第3話 信託

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 遥か東の島に不思議な家族がいた。その家族には必ず2人の男子が生まれ、一方の男子は子を産み育てその家族の繁栄と永続を約束され、また期待される。もう一方の男子は子には恵まれる事は無く、一人歴史の片隅に置いていかれる。その不思議な遺伝システムが何十年、何百年と繰り返され続いたある時、イレギュラーが起きた。その不規則な出来事は人ならばごく当たり前の、日常にありふれているものであるが、継続されてきたそのシステムにとっては違和感となり、やがてそのズレはとてつもない力となり人々を襲うきっかけとなった。


 亮介の目の前には不思議な森が広がっている。

 どうやらここはその森の入り口らしい。草むらからまるで測ったのように巨木が左右に整然と立ち並んでいる。

 巨木の列は遠く、遥か地平線まで伸びていた。

 森の奥はまったく見えない。こちらも遥か彼方に巨木が生い茂っている。

「こちらへ来てください」

 森の奥からか細い女の声が聞こえた。

「早く、こちらへ来てください」

 もう一度その声は聞こえて来た。

 亮介は不思議な感覚になっていた。この声は、耳に聞こえているのではなく、心の中に直接語りかけているような、声と脳の間に何も通していない極めて純粋な声に聞こえた。

 亮介はその森に無意識に足を踏み入れた。

「俺は呼ばれている。」

 森の中はひんやりと暗く、光らしい光は木陰に隠されてほとんど届いていない。所々に木漏れ日が足元に光の塊を落としている。見上げてみても緑の葉の天井は分厚く、何重にも重なり合っていた。基本的に薄暗い森の中をゆっくりと進んでいく。

 足元には腐葉土になりかけの落ち葉や虫の死骸が幾十にも重なり合ってフカフカとしている。

 今の亮介に靴はない。靴下もない。裸足でその不安定な柔らかさを感じていた。

 幾本かの巨木をやり過ごした後、亮介は立ち止まり、周りを見渡した。

 相変わらず森の中はひんやりとしている。寒いというわけではない。涼しいという表現も少し違う。静寂のなかに何か一本の鋭い刃が通っているような冷たく凛とした空気が漂っている。

 しかし、不思議と恐怖心はなかった。むしろ、暖かい真綿に包まれているようなそんな安心感すらあった。

「なんて気持ちのいい所なんだ。このままここにいてもいいかも。」 

 亮介は何とも言えない居心地の良さに浸っていた。

 後ろを振り返ると、先ほど佇んでいた入り口の光は遠く小さくなっていた。

 前を向くと、そこは森の奥に続く薄暗い緑と茶色の空間がある。

 亮介はふと足元を見た。木漏れ日が丸い光の輪を作っていた。よく見ると亮介の足ほどの大きさの光の輪は転々とまっすぐに森の奥に向かって伸びていた。

 薄暗く、光もあまり入ってこない森の中の小さな木漏れ日はキラキラと輝き亮介を誘うようだった。

「この光は何だろう」

 亮介はその光の輪に導かれるように歩みを進めた。

 フカフカの地面は歩きにくく、時折足元がおぼつかなくなって、バランスを崩しそうになる。しかし、あきらかに倒れそうになるような体の傾きも、ここでは不思議と転倒するまでには至らなかった。まるで、地面そのものが亮介の体の傾きを察知し、それとは逆方向に傾いて空間自体が亮介を転倒させないでいるようだった。

