総本山龍告寺、秘伝のレシピ公開します

蛭田 なお

第1話 始まり

 1


 無から有に世界が変換されて百三十億年。

 はじめはほんの小さな揺らぎであった。その揺らぎは大きなエネルギーとなり、いくつもの揺らぎを生み出した。

 数多ある揺らぎのエネルギーがこすれ合い、ぶつかり合い、エネルギーは無限の最大公倍数的に広がっていく。やがて、それは無量寿となり、あらゆるものが飽和状態となった。

 その時、溜まり溜まったエネルギーの放出が始まった。その放出は光と熱と音と衝撃と圧力といったあらゆる物理的法則を全て内包し弾け飛んだ。

 エネルギー放出期間は数億年続き、静かにその活動を止めた。静寂の空間にはエネルギーの残骸だけが残され漂った。

 人はそれを宇宙の誕生、ビッグバンとよんだ。

 ある日、あらゆる残骸の中からまるで導かれるようにお互いが惹かれあい、ぶつかり、溶け合い融合する個体が現れた。

 その個体は光り輝き、熱を発するように燃え上がる。

 今から四十六億年前、その熱と光を求めるように自らは輝けない者たちが周りを囲むようになった。あるものはガスを身にまとい、またあるものは岩石でその身を固め、その強烈な力に引き寄せられていった。

 それらは衛星となり、エネルギーの源は恒星となった。

 その中で、一風変わった形式で我が身の形状を保ったものがいた。

 それは、自らの核に土と水と大気をまとい、その核を守り安定させる熱移動を容易にするため生物を住まわせた。

 その生物たちは命の連鎖を義務付けられ、産み喰らい続けた。

 核の生命維持というたった一つの目的のために。


 若葉が芽吹き、風が爽やかさを運んで来る季節。

 優しい日差しが穏やかに全身を包み込んだ。

 中川亮介は翔陵川の三角州で足を川に浸して疲れた体を休ませていた。

「ふぅ、やれやれだぜ。」

 明らかに人の手が入っている規則的に並んだ飛び石を、川の水面が避けるようにダラダラと流れている様子を眺めていると、今まで起きてきた出来事もなぜか現実味を持たなくなっていた。

「何で俺がこんな目に会わなきゃならないんだ。」

 先週の金曜日、不思議なオトコに声をかけられてから、亮介の日常は一変した。

 ちょうどその頃は、昨年度末の成績が程々に良くて、親から念願のアルバイトを許してもらえたので、前から目をつけていた家の近くのスーパーマルカツで働き出して一カ月ほど過ぎたころだった。

 観光客で溢れかえる四月の上旬に亮介はこのスーパーマルカツに簡単な面接で即日採用になった。

 亮介がスーパーマルカツで働こうと思ったのは、無類の漬物好きだったからだ。特に、このスーパーマルカツは亮介の大好物の『鈴なり茄子の辛子漬け』が置いてあった。

 この漬物は『きらら漬け』として有名な小茄子の辛子漬けをアレンジして、小茄子を大ぶりな鈴なり茄子に変えた商品である。

 この漬物の特徴は何よりも食べ応えである。普通の『きらら漬け』は小さな茄子をひとつまみして食べる。しかし、これではついつい何度も箸を運ばなくてはならない。その点『鈴なり茄子の辛子漬け』は元から大ぶりな茄子なので自分の好きなサイズに切って食べられる。丸ごと一つ熱々のご飯の上に乗せてゆっくり辛子の刺激と茄子の旨みを堪能するもよし、小口に切り分けて茄子の周りに付いた辛子味噌を綺麗に落としてから小皿にでも盛り付けてお上品に頂くのもよしである。もっとも、そのスタイルで『鈴なり茄子の辛子漬け』を食べると毎食ごとに食卓に並んだとしてもゆうに1週間は持つ。

 その『鈴なり茄子の辛子漬け』を置いてある店は非常に少ない。それもそのはずで、この『鈴なり茄子の辛子漬け』はいわゆる自社ブランド製の商品で、スーパーマルカツの営業部長が趣味で作っていた漬物を社長がエラく気に入って、自分のところで作ろうと四苦八苦しながら何とか昨年の春に商品化にこぎつけたものだった。

