第5話 滅びの剣

 扉の外は火の海だった。


「うわっ! ぎゃっ! 火がやばいっす!」

「仁後さん、下がって」


 毛むくじゃらな猫人の体に燃え移ったら大変だ。

 建材の問題か火の問題か、煙はあまり出ていない。壁を伝い延焼が広がっていた。

 ヒルデガルドさんがうなる。


「むう。参ったな、階段が潰された」

「なにが起きたんです? あの水鏡でなにが見えたんですか」

「例のクレイモアだよ。床に突き立てていた。あの剣の持つ神話が始まっている」

「それって……世界崩壊の」


 ヒルデガルドさんは重く顎を引き、まだ炎の広がっていない廊下の角を示した。


「回り道をしよう。更衣室の奥に非常口がある」

「非常口なんてあるんですね……」

「ここは神を相手取る、神話の集積所だよ。たいていのことは想定している」


 神様らしいハチャメチャをうそぶいて、ヒルデガルドさんが廊下に駆けだした。


「仁後さん、行ける?」

「もちろんっすよ。逃げ足には自信ありっす」

「頼もしい」


 胸を張る仁後さんは、尻尾で虚勢が透けて見えている。神話に巻き込まれた状況で虚勢を張れるその強さこそ頼もしい。


「行こう」


 火の手が広がる廊下の隅を進み、事務所を抜けて更衣室の前まで。

 更衣室から鉄板をむしり取る轟音が響いた。ヒルデガルドさんが男子更衣室から飄然と出てきて度肝を抜かれる。


「わあっ! なにしてるんですか!?」

「持っていけ」


 投げ渡された。

 刀だ。朱色飾りの白鞘。矢避けの刀だ。

 持ち帰るわけにもいかず、ロッカーにしまっておいたんだ。じゃあぶっ壊したのは俺が借りてるロッカーか……。


「あったほうがいいだろう」


 確かに、この矢避けの刀がなければダーツで死んでいたかもしれない。

 個人的にも刀があると心強い。

 再び地面が揺れる。吹き込む熱風が火の手の激しさを物語っている。神話とやらは確実にこの空間に及んでいるようだ。


「こっちだ。急ごう」

「あのクレイモアって、どんな武器なんですか」


 狭い非常階段を上がりながらヒルデガルドさんに尋ねた。


「世界崩壊の概念兵器と呼べばいいかな。世界に突き刺すことで焼き崩す呪詛を刻み始める。一晩のうちに地上が焦土化し、三日後には空間そのものが貫かれ、七日を数えるころには死後や神代を含む観念世界すべてを断ち切った」


