第2話 出会い

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 繰り返される命のやりとりが始まり数万年後、食物連鎖の呪縛はより強固になり、その星は安定期を迎えた。様々な地殻変動を繰り返し、多様な生物が生まれては絶滅した。様々な要因を内包し適合できたものだけが生き残り、取り残されたもの達は静かにゆっくりと確実な死を迎えた。

 弱肉強食の生き残りを賭けた戦いの中で、力のある者はその栄華を享受するかのように思えた。しかし、力だけの支配は陰りを見せやがて支配される側に追いやられていくことになる。その地はかつては力のない弱いものが知恵をつけ支配者となり捕食者となった。かつては自らの力を誇示しこの世の春を謳歌していた喰われるものは憎悪と妬みの心を増幅させていく。


 最寄りの駅からもうすでに上り坂を5分は歩いただろう。日光は爽やかさをなくし、ただただ熱を放つ発光体となっていた。

「クソッ、まだ着かないのか。」

 亮介の制服のシャツはじっとりと汗がまとわりつき出した。

 あの悪霊ばらい騒ぎのおかげで、配達予定の料理屋さんにはずいぶん遅れて到着したし、慶長がバイクを揺らしたおかげで中の『鈴なり茄子の辛子漬け』は箱から飛び出していた。取引先さんからは「アンタのトコも大変ねぇ」なんてフォローされたけど、元来責任感が強い亮介は遅刻したことと『鈴なり茄子の辛子漬け』が傷ついたことに少なからずショックを受けていた。

 そんな亮介に、迷惑をかけたということで恵から二人の実家である龍告寺に招待された。

 まぁ、お詫びと言うならそんなに悪い気がしないし、日曜日はいつもする事がなくて暇を持て余していた。なによりも、またあの恵さんに会えるならと軽く了承した。

 しかし、龍告寺は最寄りの駅からは遠くはないと聞いていたが、こんな上り坂とは聞いていなかった。圧倒的壁のような坂を目の前に亮介の心は折れそうになっていた。

 もう疲れた。足がついていかなくなってきそうだと思った時、突然道が無くなり目の前には立派な門がそびえ立った。

 太く立派な門柱には『総本山 龍告寺』と書かれた看板がかけられていて、来るものを優しく迎え入れるような雰囲気…では無かった。

 この巨大な楼門は門扉の上にこれまた大きな屋根が必要以上に出っ張り、庇というより壁のない家屋のように見える。この巨大でアンバランスな屋根を支えるための太い門柱であり門扉なのではないかと思わせられる。その屋根と門扉の間の装飾は緻密で、雲の隙間から龍が玉を咥えてこちらを睨みつけていた。この必要以上に大きく違和感のある楼門の前に立つと、訪問を拒まれてるような威圧感が漂っている。

「はぁ、やっと着いた。これが龍告寺か。」

 その巨大で立派な門扉をくぐると、静けさと涼しさが同居して何とも言えない清涼感が辺りを包み込んだ。

 玉砂利が敷き詰められた境内は門扉に似て広く、真ん中に石畳みの通路が本堂へと来訪者を導いていた。左右には大きな松の木が立っていて、シンメトリーを作っていた。

 左の松の木の辺りに近所の子供か、年の頃なら小学生の低学年くらいの女の子が小さなボールをバスケットボールのドリブルのように地面に落としていた。

 長袖のシャツに柔らかそうな黄色いスカートをはいたその女の子は前髪を揃え、オカッパに整えられたその髪がサラサラと初夏の風に揺れながら、所在無げに時間を過ごし、誰かを待っているようにも見えた。