 亮介はよろめきつまずきながらも、光の輪を辿った。その木漏れ日のような光の輪に足を載せる度にその光が小さな粒となり舞い上がった。

 その光の粒は亮介の膝のあたりまで浮き上がりすぐに消えてしまう。一瞬辺りは暗くなる。そして、すぐに次の光の輪が現れて亮介を導き入れる。

 一つ一つ、ゆっくりとバランスをとりながら光の輪を踏みつつ亮介は森の奥へ奥へと進んでいった。

 どれくらい進んだだろう。かなりの距離を歩いて来たはずだが疲労は感じられない。

 森の入り口は遥か彼方にあり、もう見えなくなってしまっている。

 木々の葉を揺らす風もなく辺りは静かだ。聞こえる音は亮介の足が柔らかな地面に着く軽いフワリとした足音だけだ。

 光の輪は徐々にその大きさを変え、小さくなっている。浮き上がる光の粒も心なしか少なく感じられた。

 やがて、その光の輪が親指ほどのサイズに変わった時、亮介の目の前に大きな光の輪が現れた。

 前を向いて歩きながら来たはずだから、その進行方向には何があるかは目視出来たはずだ。しかし、その輪はまさに突然現れた。

 それは、今まで歩いて来た光の輪の何倍も大きく亮介が両手を広げてもまだ十分な余裕があるほどのだった。

 亮介は導かれるようにその輪の中に入っていった。一旦明るくなり中心は暗くなる。その光の輪は踏んでも粒になって舞い上がりはしなかった。光の部分だけ暖かく熱を持っているようだ。見上げて見ると、白く円形の物体が浮遊していた。

 亮介の頭上、遙か上方にある円盤の大きさは今見ている影ほどではなく、人一人分くらいの大きさだろう。厚みはさほど感じられない。

 その円盤がゆっくりと下降してきた。輪の中心部の影が徐々に広がっていき、明るく光に照らされていた輪郭線が同じ速度で細くなっていく。

 亮介はその下降の速度に合わせるようにゆっくりとその円盤が降りられるだけのスペースを空けた。

 徐々にその円盤は大きくなり、やがて亮介の目の高さまで降りてきた。

 その円盤には薄い布だけを身体に纏った人物が乗っていた。

 その人物は裸足で、全身をすっぽりと覆っている布は薄く、上から照らしている眩しい光で体のラインがはっきりとわかった。

 腰は程よく括れ、少し下腹が出ている。体は左右にくゆらせて肘を曲げた両腕に体を覆っている布が巻きついている。右の肩から袈裟懸けに垂れた布は腰のあたりを一周して背中を通って腕に巻きついていた。

 その豊かな乳房は薄い布が隠していたが、上から照らされる光がスポットライトのようにその影を腹の上に作っていた。

 装飾は何もつけず、手には小さな壷を手にしていた。女神なのか、天使なのか、それはよく分からなかった。

「よくここまでたどり着きましたね。」

 その声は天空から降り注ぐように、亮介の全身を包んだ。

「あなたはこれから新しい運命を歩んで行くことになるのです」

 心地よい音の周波数にウットリとしてしまう。

「あなたは、なぜ特別な能力もない自分がこの地に足を踏み入らせることができたのかはわからないでしょう。それはあの子がそうさせたのです。あの子があなたを認めたのです。この地を訪れた者は運命に従わなければなりません。もし、それに抗うことがあるなら、それは、あなただけじゃなく、多くの人が悲しむことになるでしょう」

 今の亮介にこの話は無意味だった。ただただこの快感に身を任せることしかできなかった。話す文章は単語単語にブツ切られ、前後の脈略が曖昧になっていた。亮介の頭に記憶として残るのは、単語になった言葉でもなく単なる音でしかなかった。

「あの子を守ってあげてください。あの子はあなたを選びました。あなたにはコレを授けます」

 そう言うと、手に持っていた壷を傾けた。

 トロッとした光の液体がキラキラと流れ出て、亮介の頭を濡らし始めた。

 亮介は訳もわからずただ為すがままにその液体を受け入れた。いや、抗うことなど出来ないほどに快感が全身を巡り、身体中の力という力が無くなり、筋肉や骨はトロけて混ざり合うような感覚があった。

