第2話 左右反転の天使の世界

 僕は、悩んだ挙句、着て試してみることにした。多分、三千九百円を払った時点で決めていたんだけれど、ただ、勇気がなくて迷っていただけなんだ。わかっているけれど、だって、怖いんだからしょうがない。


「よし、着よう! これでやめたら悪魔が廃るってもんだよね」


 決断が速い僕は……っていうのは噓で、実は決めきれないで、昨日の夜はそのまま寝てしまった。実際には、散々迷って、買った翌日の朝になって、やっと天使の着ぐるみに袖を通した。ふわふわで気持ちがいい。


「天使というより、ヒツジの着ぐるみだよな、これ……」


 僕はヒツジの着ぐるみから顔だけ出して、鏡の前に立ってみた。どうみても、ヒツジ……変わったところでは、頭にゴーグルをつけている……似た様なアニメのキャラがいたような……でも、ふわふわで気持ちがいい、そして、何も起こらない……。やっぱり騙されたのか……なんと言っても所詮は悪魔の言う事だ。なぜ信じたのだろう……。

 三千九百円の無駄遣いを嘆き、少しめまいがした。よろけた僕は、目の前の鏡に手をついた……と思ったが、右手が鏡に吸い込まれ、ぐらっとバランスを崩したかと思ったら、盛大にコケてしまった。


――バターン


「いてて……あれ? 痛くない。ヒツジの着ぐるみ……いいな。ふわふわだからコケてもいたくない……って、あれ? それどころじゃない、さっき鏡に手が吸い込まれて……」


 僕は果たして、天使の世界へ来たかもしれない。倒れた拍子に全身が鏡に吸い込まれ、向こう側の世界に倒れこんだみたいだ。だって、鏡の中の僕の部屋は、何もかもが左右反転している。実は、鏡に吸い込まれたのではなく、壁をすり抜けて、隣の部屋に出ただけなんてオチかと思ったけれどそうじゃない。ドアの外の表札を見てみたら、なんと、僕の名前の文字が左右反転して読みにくい。


「うむむ、これはどういう事だろう……とりあえず、着ぐるみを脱いでみよう」


 ヒツジにしか見えない天使の着ぐるみを脱いでみると、元の僕の部屋の鏡の前だった。どうやら、脱いだらすぐに帰って来れるというのは嘘ではないらしい。

 不思議だ……これって、うわさに聞いた魔術ってやつ? 僕は、もう一度、着ぐるみを着て、こんどはゆっくりと鏡に触れた。

 僕の手は(正確にはふわふわのミトンの手袋は)やはりゆっくりと鏡に吸い込まれた。そのまま鏡の向こうの世界に、もう一度行ってみた。さっきと同じ、左右反転の世界がそこにはあった。目の前にある目覚まし時計が、何時を指しているのかわからない。


「えっと、左右反転だから……やばい、会社に行く時間だ……ところで、そもそも、この天使の世界で会社に行く必要があるのかな?」


 僕はとりあえず、会社へ向かった。どうせ、天使の世界を見て回るつもりだし、目的地があった方が都合がよい。しかし、左右反転にはちょっとやそっとでは慣れることはできなさそうだ、まず、部屋を出て、いつもは右にあるエレベーターに乗るには、左に行かないとならないわけで……と思っていたが、そこはうまくできていて、頭についているゴーグルをかけると、元の世界のように左右を気にしなくても、文字も読めるし、道にも迷わない、スマホもいじれるし、電車にもすんなり乗れた。そして、ヒツジの着ぐるみを着ている感覚もなくて、全く違和感なく過ごすことができるのだ。

 

「おー、ワンダフォー。この天使の着ぐるみを作った人の本気度合いを垣間見た気がする……いける! いけんじゃないの!? よし! 良い奴しかいない、天使の世界へ、レッツゴーだぜい!」



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