 を見境なく破壊するトンデモ武器か。

 そんなものを作りうる能力を与えられた転生者も転生者だ。神殺しの黄金銃といい、人間絶対殺すダーツといい……チートというやつは本当に遠慮がない。


「……む」


 ヒルデガルドさんが急に立ち止まった。

 非常階段の上、壁がごっそりと砕けている。瓦礫にもたれて誰かが倒れていた。

 炎の熱風にあおられる髪の色は、まるでビジュアル系のようなパンクな混合色。


「まさか……ちょっと、大丈夫ですか!」


 助け起こす手がぬるりと濡れて、ぞっとする。べっとりと血に濡れていた。

 彼女は薄目を開けるなり皮肉げに唇を歪ませる。


「――けっ、またお前か。つくづく邪魔しやがる」

「なにがあったんですか。あなたがクレイモアを盗んだんじゃないんですか」

「……奪われたよ」

「違うな。渡したんだろう? そして、渡した相手に裏切られた」


 ヒルデガルドさんの表情は変わらない。だが人形のような冷たい碧眼には一種の憎悪が秘められていた。

 厳しい声を向けられた女神は細く息を吐く。


「……その通りだ。あの野郎、最初から裏切るつもりだった。あたしとの取引に応じるつもりなんてなかったんだ……」


 まんまと信じ込んだあたしも大馬鹿だよ、と自嘲した。


「くそっ。あたしの周りは敵ばっかりかよ。もっと早く、なりふり構わずあいつを助けるためだけに動いておけば……」


 炎が躍る。気配がある。

 殺気の揺らぎだ。


「ヒルデガルドさん。女神様に治療をお願いします」

「構わないが……分かっているのか」

「もちろん」


 ヒルデガルドさんは格の高い神だ。治療の心得くらいあるだろう。

 だが治療を本分とする神ではない。胴が両断される寸前の重傷を癒すには、かかりきりになる。身動きが取れなくなる。

 犯人を追うことはできない。


「仁後さん。ヒルデガルドさんを守ってもらえますか」

「む、無茶っすよタケオくん! 相手は、神様をぶった切るような化け物武器を使うチート野郎っすよ! 専門家ヒルデガルドさんに任せた方がいいっす!」

「そうしたら、この女神ひとを救えなくなる」


 うっと仁後さんはうめいた。

 ヒルデガルドさんが仁後さんの肩を叩く。


「私が彼に目をかけたのは、偶然でもなんでもない。それだけの力があるからだ」


 つとヒルデガルドさんが俺を見た。

 勝利の女神のような微笑を乗せて。


「存分に、きみの腕を振るってくれ」

「分かりました」


 首を垂れる。

 祝福を受けた。後は、俺が為すだけだ。

 駆けだす。地を蹴り、足を上げる、人間の速度で。

 炎が躍る。


「――はッ」


 振り上げた刀の鞘で、炎を割って振り下ろされた長大な剣に触れる。

 激烈な重みに鞘が軋んだ。武器の重さだけじゃない、尋常を超えた力の斬撃。

 両手で柄を握り、腰と肩に力を込めて重心を操る。軋む刀を宥めながら刹那、斬撃をずらす。流した。

 背後の地面に落ちたクレイモアは衝撃でクレーター状に床を砕く。

 飛び退った。無茶な力を受け流して腕や関節がズキズキと痛む。嫌な相手だ。


「ちっ、仕留め損ねた」


 陽炎をまとった男は痩身で、とても両手に余る剣を使えるような体をしていない。そんな男が片手に両手剣クレイモアを提げている。


「お前がクレイモアを奪った犯人か」

「犯人? 違うな。俺は被害者だよ」


 男は皮肉げに口の端を歪ませる。


「奪われたものを取り返しているだけだ」


 男が一足に大きく踏み込んで、横薙ぎ。旋風に煽られ瓦礫が散った。吹き飛んだ瓦礫を刀の加護で斬り落とす。

 異常な力。

 この男のものではない力だ。


「神の異能を盗んだのか」

「誰にでも与えてるんだろ? なら、俺がもらったっていいはずだ」


 ぐぐ、と男は拳を握る。細腕に筋が浮き上がり、拳の中で瓦礫が砕けた。


「身体強化、剣の才能、無限魔力、魔法の才能、鑑定分析に言語理解……なんでもござれだ! 最高だな! この力さえあれば――!」


 男は笑っている。その姿がひどく哀れに、悲しく見える。


「この力さえあれば、俺たちの誰も敵わなくたって、当然じゃねぇか……!」

「そうでもない」


 俺には彼の気持ちが分かる。全部とは言わないが、ある程度までは。