 亮介は目をつむり、その快感に全てを委ねて耽るしかなかった。


 遠くで、読経の声が聞こえている。独特のリズムと抑揚で読まれる経は、亮介の目を覚まさせるのには程よい音量だった。

 ふと、目を覚ました亮介はよほど深い眠りから目覚めた以上の爽快感に包まれていた。亮介は畳の上に敷かれた布団の中で目が覚めた。こんな爽やかな目覚めは今まで感じたことがないくらいに、頭の中は晴れ晴れとしている。まるで、これまで生きてきて身にこびりついた汚れや汚物を全て洗い流し、清潔で潔癖な状態で生まれ変わったかのような快感を感じていた。

 亮介は体を起こし、周りを見渡すと自分のいる場所が龍告寺の本堂の片隅にいることが分かった。経を読んでいたのは慶長だった。

「ん?」

 慶長の経が不意に止まった。

「お目覚めですか」

 慶長がこちらを見ながら言った。

「何やら楽しい夢でもみていられたのですかな?ニヤニヤとされていましたよ」

「今、何時ですか?」

「二時を少し過ぎた頃でございますよ」

 ここへ来たのが正午過ぎだったからさほど時間は経っていない。

 亮介は立ち上がって、慶長に近づいていった。

「んーん、だいぶと楽しんでらしたのですな」

 慶長の視線が亮介の下半身に向かう。

 亮介は確認するようにその視線の先を追って見た。

 亮介のズボンのチャックが盛り上がっていた。

 慌てて下半身を隠して

「なんなっ、なんだっていうんだよ」

「いや、私は別に。ふふふ」

「生理現象だよ!仕方ないじゃないか!」

「はい?私は別に、なーんにも。ふふふ。お元気そうで何よりでございます。ふふふ。」

 もう一度視線が下に向かった。

「ちょっと、いい加減にしろ!それより、トイレはどこだよ?」

「そうですわね。私も経験がありますよ。それは。早く出して来てくださいねー。」

「変な言い方するなよ!」

「御本尊の裏に出口がありますから、そこから、橋を渡って右手に厠がありますよ。」

 亮介は前かがみになってトイレに急いだ。

 外は五月の終わりの少し湿度の高いでも、清かな風と柔らかい太陽が優しく辺りを照らしていた。

 亮介は排尿を済ませた後、本堂に戻って来た。

 亮介が寝ていた布団は綺麗に片付けられていた。

「ところで、変な夢を見ていたのだけど」

「ほう。なんですか?そのような破廉恥な夢の話は聞きたくないですが。」

「いやいや生理現象だし、アンタも男ならわかるだろうが!これからする話は真面目な話じゃ!」

 亮介は慶長の横に座った。

 板の間はヒンヤリとしていて、胡座をかいた足が少し痛みそうだった。

 亮介は慶長を見て、慶長は本尊の薬師如来像をみている。

「んで、どんな夢だったのですかな?人の話を聞くのも僧侶の大切な仕事でございます」

 亮介はあの儀式から瞑想状態に入り、森の中のこと、光の輪のこと、突然現れた女性のこと、その女性が言っていたことなど、不思議な、でも現実感があって、多幸感に包まれたことなどを話した。

 慶長はじっと亮介の話に耳を傾けていた。

 亮介が話終わり、しばらく慶長は長く考え事をしているように静寂が漂った。

「うーん、それはきっと」

 慶長がゆっくりと言葉を選びながら話し出した。

「あなたは選ばれたのですね」

「誰に?何目的で?」

「これは、少し長い話になりそうです。いえ、話はいたってシンプルなんですが、亮介さんが受け入れるのには少し時間がかかるかもしれません」

「そんな大それたことなのか?」

「こちらへどうぞ」

 そう言うと慶長は立ち上がり、歩き出した。

 亮介はその後ろをゆっくりとついていった。

 薬師如来像の後ろ、本堂の裏手に当たる観音開きの扉は、広く開け放たれ、外の光が一直線に刺していた。

 本堂を抜けると渡り廊下の長い橋があり、観音堂につながっている。観音堂はさほど広くなく、普通の教室の半分くらいの大きさに感じた。正面にごく最近作られたのかピカピカと黄金に輝く十一面観世音像が安置されている。左に先ほど亮介が用を足したトイレがあり、右側には横開きの障子のような曇りガラスの扉があった。