 亮介はその少女を横目に本堂へと足を伸ばした。

 門をくぐった時から目の前に鎮座していた広い屋根の本堂は、近づくにつれその存在感は増していった。

 亮介は浄財と書かれた賽銭箱の横を通り過ぎ、靴を脱ぎ本堂のど真ん中にある石段を上り、本堂をぐるりと回廊する木で作られた廊下に立った。

 木でできた廊下はヒンヤリと冷たい。一歩進むにつれ木が軋む音がする。

 本堂の中へ入る引き戸は開けられていたが、亮介は回廊を回ってみたくなった。

 ゆっくりと足を運んでいると、木の軋む音と爽やかな風が亮介の心を落ち着かせた。

 程なく、本堂を一周して元へ戻って来ると、慶長が回廊に出て待っていた。

 慶長は亮介の姿を見ると深々と頭を下げた。

 これにつられて亮介も両足を揃えて軽くお辞儀をした。

「こんにちは、亮介さん。お待ちしておりました。」

 慶長が落ち着いて挨拶をした。

 先日の雰囲気とは随分違って、今日は慶長の声が穏やかに聞こえる。

「先日は誠に申し訳ない事をしました。改めてお詫びを申し上げます。」

 また深々と頭を下げる慶長は、何年も厳しい修行に耐え忍んで酸いも甘いも経験した立派な僧侶のようにも見えた。

「いえ、こちらこそお呼ばれに遠慮なく来てしまいました。」

 そう答えた亮介に慶長は

「いえいえ、よくお越しくださいました。どうぞこちらへ。」

 と本堂の中へ誘い込んだ。

 本堂の中は、薄暗く、畳が敷き詰められた広間となっていた。ど真ん中に小ぶりな薬師如来像が祭壇の上に立っていて、キラキラと陽の光を浴びていた。

 この薄暗い本堂の中では、陽の光を反射させた黄金の薬師如来がまぶしく輝き、自らが光を放っているかのように錯覚する。

 亮介はその薬師如来像に違和感を感じた。

 あまり、仏像には詳しくない亮介でもこの違和感の原因はわかる。

 本来、如来や菩薩といった御本尊となる仏像は蓮の上に座っていたり、立っていたりするものなのだが、龍告寺の薬師如来は平たい円盤の上に立っていた。まるでそれは、皿のようだった。

 皿の上に立っている薬師如来がメインデッシュで、その横にある月光菩薩と日光菩薩が付け合わせの野菜か何かのようだ。

 そして、祭壇に至るまでの、一段低いところには箸と思われるような二本の細長い直方体の物体が置かれていた。

「ここの御本尊さまは薬師如来立像でございます。」

 慶長がゆっくりと話し始めた。

「周りにおられる方が薬師如来さまをお守りする月光菩薩と日光菩薩でございます。」

「あのー、この仏像は他の仏像とは少し趣が違うようなのですが。」

 思い切ってたずねてみた。

「そうです。龍告寺の薬師如来さまは全国でも珍しい、食材を守ってらっしゃる仏様なのです。」

「はぁ。」

「これらの仏像は全て我々が口にするあらゆる食材をモチーフにして作られました。」

 確かに、改めて三体の仏像を眺めて見ると、薬師如来の足元には鯛やヒラメなどと魚をモチーフにかたどった装飾がされていた。

 向かって左の月光菩薩の足元はナスやキャベツ、ピーマン、それにキノコ類もある。

 反対の日光菩薩の足元には、明らかに肉である。骨の着いた肉や、スライスされた肉等、亮介が見て来た仏像とは明らかに異なっていた。それに、仏像たちの囲い飾りも、様々な食材の形をしていた。

「薬師如来さまのお手元をご覧ください。」

 その言葉に導かれるように亮介は視線を上に持ち上げた。

 優しく微笑みかけてくるような柔らかい表情の薬師如来の右手は肘を曲げ五本の指は柔らかく広げられている。薬指だけが少し前に出されていた。左手の手元には、モコモコとした楕円形の物体が置かれていた。薬師如来は手を少し前に出しているので、その物体を差し出している形になる。

「本来、薬師如来さまの左手には薬の入っている徳利のような薬壷をお持ちになられているのですが、我が寺の薬師如来さまの手にはコロッケが置かれています。」

「はあ?」

「コロッケです。」

「コロッケですか?」

「コロッケです。」

「ふざけてますか?」

「コロッケです。」

「いや、なんでコロッケ?」

「それは、よくわかりません。」

 慶長の言葉に嘘や偽りはなかった。

「月光菩薩さまのお持ちになられている持ち物をご覧ください。」

 月光菩薩は右手を持ち上げて、左手は垂らしたようなポーズをとっている。もちろんそれと対になるように日光菩薩もまた、逆の手で同じポーズをとっている。少し腰を捻ったような曲線的なラインはどこか女性的である。

 それぞれの手には先ほどの薬師如来のコロッケほどではないものの、同じような楕円形の物体が持つというより、つまむように右手と左手にあった。それらを繋いでいるのは柔らかい曲線の布のような白いものである。