 この商品は一年間でスーパーマルカツの小売だけでなく、料理屋にも卸せるくらいに急成長した。

 亮介の母親がたまたま立ち寄ったこのスーパーマルカツで初めて『鈴なり茄子の辛子漬け』に目をつけ、中川家の食卓に並んで以来亮介は虜になってしまった。


 その日は商品の『鈴なり茄子の辛子漬け』の配達と挨拶まわりを言われた。亮介にとっては初めての配達で営業バイクに乗るのは初めてだった。

 何故アルバイトの高校生が営業バイクに乗るハメになったのかというと、先日たった一人の平社員である緒方がやめてしまったからだ。緒方は亮介がアルバイトを始めたときにいろいろと教えてくれた頼れる兄貴分だった。商品の品出しのから陳列の並べ方、お惣菜を調理するフライヤーの扱い方など丁寧に教えてくれた。亮介は緒方を頼り、信頼し、尊敬していた。

 そんな緒方が「体調不良」とだけ書いた手紙を一通、店の奥の調理場に置いたままでそれ以来店にも顔を出さなくなってしまった。社員二人、アルバイト、パート含めて十四人の小さなスーパーマルカツはたちまち立ち行かなくなり、社長や部長は出張に飛び回り、店の中はベテランのパートのおばさんが取り仕切っていた。

「これはただの商品の配達ではない。マルカツのこれからの命運をかけた営業だ。」

 と初めて外に出る亮介に部長は声をかけた。

「営業の基本はマメな挨拶と契約を取りたいという強い気持ちと、それを隠す演技力だ!マメな挨拶は顔を売ることでコミュニケーションが上手く円滑に回る。そして、各顧客にあなたは特別な存在で、ウチにはなくてはならない大切なお客様なのですよ、と印象づけるのだ!要は、顧客に特別感を持ってもらうことで、次の契約が取りやすくなるというわけだ。こんなことはどこの営業マンでもやっているのはわかっている。だから、そこに自分流のアレンジを加えなければならないのだ!」

 まくしたてるように部長は言っていた。

「いや、オレ、バイトですし。そんな営業なんてしたことないし、責任重すぎるし…。」

 亮介は断ろうとしたが先日にたった1人の営業部もこなしていた緒方が辞めてしまってまだ後釜が見つからないままであった。

「中川亮介君。君にこの仕事は難しいと思う。確かに、君はアルバイトの身だ。それに一月ほどしかたってもいない。もちろんそれは分かっている。だが、しかーし!ウチは人が足りていないのだ。」

 部長の声が大きくなった。

「君はバイクの免許がある。バイクはここにある。商品も揃っている。私には免許がない。誰がこの商品を配達に行くのだ!そう、君しかいないのだ!」

「いやいや、おかしいでしょ。」

「おかしくない!君しかいないのだよ。だからね、お願いね。配達。」


 料理屋にお渡しする社長の名前が入った熨斗で包まれた菓子折りとともに、この仕事はひたすら市内を営業バイクで走り回る。

 この街はシーズンになると登山客で賑わう柊山と険しく高い山だちの綱領山に東西を挟まれ、その間を一級河川の翔陵川が流れている。綱領山側より柊山の方が発展している。どちらかというと、綱領山は住宅街で、柊山側は商業施設や官公庁が多い。

 ここから西側の回院方面に行くには、バス専用道路ができて渋滞がひどくなった六丸通りと河川通りは避けなければならない。となると、その北側の沼川通りか四丸通りのどちらかになる。

「さてさて、どちら側から行こうか。」

 この選択は非常に難しい。

 四丸通りを選択するならほぼ一直線で回院方面に抜けられるが、四丸通りから五丸通りを通って六丸通りへは必ず小さな渋滞ができている。ここは官公庁が並ぶ一番の渋滞ポイントだ。かといって、今いる川畑通りから沼川通りは多分大きな渋滞は無いだろうが、その先が問題だ。沼川通りから回院方面に行くには一度南に進路を変えなければならない。翔陵川沿いに走る沼川通りは車の往来が激しい小宮通りを抜けていかなければならない。どちらにせよ、あのダラダラと進む気だるい時間を過ごすことには変わりないようだ。