 慶長はその扉をそっと開けて中に入っていった。続いて亮介も中に入った。

 部屋の中は暖かく、初夏の日差しが差し込んでいた。八畳ほどの広さの畳の部屋は良く整理され、清潔感があった。

 その部屋にさっきの儀式で除霊された女の子が布団に寝かされていた。

「この子の名前はコバトといいます」

 慶長はコバトの枕元に座り、軽く合掌した。亮介もその横に座り、じっとコバトの顔を眺めた。コバトはスヤスヤと優しい寝息を立てて深く眠っている。寝顔は穏やかでこうしてみると、どこにでもいる普通の少女といった感じがする。

「亮介さんもお分かりのようにこの子は、普通の子ではありません。」

 慶長はゆっくりと話し出した。

「コバトの母親は本当にコバト思いの優しい女性でした。顔は美しく、人懐こい近所でも評判のお母さんでした。コバトもそんな母親が大好きでいつも足元に絡みついては優しい笑顔を求めていました。しかし、この子の母親がある日突然鬼の形相でコバトを罵り出したのです。そのきっかけは些細なものでした。コバトの服が汚れていたとかそんな程度の事です。次第にそれは暴力に変わりました。しかしその暴力はコバトにではなく母親自身に向かいました。恨み辛みの言葉を吐きながら刃物で自分の体を切り刻み始めたらしいです。それは口にするのも恐ろしいくらい凄惨なものでした。実は、この子の母親はマノコにやられていました。」

 ゆっくりと話す慶長の声が部屋全体の静けさに響く。

「コバトは恐ろしくなりこの寺に逃げてきました。その時は裸足で足の裏は傷つき血が滲んでいました。母親の返り血を浴びて服は真っ黒に汚れていました」

「それで?」

「この子は寺に保護されました。母親はそれ以来行方不明です」

「この子の父親は?」

「わかりません。もうすでに他界されてるのかもしれません」

 亮介はコバトの過去を知り愕然とした。こんな小さな子がそんな悲惨な過去を持っているとは思いもよらなかった。

「でも、なんでこの子が特別な子なの?」

 亮介は聞いた。

「いわゆるマノコに取り憑かれた母親の子どもで、確かに悲惨だろうけど、なんで龍告寺が預かっているの?」

「お寺は困っている人がいると助けないわけには参りません。それに、マノコの存在は公になると困る人たちがたくさんいるのです。確実に騒ぎになります。そうすると龍告寺としても困る事ばかりになります。」

「なるほど。それでコバトを預かっていると。」

「そうです。コバトはまだ幼い。一人では生きていくことは到底できません。コバトは龍告寺で預かることにしました。だから、もうしばらく、時が来るまではこのままです。」

「なるほど。コバトの事はだいたいわかった。けど、それが俺にどう関係あるの?」

「それは、あなたが見た夢です。」

「はぁ」

「あなたは、マノコに取り憑かれるところでした。」

「俺が?」

「それは、コバトの体液と濃厚な接触がありましたから。」

「確かにコバトのゲロを被ったけど」

「そうです。それが少なからず体内に吸収されています。マノコは小さな傷や粘膜からでも必ず体内に侵入します。」

「ウィルスみたいだな」

「そうです。それは目には見えない形で辺りをさまよっています。そして、宿主を見つけるとそこを、住みかとして活動を始めるのです。宿主はキャリアーとなり、食物を通じてマノコをばら撒きます。それは、人の精神に取り付くのです。多くのウィルスは体調を崩します。ですが、マノコは人の精神を壊していきます。」

「じゃあ、コバトはその宿主となっていると」

「そうです。コバトはあの事件の時、母親の返り血を大量に浴びています。もう、マノコに侵食されているのは明らかでした。この子は宿主でありキャリアーなのです。そしてキャリアーは増殖します。」

