私と。

雲が割れて光が零れた。

傘を閉じて軽く振ると、薄く広がった水溜まりに波紋が幾つも現れる。

冬の雨は身体の芯まで凍えさせる代わりに、ほどよい湿気を運んでくれる。


雨に叩かれたアスファルト。

地面から立ち上る空気には人工的な匂いが混ざり、鼻をつく。

嗅覚は強く記憶を刺激して、いつかの風景を頭の中に浮かび上がらせる。

今となっては良い思い出と言えるものも、できることなら思い出したくない日のことも、区別なく否応なしに。


上ってきた坂道を振り返る。

日の入りの迫った時刻、薄黄色の日差しが真正面から顔を照らす。

思わず右手で顔を覆ったけど、指の隙間からは日光が漏れ出ていた。

灰色の雲は風に吹かれて形を崩し、徐々に夕暮れの空が視界に広がっていく。

ちぎれて消えて、時々くっついて、絶えず姿を変えていく。


煙草を吸うようになったのはいつからだったか。

ここ数年は意識したこともなかった。

大学卒業前、フラれて少しやさぐれて、自傷のつもりで手を出したんだったか。

結局それから習慣になってしまって、やめる機会を逃して今に至る。

人前で吸うことがあまりないから、私が喫煙者だと知らない人がほとんどだ。

とりあえず、今は特に吸いたい気分じゃない。


背後から、水溜まりを踏む音がした。

「眩しくないんですか?」

挨拶もなしに声をかけてくる。人違いの可能性とか考えないのだろうか。

「え、まぶしいよ。だから手で遮ってんの」

対抗するように、私は振り返ることなく言葉を投げ返す。

子供みたいな悪戯心だけれど、そんなことを気にしなくてもいい相手だから。


「雲、見るのが好きなんですか?」

「太陽じゃなくて?」

「太陽は好きだとしても直接眼で見るようなもんじゃないでしょう」

「そりゃそうか」

足音が更に続き、彼が横に立つ。

私の顔は真正面を向いていなかったから、視界には彼の姿が映る。

普段と変わらない、カーキ色のコート。

私を真似してか、彼も日光を防ぎつつ空の方を眺めている。


「先輩、待ち合わせの時間はだいぶ先ですよ。どうしたんですか?」

「早めに来てどこかで時間潰そうと思って。ギリギリに出ると何があるかわかんないでしょ、年末だし」

「ここら辺はこの時期だとどこもやってないですよ」

「みたいだね。だから途方にくれてたとこ」

駅の周り、スーパーやコンビニは開いていたけれど、時間が潰せるような店はどこも休みだった。ここ何年かの年末年始は家に引き込もってばかりいたから、店の都合など完全に頭から抜けていた。

しばらく駅で雨宿りをしたあと、雨が小降りになったのを見計らって散歩でもしようと思ってぶらぶらと歩き回り、坂道を上ってここに来たというわけだ。


「君こそ、どうして出歩いてたの?」

「買い出しですよ。鍋食べるんですから」

「合流してからでよかったのに」

「店、閉まるの早いんですよ」

「あぁそっか……」

それなら待ち合わせの時間を早めて一緒に買い出しに行けばよかったのに、と思ったが、こいつは妙なところで気を遣う人間だった。

大方、時間を決めたあとに閉店時間のことを思い出して、わざわざ時間を変えるくらいなら先に買い出ししておこうと考えたのだろう。

まぁ、本当に私に気を遣ったのか、それともただ単に訂正の連絡をするのが面倒だったのかはわからないけれど。

「そういうことなら、少し早いけどもう君ん家行くわ。買い出し手伝う」

「いいですよ。先輩を外に放置するわけにもいかないですからね」

「当たり前だよねぇ」


そして、私達は歩き出す。上ってきたばかりの坂道を下ってゆく。

当然だけれど、さっきとは眼に映る景色がまるで違う。

雨が止んだことを察知したのか、ほんの少し喧騒も響いてきたし、どこかからは猫の鳴き声もする。

冬の冷えた空気が、辺り一面の音をゆったりと運び、広げていた。


「なんか、つみれ食べたくなってきました」

彼がぽつりと呟く。

豆乳鍋にしようとは事前に伝えてあったが、細かな具材の要望は彼に任せていた。

「つみれいいねぇ。鶏?魚?」

「魚ですかね。あれ見てたらそんな気分になりました」


彼の視線の先には、さっきよりもさらに散り散りになった灰色の雨雲。

ほんの少しチクリとした感覚が走って消えていった。

彼に言葉を返そうとしたら胸が詰まって言葉が出なかったけれど、多分、これは苦しい気持ちじゃない。

自分が今どんな表情をしているのかはわからない。

だけど、少し頬が熱くなっている気がした。


彼には、私が何かを言おうとして踏み止まったように見えただろうか。

相変わらずのポーカーフェイスからは何も読み取れない。


「これからもっと冷えますし、とっとと買い出し終えて部屋で温まりましょう」

「だね。さすが大晦日、寒さも容赦ない」

息を吐き、両手を暖める。

表情を隠したくて、そのカモフラージュのために大袈裟に暖を取っているのだ。

こんな小手先のテクニックが通用するかはわからないけれど、そうするしかなくて。


瞬く間に空は陰り、雲の姿形は宵闇に溶けていく。

あっという間に熱を帯びていった昔と比べて、今の自分は慎重になり過ぎているかもしれない。そう思っていたけれど、着実に、じっくりと育ってきた気持ちは確かな形を為して私の内にある。

そして、なんでもないやりとりの中で不意打ちのように火を灯された。


私はそれを一人抱えたままに年を越すのだろうか。

それとも、君と私とで分かち合えるだろうか。


結果が出るまでの数時間は、人生で一番長い年越しになるに違いない。

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