が走った。

 三人は数珠で、亮介は体調不良でマノコを検知するようだ。

 まただ。亮介の体調は益々悪くなっていく。全身の産毛が逆立ち、その一本一本が棘のように突き刺さり亮介の全身を痛みが襲う。血液は煮えたぎっているように熱く、あらゆる内臓はそれぞれで鼓動を始めたような息苦しさがある。

 亮介はまたもや立っていられることができず、その場に座り込んでしまった。

 その時、商品棚に手が引っかかり派手に倒してしまった。

 店内が騒然とする。品出しをしていた店員が駆け寄ってくる。

 床に散らばるガムや飴。亮介はその中から異様なモヤがかかっているパッケージを見つけた。

 それは「甘露、みかん飴」とあり、みかんの断面図がパッケージの半分を占めているオレンジ色のものだった。

 確かにそのほかの「甘露、みかん飴」は鮮やかなオレンジ色なのだが、その一つだけは黒いベールを被せたようにくすんでいた。

「あ、あ、れ」

 亮介は、苦痛に痛む身体で精一杯その飴を指差した。

「ん?あの飴が怪しいの?」

 深雪が亮介の指先にある飴を見つけた。

「あ、あれが、マノコ。早くそれを買って外へ。」

 亮介は声を出すのも精一杯だった。

「わかった。とにかく、あの飴ね。」

 そう言うと深雪は残ったブッケンの二人に棚の片づけを言い問題の「甘露、みかん飴」を持ってレジに向かった。

 亮介もふらつく足元で何とか深雪の後を追う。

 精算を済まし、外に出た二人は表の自転車置き場についた。

 地面に飴を置き、深雪は携帯を取り出し慶長の番号を押した。

 亮介はその場に座り込んでいた。体調はますます悪化していく。全身の体毛が亮介の皮膚に突き刺さる。血は煮あがり全身を猛スピードで駆け巡る。激しい頭痛、胃の中のものがせりあがってくるような吐き気。激しい動悸。浅くなる呼吸。あらゆる全身症状が亮介を襲う。亮介の頭の中は朦朧とし、意識は遥かかなたに飛びそうになっていた。

 その時、亮介の胸ポケットがうっすらと光り、膨らみ、中から魚鱗甲をまとった女の子が長い槍を手に飛び出してきた。

「ミラン!」

 亮介はその女の子戦士に向かって声にならないほどの小さな声で叫んだ。

 このマノコを慶長から預かった時から、マノコと呼ぶのも気が引けて、亮介は呼び名を決めていた。

 ミランは槍を空中で構え、「甘露、みかん飴」に向かって急降下していった。そして

「はぁっ!」

 と一言発してその長い槍をみかん飴に突き刺した。

 すると、みかん飴のパッケージから黒い煙のようなものが立ち上った。ミランは突き刺した槍をそのまま上にえぐるように持ち上げた。ミランの手元から伸びる紅い槍が大きくしなる。その槍の先には黒いモヤが絡まっていた。ズルズルと槍に持ち上げられて行く。

 ミランがそのモヤとともに跳ね大きく飛び上がると、空中で旋回した。

 モヤがミランにまとわりつく。それでもミランは旋回をやめない。それどころか、その回転速度をどんどん上げていった。

 モヤの隙間からチラリと覗くミランの顔は凛々しく、動きはしなやかで目の前の敵を睨みつけている。

 まとわりついたモヤは何重にも重なり、ミランの姿をその中に隠してしまった時、みかん飴のパッケージからモヤが抜け切った。

 しばらくそのモヤはクルクルと回り続けたか、次第にそのスピードは緩くなり、ピタリと止まってしまった。それは、黒い綿埃の塊のように見えた。その次の瞬間、みかん飴のパッケージに向かってその塊が猛スピードで落下していった。空中に尾を引き加速していく。先端の形は、流線形から鋭さを増し針のように尖りだしている。加速が最高潮に達した時みかん飴のパッケージに着地した。

「キューイッ」

 と形容しがたい音を立て、黒い綿埃はひしゃげみかん飴は空中に跳ね上がった。そしてまぶしい光が「甘露、みかん飴」を包み込んだ。一瞬時が止まったかのような静寂があたりを覆った。それからモヤが散り散りに拡散した。徐々に霧が晴れるようにみかん飴のパッケージが鮮やかなオレンジ色に変わっていく。その上に、槍をパッケージに突き刺したミランが一人立っていた。

「ふぅ。終わりました。」

 ミランが顔を上げて微笑んだ。

「私のような者でもなんとかなる、下級マノコで良かったです。」

 亮介はミランをそっと手に取り顔の高さまで持ち上げた。

「大丈夫なのか?何が起きたんだ?」

「私は平気です。このみかん飴には食霊がとり憑いていました。ご主人様は何かモヤのようなものが見えましたか?それが食霊です。ご主人様の周りで発生する食霊からお守りすることが私の使命です。しかし、どうやら、マノコの動きが活発になっていますね。そんなことよりも、ご主人様の体調はいかがですか?」

 ミランは心配そうに亮介の顔を覗き込んだ。

 亮介の体調はもうすっかり元に戻り、自らの目でミランを見ることができた。

「うん。今は大丈夫。」

「良かったです。これもじきに慣れてきますよ。」

 ミランは屈託のない顔で微笑んだ。

「私は、少し疲れました。しばらくですが、休ませていただきます。」

 そう言うとミランは静かに目を閉じた。亮介はミランを両手で優しく包み込んだ。

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