「お前は正しくあることができなかった。善人ではいられなかった。表面的な力は本質じゃない。弱いから負けたんだ。――受け入れられないと思うけどな。なにせ、」

「お前は……なにを知ったようなことを!」


 怒りの声に、自嘲で返す。


「言ってる俺が、未だに受け入れられてない」


 抜刀、抜き打ち。

 刃は男の指を避けてクレイモアの柄を打ち飛ばす。


「て、めぇ!?」

「目が追いついているのか? ろくに剣を握ったこともなかったくせに」


 踏み込み、刀の打ち下ろし。

 男の指が魔法の剣を生み出して受けた。幻影の剣を弾き飛ばし、剣先を翻して流す。男は体を寝かせて刃を避けた。

 肘を引きつけ刀を返す。刺し通し。これまた魔法で止められた。おかしいな。


「お前たちの魔法は、科学技術に近い性格じゃなかったか? そんな瞬間的に力を発揮するようなものだったか」

「うるせぇ! 異世界にいくつ魔法理論があると思ってやがる!」

「異世界の術理か。なるほどな」


 ついでに犯人の正体も分かった。やはりこの男は、女神様が目をかけている転生者がいた世界の住人。だ。


「食らえやッ!」

「うぐ……!」


 腹を殴り飛ばされた。嘔吐感が胃と肺を突き上げる。

 なんだ? 腕は振っていなかったぞ……魔法か。魔力で殴られたのか。


「不公平だろうが……!」


 男は目を血走らせてうめく。


「一方的にえこひいきして、他方がいいように負ける? ふざけるな。そんな不合理が許されてたまるか! 異物を異物でならす! そうして異常を元に戻す! 俺は世界をあるべき姿に戻してるだけだ! その、どこがおかしい!」

「おかしくは、ないさ。正直、それもありじゃないかと思う。個人的にはね」


 勝手に出来レースに巻き込まれた側は、納得できるはずがない。その思いが世界の中で実を結ぶなら、選択肢としてあり得ると思う。

 けど。


「たったひとつ。――自分のために誰かを傷つけるなら、やり返されるのも当然だ。それはお前が身を任せている論理だろ」


 世界の外で略奪することが選択肢なら、追い返すのもまた選択肢だ。

 刀を正眼に構える。痛みで指が微かに震える。このくらいなら、まだ動ける。


「俺はお前がやっていることを悪いと言うつもりはない。判じる根拠も権利もない。ただ実行されると困るから、止める。嫌なら振り払え」


 なにせ、神の世は力と力の比べ合い。正しさがそのまま力に転ずる場所なのだ。

 我を通す権利は誰にでもある。


「舐め、やがって……!」


 男は唇を痙攣させ、クレイモアを振り上げた。それだけで暴風が起こる。


「ぐッ」


 力任せの斬撃は受けられない。絶望的に筋力が足りない。

 とはいえ。

 目をしかと開く。


「死ねェ!」


 上段から振り下ろす、片手持ちの乱雑な型。

 剣先を添えて、ずらし、流す。

 足の横にクレイモアが叩きつけられた。地面が砕ける。


「な……!?」

「力を補ってこその技だ」


 受け流す技は偶然じゃない。百回打ち込まれても百回いなせる。

 小手への一打――身をよじって避けられた。

 だがクレイモアを振りようがないほど姿勢を崩しては避けられまい。鞭のように振り上げた刀で面を打つ。止まった。剣が通らない。


「また魔法か!」

「くそッ! 気味の悪い術を使う神だな!」

「俺は一般人だ!」


 魔力もなく、魔法もなく、身体能力は人間並み。

 あるのは愚直な訓練で身に着けただけ。


「腕を斬っても首を斬っても、高位の神ってやつは平気で戦い続けるんだ。剣の腕だけになっても根本的に勝ち目がない。心の底から理不尽すぎる」


 同じ土俵に立っていない相手との勝負ほど、割に合わないことはない。

 だから俺は境遇としては彼に近い立場だ。

 どうにかしなければ折り合えないのに、相手はもはや、どうしようもない。

 悔しくて、苦しくて、なにもかも一瞬で無駄になって。


「それでも――……?」


 腹が、熱い。

 男がクレイモアを指していて、

 ひとりでに浮き上がった剣が俺の腹に食い込んでいる。


「ああ――くそ――」


 血を噛む。

 足がなくなったように感覚がない。耳鳴り。暗転。吐き気がする。


「これだから、神の力チートってやつは――……」

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