「ナゲットです。」

「はい?」

「チキンのナゲットです。」

「なんで?」

「チキンナゲットが柔らかい布でつながっております。」

「いや、だからなんでチキンナゲットなの?」

「……。」

「なんで?」

「…なぜでしょう…。」

「…わかりません…てか、俺がわかるわけないでしょ!」

「私にもわかりませんよ!なんで御本尊さまの手にはコロッケで、周りの菩薩さまにはチキンナゲットなのか?それに、周りの囲いを見てください。囲いの四隅には大抵丸いスライムのような形の擬宝珠が置かれるのに、なんでウチはこんなんなんですか?」

 よく見て見ると、寺社仏閣の橋の欄干や手すりについているスライムのような擬宝珠がこの寺のは少し違っていた。

 慶長が向かって左手の奥から説明する

「アレが、イチゴのショートケーキです。そして手前のがソーセージでしょ。右の手前のが餃子ですし、奥のがたこ焼きです。」

「はぁ。…庶民的なものばかりですね」

「なぜこのような装飾がされているのか謎です。」

「………」

 亮介はこの寺に何を思うのかよく分からなくなっていた。普通に想像できる範囲をはるかに超えたこの寺に混乱していた。

 長い沈黙が流れた。二人とも何も喋らない。というよりも、何を話していいのかよくわからなくなっていた。本堂の外では暖かい初夏の風が吹いて、女の子のつくボールの音だけが遠くに聞こえていた。

 不意に、沈黙が破られた。

 本堂の奥から大柄な茶色い作務衣を着た男がお盆に湯呑みを三つ乗せて現れた。その男は年の頃なら五十代か。立派な体躯で腕は太く、毛深い。顎には無精髭がたくわえられていた。

 いかにもワイルドな風貌に、亮介は圧倒された。

「やぁ、こんにちわ」

 その男はよく通る低い声で挨拶をした。

「君が中川亮介君か。子供たちがご迷惑をかけてしまったようで。申し訳ない。さぁ、立ち話も何だからお茶でも飲みながら、どうぞ。」

 遠くまで届くだろう大きな声は本堂の障子を震えさせた。

 三人はその場で車座に座り、それぞれの前に床に直置きで湯呑みが置かれた。本堂の畳敷きの床は程よく冷たく、ここまで歩いてきた熱い体をゆっくりと冷やしてくれるようだ。

「私は織田良観です。慶長と恵の父親で龍告寺の住職ということになります。」

 良観は深々と頭を下げて

「よろしく」

 とニッコリ笑った。

 その笑顔は浅黒いよく焼けた肌に白い歯がキラリと光り、いかにも健康そうで見栄えが良かった。

 亮介は良観の運んできたお茶を一口飲んで喉を湿らせた。そして、

「どうしてこのお寺の御本尊は食べ物にまつわるものばかりなのですか?」

 思い切って亮介は聞いてみた。

「その理由はこの寺に伝わる話を聞いてくれれば理解できるかと思う。」

 良観はゆっくりと語り出した。

「ウチの寺は代々この薬師如来様を御本尊として祀っているお寺なんだ。この薬師如来様は医食同源、つまり、食べることは医療と同じかそれ以上の効果があるとされてきた。それは健康な土と美しい水があってこそのことだ。我々の食事は地と水に導かれるように自然の中で育まれてきた。しかし、いつの頃からかそれを良しとしない輩が出てた。人間を忌み嫌い、人々を不幸のどん底にたたき込もうとする連中が。奴等の狙いは我々の食事に毒をもり、人間を自由に操り自分たちの好きなようにこの世の中を支配することだった。この者達はマノコと呼ばれた。マノコは人々の心に隙間を作りその隙間に入り込むことで人々を意のままに操ろうとしていた。マノコのマは隙間の間とも悪魔の魔とも呼ばれている。」

「ほう。なんだか、伝承系のお話ですね。」

 亮介が相槌を打った。

「我々のご先祖様はこの者たちと壮絶な戦いの末、北の山にその者たちの邪心を封印する事に成功した。ご先祖様達は、この地に寺を建てて、あの北の山を見張ることにした。再びマノコが復活しないように。」

「なるほど。それで薬師如来達は食べ物に関する物を持っているのですね。」

「左様。我々にとって最も大切なものは食べること。まぁ、マノコ伝説は一つのお話と思って聞いてくれていいのだけども、食事に何か良からぬものが入ることは到底許されない。きっと御本尊はこの事を忘れないようまた戒める為に大皿の上に立ってらっしゃるのだろう。」