 亮介は生唾を飲み込んだ。

「しかし、この場所は神聖な場所でマノコは入ってこられません。体に入ったマノコもこの場所では無力です。きっと、何かあればここに来ることと母親から教わっていたのでしょう。そういう意味ではコバトはこの場所に来る事は必然だったのかもしれませんな。」

「ここから出られない理由はそういうことなのか。」

「はい。それに、不思議なことに普通の人がマノコに取り憑かれたならば、目の色は赤く充血し、黒目は濁るのですが、コバトの目は恐怖を感じていたけど、普通の眼差しを持っていました。こどもの純粋性がマノコの影響を少なくさせたのかもしれませんね。」

「ちょっと待って、その話だと俺の体にはもうすでにマノコが侵入しているのか。」

 亮介は不安になった。

「はい。残念ながら、間違いないかと。」

 亮介はどう表現すればいいのかわからないくらいの衝撃を受けた。目の前の風景が歪み、体は真っ直ぐに支えていられないくらいに血の気が引いた。

「お気を確かに。でも大丈夫ですよ。もう貴方の中に入っていたマノコは取り除きましたから。」

 と言いながら、慶長は懐から小さな虫箱のようなものを取り出して見せた。

 その網の箱は手のひらサイズより少し大きめで、立方体だった。取っ手の類はなく、網で形を作っただけの質素なものだった。

 その中には西洋の鎧に身を包んだ小さな女の子が眠っていた。髪の毛はブロンドヘアーで長く、全身をスッポリとその鎧で覆われていた。指の先まで金属質の鎧で覆われているので、体型まではよくわからない。胸の装飾はほとんど無く、その稜線に沿って少しのくぼみと細い凸凹の線が描かれていた。その女の子は、フルフェイスヘルメットのような頭全部を覆うタイプの兜を枕にして体ほどの大きな剣を抱きかかえながらスヤスヤと眠っていた。

「この子は?」

「これは、貴方に取り憑こうとしていたマノコですよ。」

「でも、女の子じゃないのか?」

「そうですね。私にも女の子に見えます。しかし、マノコに性別など御座いません。あるのは生命活動を持続させるだけの本体のみです。だから、あるものには女の子に、またあるものには犬や猫のような形に見えるのですが、そうですか。貴方には女の子のように見えますか。」

 慶長は何だか嬉しそうに言った。

「こうやって取り出して捕まえてみれば可愛いものなのですがね。」

 と染み染み言って、コバトに視線を落とした。

 コバトはまだ安息の寝息をたてている。

 慶長はコバトの枕元に網の箱を置いた。

「そう言えば、この間のマノコも女の子よように見えたけど。それも、鎧をつけてた。でも、デザインが少し違うような。」

「そうです。それぞれ取り憑く食材によってマノコは姿形を変えるのです。除霊の時は猛烈なエネルギーを発するので普通の人でも見えることがあるのですが、平時にその姿を見ることができる者はごく限られています。亮介さん、貴方は見えるのですね。」

「うん。見えるよ。」

「やっぱり、貴方は…そうですか。」

「ん?」

「少し本堂へ戻りましょうか。」

 そう言うと網の箱を手に、慶長は立ち上がり部屋から出て行こうとした。

「コバトを起こしちゃ可哀想でしょ。」

 それもそうだ。コバトはその小さな体にもかかわらずとてつもない人生を歩んでいた。せめて、この時ばかりはゆっくり眠らせてあげなければ。

 亮介は静かに気をつけながら扉を閉めて先に出ていた慶長の後を追った。


 本堂はしんと静まりかえり、冷ややかな冷気が漂っているように感じた。外は五月の暖かい陽の光が照っているのに、本堂は少し肌寒い。本堂が観音堂に比べて広いこともあるが、それ以上の何かが体感温度を下げているように感じた。