 亮介はどちらにバイクを向かわせるか悩んでいた。今の所、川畑通りはスムーズである。初夏の日差しに桜並木の葉が暖められて、緑色の風が爽やかにヘルメットの中を通り過ぎて行く。信号待ちの車のカーラジオからは陽気なレゲエミュージックが流れていた。

 時計を見ると、約束の時間まで後30分を切っていた。このままだと、どの道を通っても間違いなく遅刻する。

 亮介は1番近くのコンビニにバイクを停めて、先方に電話をかけた。

「すみません。本当に申し訳ないですが、道がエラく混んでまして…はい…えぇ…はい、わかりました。すみません。では後ほど。」

 向こうさんは何とか予定の時間を遅らせてくれた。ホッと一息ついたところ、突然後ろから

「きぇーっ!はぁーっ!きょぇわーっ!」

 という奇声が聞こえて来た。と同時に亮介の乗っているバイクがユサユサと揺れ出した。

「何?何事!」

 亮介は自分に一体何が起こっているのかわからないまま辺りを見渡した。

「きぇーっ!あーっ!じょーっ!つぁーん!」

 奇声は益々大きくなっていく。それと同時にバイクの揺れも大きくなっている。

 たまらず亮介はバイクから飛び降りた。

 すると亮介のバイクの後ろに、左手は二本指を立ててその指に長い数珠をかけて、右手はバイクの荷台をつかんでいる黒い袈裟を着た僧侶が立っていた。

 その僧侶はバイクの後ろに付いている荷台を引きちぎらんばかりの勢いで揺らしていた。

「おい!なんなんだよ!」

 慌てて亮介はその僧侶に声をかけた。

「話しかけないでいただきたい。気が乱れてしまいます。」

「いや、いや。アンタ何やってるかわかってるのか?」

「無礼も承知!しばしの時間です。お許しいただきたい。きぇーっ!」

「いやいや、待てるか!ハゲッ!何やってるんだよ!警察呼びますよ!」

「警察っ!」

 僧侶の動きがピタッと止まった

「…それはマズい。だがしかし、コイツはかなりの大物で…いや、待て、これは…。」

「おいおい、ちょっと待ってくれよ。アンタ何やってるんだ!わけがわからない。」

 亮介はその僧侶の肩に手をかけて、強引にバイクから引き離そうとした。

「お待ちください!」

「アホか。待てるか。」

「いや、待って。」

「急にオカマっぽくなったぞ。」

「お願いだから。」

「ハゲが!気持ち悪いだけだし!」

「そんな、ヒドイ。」

「だから気持ち悪いって!」

 亮介は力まかせに僧侶の肩を引いた。

「アイタタッー!」

 その力が強すぎて2人とも尻餅をついてしまった。

「…ッ…痛ーっ。」

 亮介はアスファルトにしこたまお尻を叩きつけられた。

「一体なんなんですか?」

 亮介は語気を荒げて聞いた。

「あぁ…もうダメだ。途中で終わってしまった。これは、もう戻せないかも。」

「おいっ。あんた!聞いてるのか?だから、何なんだよ、てか、誰なんだ!」

 亮介は突然現れたこの男に改めて聞いた。

「はぁ、あなたは大変な間違いを犯してしまいました。」

 僧侶は乱れた着物を払いながら妙に落ち着いた様子で言った。

「この世は見えないものと見えるものとに分けられる。人は見えるものだけを信じ、見えないものは信じようとはしない。しかし、見えなくてもそこには必ずあるのだ。それは感じ取っているはずなのだが、人はそれを信じようとはしない。」

「はぁ」

「つまり、感受性が働けば見えざるものが見えて、見えていたものが見えなくなる。これ、真理なり。」

「…はぁ?…って訳のわからないことを言ってんじゃぁねぇ!」

 亮介は渾身の力を振り絞って僧侶の胸ぐらを掴んだ。

「あーっ、待って。話せばわかりまする。話せばぁ!」

「やかましいわ!」

「イヤーッ!お願いだから殴らないで。話さなきゃわからないではないですか。」

「話すも何もアンタが一方的にこのバイクに手をかけてきたんだろうがぁ!」

「ヒェ〜!」

 その時、亮介の後ろから声がした。

「待ってください。」

 亮介は僧侶の着物に手をかけたまま振り向いた。

 そこには、黒い法衣を着ている女性が立っていた。女僧侶の髪は少し茶色がかり、豊かに揺れている。女性にしては身長は高く、両手足も美しくすらっとしていた。目鼻立ちは非常に整っていて、洋服を着ても道ゆく男を十分振り向かせるだろう。