 良観は真っ直ぐ亮介の目を見ながら話した。ギョロリとした大きな目で睨まれると、心の奥底まで見透かされているようであった。

 一通り、龍告寺の話を聞いた亮介は広い境内を案内してほしいと頼んだ。

 亮介は特に仏教や仏像に興味はない。家も無宗教で初詣に行き、お寺で法事は行われ、十二月にはクリスマスをするごく普通の家庭で育ってきた。

 しかし、この不思議なお寺には興味が湧いていた。

 龍告寺の境内は全てが食にまつわるもので出来ていた。塔頭も、講堂も、門の装飾も全てが何らかの料理が関係していた。

「茄子の辛子漬けに取り付いていたマノコは小さな女の子の形をしていたけど、あれはどういうことなのですか?」

 亮介は先日のマノコについて聞いてみた。

「アレは、取り付いてすぐのマノコだったのです。食霊とも言われています。マノコは人型をしていますが食霊は形のないモヤモヤしたものです。食霊は辺りに漂っていますが、どこかのタイミングで食材にそれが取り付きます。そうすると次第に食霊がマノコとなり長く食材に潜伏しているとまた徐々に形が崩れ、食材と同化してしまいます。そうなると、我々でも手出しはできません。少なくとも人型の状態で、できれば食霊の間にマノコを取り出す必要があるのです。」

 早くナスの辛子漬けから食霊を取り出さなければマノコにとりつかれる人が少なからず出てくるということだ。だから、慶長は焦っていたのかと納得がいった。

 その後は一通り、龍告寺の説明を受けた後、亮介は慶長と別れた。

 亮介は少し一人で龍告寺を見て回ることにした。

 龍告寺は思った以上に変わった寺だった。食事や料理にまつわるお寺だとは理解できた。本尊は薬師如来だ。薬師如来は病気を治し、衣食を満たし、人々を禍から救い出す仏である。確かに、先日のマノコ除霊騒動は理解しがたい出来事ではあった。それに、良観の話した事などはいわゆる言い伝えの部類だろう。しかし、彼ら親子はこの言い伝えを信じ自分の役割をきっちり果たしていた。目の前でマノコを取り出す儀式を見て、擬人化されたマノコを見た今はそれらの話を信じるしかないだろうか。亮介は戸惑いながら、境内を散策して回っていた。

 昼下がりの初夏の陽気は程よく、木々のたくさん生い茂った境内は静かで風の音が通り過ぎて行く。さほど広い寺ではない。本堂とその裏手にある観音堂と呼ばれる別館のような建物が、橋で繋がっている。敷地内は草木が生い茂った森状の垣根が境界線を作っている。