 表からの入り口すぐの寺務所で慶長はお茶を入れた。

 暖かいお茶の香りが湧き上がる。

 慶長は湯呑みを亮介の前に置いた。

 慶長は自分のお茶を一口啜った。

 亮介も口の中を湿らせた。優しいお茶の甘さが口いっぱいに広がった。普通、この時期なら冷たい麦茶などが欲しくなるのに、今はこの湯気のたっている暖かいお茶がありがたい。

「コバトが大変な子だということはわかっていただけたと思います。」

「確かにそうだね。あまりにも壮絶な人生すぎてチョット言葉が出てこないや。」

「ですよね。あの子は大変な子なのです。」

「でも、それと俺はどんな関係があるの?」

「そうです。貴方は見えてしまっているのです。」

「なにが?」

「マノコが。」

「マノコ。」

「貴方はどういう訳か選ばれてしまった。」

「何に?」

「もう一度、貴方が見たという森の中の話を思い出してください。貴方は貴方が見たという女性にコバトを助けるよう頼まれましたね。」

「あの人がいうあの子とはコバトのこと。」

「きっとそうです。彼女はきっとコバトの母親か、それに近しい者。貴方はコバトを助けてあげなければならないのです。」

「いや、何に言っているのだろうね。訳がわからないよ。」

「でも、これは事実なのです。貴方は選ばれた。きっと貴方に特別な何かをコバトは感じたのでしょう。」

「いや、守るってどうすれば。それに突然そんな事言われてもどうすれば。」

「何もしなくても結構なのです。貴方は何も。時々コバトに会いに来てあげてくれれば。」

「いや、たまに会いに来るぐらいならいつでもいいけど。守るとかそんなの俺、無理だからね。」

「大丈夫です。ここ何百年も何も起きていません。マノコの活動も強まってはいるものの、今のところ大した動きはなさそうだし。事前に我々が察知して潰していますしね。しかし、キャリアーの存在が気になります。この辺りに少なくとももう一人キャリアーとなっている宿主がいるとおもうのですが。」

 慶長の言葉は急に軽くなった。

「とにかく、コバトの事はよろしくお願いしますね。」

「ちょ、そんな一方的な。」

「仕方ないのですよ。ある意味運命…」

 慶長が湯呑みに手をかけて、お茶を飲もうとしたその時、ガラっと突然寺務所の扉が乱暴に開けられた。

「ゴルァ!慶長!あんたお勤めサボって何やらかしとるねん!」

 物凄くドスの効いた声で恵が立っていた。

 以前あった時の格好とは違い、恵はラフな黒いキャミソールに青いカッターシャツを羽織っていた。相変わらず胸は豊かだ。キャミソールはその豊かな胸を覆ってはいたが、お腹のあたりに空間がある。その豊かな胸に引っ張られ、キャミソールは短くなり、くびれた腰からほどよくしまったお腹のヘソがチラチラと見える。

 仁王立ちしているショートパンツから覗く長い足は白くて傷一つなく、程よい肉付きで真っ直ぐに伸びていた。

「ヒェ!」

「ボケァ!早くお勤めせんか!」

「ヒェー、分かりました。お許しを。今すぐ参ります!」

 恵の声は明らかに怒りがこもっていたが、同じ部屋にいる亮介に気づくと、急に声色がかわった。

「あら、亮介さん。いらっしゃったのですね。」

 この変わり身の早さに亮介は

「こ、こんにちは」

 と挨拶をするだけで精一杯だった。

「チョット失礼します。」

 と言って恵は慶長の剃り上げられた頭を両手で掴み、乱暴に部屋から引きずりだした。

「痛い!痛いですよ。」

「やかましいわ!こんなんだからアンタはまだまだ中途半端な除霊しかできない半人前なのよ!」

 部屋の扉の前まで連れていかれた慶長は

「とにかく、貴方は選ばれたのです。コバトのことをよろしくお願いしますー!」

 と叫んで、その場から消えていった。

 亮介は少しぬるくなったお茶を一気に飲み干した。

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