「弟のご無礼をお許しください。」

 そう詫びるとその美しい僧侶は深々と頭を下げた。

 その時、法衣からたわわな胸元がチラリとのぞいた。その女僧侶の法衣はよほど慌てていたのだろう、少し乱れてはだけていた。

 亮介は目線をそらせながら

「いや、許すも何も、なんの説明もないし、訳わからないし。」

「それはそうですね。まずは自己紹介をさせてください。私の名前は織田恵です。あの山の中腹にある龍告寺で修行をしている尼僧でございます。この者は、私の弟で同じく龍告寺で修行をしている織田慶長です。この度は本当に申し訳ないことをしてしまいました。ごめんなさい。」

 恵はそう言うとまた勢いよく頭を下げた。

 亮介は今度こそはバッチリ胸元が確認でき、心の中で軽くガッツポーズをとった。しかし、その心を悟られないように平静を装いながら

「あなた方がお坊さんということはわかりました。でも、なぜこの人はこんなことを?」

「実は今朝からこの町の様子が変なんです。これは、僧侶で修行を毎日している私たちだから感じ取れる気配なのですが。とにかく、その気配がいいものなのか悪いものなのか皆目見当もつかないのです。私たちはこの気配の正体を確かめようと寺を出てきました。そして、このバイクにたどり着きました。とにかく、このバイクには何か妖しい気配を感じます。」

「いや、突然そんなこと言われても…。」

「このバイクに乗っているものは。」

「漬物だけど。」

「漬物ですか…うーん。」

 恵が迷っていると横から

「間違いない!この気配の正体は漬物だ!」

 慶長が口を挟んできた。

「ちょっと黙っていてくれる!才能ナシが!」

 慶長を睨みつけた恵の目は恐ろしく冷たかった。

「ヒィッ。」

 よほどの恐怖なのだろうか、慶長は肩を窄めて小さくなった。

「そうですね。多分これが原因かと。」

 と言うとバイクの泥除けと荷台の間に手を差し出すと何やらブツブツ唱え出した。

「オン…。ワカ…。オン…ワカ…。」

 だんだんと早口になっていく。

「オン…コロ…オン…コロ…オン…ワカーッ。」

 美しい恵の口から聞こえてくる呪文のような言葉は勢いを増しつながり合いだした。

「はぁーっ!」

 最後にそう叫ぶと恵は拳を握りしめた。

 その拳の隙間から眩い光が放たれた。

 亮介は目を硬く閉じなければならないほど、その光は眩しかった。

「な何ですか?何が起きたんだ?」

 一瞬、バイクのタイヤが軽く浮いたような動きがした。

 恵の息が少し荒くなっている。かたく握りしめた拳を開くと、中から少しの黒い煙が立ち上った。

 見ると恵の手のひらには小さな女の子が眠っていた。

 その女の子は薄い着物の上に古代インドの兵士がまとう鎧兜をつけていた。肩当ては薄く平たい。肩の形をそのままかたどったように両肩を覆っている。その肩当てから金属製の留め具が出ていて、胸当てに続く。胸当ても薄く、いかにも軽そうだ。腰当ては太いベルト状の金属でできていて、丸い突起物が装飾されていた。

 まるでそれはインドの神が日本へ渡来して仏になった『天』と呼ばれる仏像達が纏っている鎧のようだ。見た目はかなりシンプルなデザインであるが、機動性重視の薄くて軽いイメージが見て取れる。

 手のひらに乗る程度のサイズなのに、その女の子は明らかに寝息を立てて生きていた。

 恵は手のひらでスヤスヤと眠る女の子を起こさないように優しく、その豊かな胸元の懐にしまいこんだ。

 亮介は呆気にとられてその光景をただ見ているだけだった。

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