 観音堂の隣には母屋があり、慶長たち織田家の人々はここを自宅としていた。

 一通りの見学は終わったので、亮介は龍告寺を後にしようと思った。

 これからあの坂道を下って最寄りの駅まで歩くことを考えると、行きより帰りの方が楽だろうし、早く着くだろう。

 亮介が境内の奥から帰りの門まで歩こうとした時、ふと視界に前髪が切りそろえられた女の子が見えた。

 その女の子は、ボール遊びをやめて境内の玉砂利に木の枝で何やらお絵描きをしている。

「やぁ!素敵な絵だね。」

 亮介はこの女の子に声をかけた。

「可愛いでしよ。」

 透き通るような子供らしい声で女の子は答えた。

 地面を見ると、玉砂利に大きな山が描かれていた。その山の前には1匹の背中に羽が生えた天使が描かれていた。

「これは、天使さん?」

 お寺において天使を描くとは肝の座った子だなと訝しんだ。

「違うの。これは、大人になったころの私なの。私は背中に大きな羽が生えていたの。そして、お空を飛んで何処へでも行けるように。」

「へぇ。君はそんな風な事を思ってるんだ。」

 変な日本語だなと思ったが、こども特有の言葉使いだろうし、描いている絵はいかにも子供らしい、メルヘンチックな絵だと純粋に思った。

「可愛いね。きっと君もこんな風にお空を飛べるようになるんだよ。」

 そういって、亮介はポケットから開けたばかりのソフトキャンディを女の子に渡した。

「これ、新発売なんだ。ウチのスーパーで試供品としてもらったやつ。なかなか美味いからあげるよ。」

「えっ、いいの?」

「いいよ。どうせもらったやつだから。」

「ありがとう。」

 そう言うと、女の子は包み紙をほどいて、ソフトキャンディを大切そうに小さな口に入れた。

「うん。美味しい。」

 女の子は嬉しそうに笑った。

「そうだろ。なかなか美味いよね、これ。」

 亮介も自分の分の包み紙をほどいて口に投げ入れて微笑んだ。

 そのとたん、

「…うっ…げぇ…っうう〜…っ」

 女の子の様子が変わった。

「あーっ!おわぁー!」

 女の子は大きな声で苦しみだした。

 立っていられなくなったのか、しゃがみこみ口の中のソフトキャンディを吐き出した。

「ぐわぁーっ!」

 女の子は悶え苦しんでいる。明らかに、これは異常だ。

 アナフィラキシーショック。

 亮介はこの言葉を思い出した。アレルギー反応が過剰に反応しすぎると起こる、強アレルギー反応である。

 これはマズい。アナフィラキシーショックは最悪の場合死に至ってしまう。

「オイ!大丈夫か?」

 亮介が女の子の肩を持って揺りうごかす。

「ぐぇーっ。ぐぅっ、ぐぅっ」

 言葉にならない。

「ゴボゴボ」

 遂には、女の子の口から真っ黒い液体が溢れ出てきた。

 その勢いは増して、遂には吐き出すというよりも噴射するように女の子の口から出てきた。

 逃げる暇などまるでなかった。亮介は身体中にその液体を被ってしまった。

 匂いはほとんどなく、ただ、ドロドロと粘度の高い液体が顔や体にまとわりついていた。

 あまりにも突然のことで亮介は言葉が出なかった。

 女の子はとうとう倒れ込んでしまった。

 亮介の足元で女の子は仰向けになって、息が荒く肩とお腹がヒクヒクと痙攣している。

 そこへ、良観と慶長が飛び出してきた。

「オイッ!大丈夫か?」

 良観が叫んだ。

「亮介さん。あなたは一体何をしたんですか?」

 慶長が、亮介に問いかける。

「いや、俺は何も。」

 慌てて事情を説明しようとした。

「この新しいソフトキャンディをこの子にあげたんだよ。そしたら、こんなになっちゃって」

「ソフトキャンディ?」

 慶長は亮介の持っていたソフトキャンディのパッケージを乱暴に取り上げて質問した。

「これは?」

「これは、新発売のソフトキャンディ。ウチのスーパーに試供品として配られたやつ。美味しいから持ってきていたんだ。」

「…ふん…」

 女の子の肩を抱き起こしていた良観がいった。

「それをこの子は口にしたのか?」

「はい。そしたら、急に…」

「そうか。事情はわかったから、これをなんとかせにゃならん!」 

 良観が叫んだかと思うとすぐに

「オイ!慶長!今すぐ準備にとりかかるぞ!亮介くんも早くこちらに来なさい。」

 といって、女の子の身体をヒョイッと抱き抱えて本堂の方へ歩きだした。

 その後ろに慶長が足早について行った。

 亮介は慶長の後ろについた。

 本堂に入ると慶長は本尊の前に置いてあった前机や木魚、各儀式に使われるだろう仏教用具たちを手際よく端にまとめた。

 薬師如来の前には畳二畳ほどのスペースが出来上がった。良観は薬師如来の前に女の子を寝かせた。女の子はまだ肩で息をしている。顔はしかめて苦しそうだ。女の子の小さな口から短い吐息が力なく吐き出されている。

「早く、急げー!侵食されてしまうぞ!」

 良観が叫んだ。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!オン、アビラウンケンソワカ!オン、アビラウンケンソワカ!カーッ!オン コロコロ センダリマトウギソワカ!」

 良観が長い数珠を手にしながらお題目を唱えた。

 慶長は何かわからない葉っぱで丼に入れられた水をすくっては女の子に浴びせている。

 女の子は体を痙攣させながら、肩で早い息を吸っては吐いてを繰り返している。

 薬師如来の前の線香からまっすぐ伸びていた煙が今は激しく揺れていた。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!オン、アビラウンケンソワカ!オン、アビラウンケンソワカ!カーッ!オン コロコロ センダリマトウギソワカ!」

 良観の声が激しさを増していく。額は汗でぐっしょりと濡れていた。それでも、良観はお題目をやめようとはしなかった。それどころか、よく通る良観の声は益々大きくなり、力強くなっていった。

「この本堂自体が揺れている。」

 亮介はそう感じた。

 慶長も、傍に座り同じようにお題目を唱えている。

「キェーチッ!」

 良観が叫んで、持っていた数珠を女の子に叩きつけた。

 数珠は弾け飛び、女の子の周りに散らばった。

 その時、女の子の体がビクンと反り返った。

 そして激しく床に体を打ち付けたと同時に散り散りになった数珠の一粒づつが浮き上がったままその場で静止した。

 すると、真っ黒い煙が女の子の関節から立ち上ってきた。その煙は首や、腕や膝といった大きな関節からだけではなく、指の関節や、手首、脇からもユラユラと漂っている。

 その煙はフワフワと不規則に浮いている数珠の一粒づつに吸い寄せられていく。

 数珠は煙が触れた瞬間、眩しく光り、黒い煙が消えていった。

 数珠に吸い寄せられては消えていく煙と、明るく光る数珠によって女の子は眩しい光に包まれた。

 その光景は亮介が今まで見たどの景色よりも美しく、神々しく感じられた。

 良観の声が少しだけ穏やかになった。

「オン コロコロ センダリマトウギソワカ。オン、アビラウンケンソワカ。」

 良観はゆっくりとお題目を唱える。

 慶長は何も言わずに、両手を合わせて祈る姿勢を崩さない。

 二人とも汗ビッショリだ。

 良観は印を結び出した。

 親指を曲げ人差し指と中指はまっすぐ伸ばした右手を高く振り上げ、勢いよく下に振り下ろすとその腕を左右に激しく揺りうごかす。その動きを三回繰り返して最後にゆっくりと女の子の額に中指で触れて、

「はぁーっ!」

 と気合を込めた声で叫んだ。

 数珠はまだフワフワと漂っているが、あの眩い光は消えていた。女の子は優しい顔で目をつむり眠っていた。

 慶長が大きな菜箸のようなものでその数珠を一粒づつ摘んでは腰につけた虫かごのような丸いザルに入れていた。

 良観は眠っている女の子を祭壇の傍に優しく移動させた。

 慶長が全ての数珠を虫かごに入れ終えると、薬師如来の足元にある引き出しから木の箱を取り出した。その箱は慶長が身につけている虫かごがスッポリと入る大きさであった。

 良観が慶長から虫かごを受け取りその木箱に入れて、南京錠で鍵をかけた。そして、真新しいお札で封印をして、元の薬師如来の足元に戻した。

「さて、次は君の番だね」

 良観が振り向きながら亮介に声をかけた。

 女の子の口から出た吐瀉物は乾いて干からびたノリのように身体中にまとわりついていた。

「そのままでいいからこちらへ」

 と慶長が先ほど女の子のいた場所へ促した。

 薬師如来の足元に立つと、その存在感がより鮮明になる。

 左右の菩薩も薬師如来よりは小ぶりだが、十分な美しさがある。

「薬師如来様の方へ向いて座りなさい」

 良観が亮介に声をかけた。

 亮介は言われるままその場に腰を下ろした。

「よろしい。では、手を前で合掌して、頭を下げなさい。」

 慶長が亮介の手に長い数珠をかけた。

「では。これから起きることは決して夢でもなければ幻でもない。君の現実に起こったことだ。」

 良観の言葉に亮介は緊張した。これから何が行われるのか、自分の身に何が起こるのか。まったく想像がつかない。ましてや、さっきの女の子に施したあの現象は何なのか。

 ただ、あれは確実に目の前で行われ、目の前で現実に起こった。受け入れなければならないのだろう。覚悟は決まった。

「はい」

 一言だけ亮介は返事した。

「少しの辛抱ですから。」

 慶長が優しく声をかけてきた。

 その手には慶長の身長と同じくらいの長さの木の棒が握られている。

「亮介さんは、マノコではないので数珠は使えません。なので、この真正棒を使います」

「では、いくぞ。」

 そう言うと、良観は亮介の肩に手を当ててお題目を唱え出した。

 亮介はきつく目をつむり合わせた手に力を込めた。

 慶長が木の棒でもう一方の肩を軽く叩いている。

 良観の大きな手の温もりと、慶長のリズミカルな木の棒の刺激が程よい。

 いつしか亮介は深い瞑想の中に入りこんでいった。

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