Black

町に溶ける

毎週金曜日、涼子は私の家に泊まっていく。

週末、疲れた顔でコンビニの袋をぶら下げた涼子がドアの鍵を開ける音。

それを聞くのが習慣になっていて、ささやかな楽しみでもある。


「ただいまぁ」

「おかえり」


そんなやりとりが定着して、どれくらい経つだろうか。

家で仕事をするようになった私には、平日と休日の境がこのところ曖昧だ。

毎週訪れるこの時間は、そんな私に一週間の終わりを告げてくれる唯一のサインでもある。


「うぅ、疲れた……」

そんな言葉に続けて、ボスン、とベッドから音がする。入ってくるなり涼子が私のベッドへと真っ先に飛び込んでいくのは毎度のことになっていた。

「ねぇちょっと、せめてシャワー浴びてからにしてよ」

いい加減学習してほしいのだが、慣れてしまった自分もいる。

仕事がまた片付いていない私の後ろで、もぞもぞと蠢く音がする。

どうせ寝転んだままスーツを脱いでいるのだ。


「ねぇ聞いてよぉ、ほんっとあのおばさんさぁ……」

涼子が背後から抱きついてくる。座ったままの私に覆い被さる格好だ。ディスプレイの黒い領域に涼子の顔がうっすらと反射している。

首筋から肩にかけて発生している柔らかな圧迫感については、何があろうと決して口にしてなるものかと固く心に決めている。


「そこまで着替えたんならシャワー浴びて。風邪引くよ」

頭の上に乗せられた涼子の顎を押し上げる。

「愚痴はちゃんと後で聞くから。とりあえずさっぱりしてきて」

「一緒に入ろうよぉ」

「あんな狭いとこ、二人で入りたくないんだけど」

単身用の小さな部屋だ。当然風呂場も狭い。

「はぁい」

そう言って涼子は体を離した。ペチペチと、裸足で床を歩く音がする。

ディスプレイの反射に映るのは、黒い下着姿の涼子だ。

その格好で部屋を歩き回るのはやめてくれと何度も注意してきたのだが、もう聞く耳を持ってくれない。私はもう諦めた。

「パジャマ、いつものとこに出しとくから」

風呂場に向かう涼子に呼びかける。

「ありがとー」


涼子がシャワーを浴びたら次は私の番だ。キリもいいし、仕事はここらで切り上げよう。

そうすれば、私と涼子の時間が始まる。

お酒を飲んで、おつまみ食べて、不健康で不健全な言葉の交わし合い。


私たちの貴重な日常だ。


————


いつもの時間に彼女は来なくて、連絡を入れてみたけど返事はない。

少し遅くなることならこれまでにも何度もあったから最初は特に気にしていなかったけど、仕事を続けていたら気付けば日を跨ぎそうになっていて、さすがに心配になってきた。


もしかしたら今日は来ないのかもしれない。

でも、今まではそういう時には連絡があったはず。

もしかして、帰り道で何かあったの?


そんなことを考えていたら、部屋の外から微かに足音が聞こえてきた。

続けて、鍵の回される音。

来てくれた。よかった。

そう思って玄関を見ると、ドアの隙間から現れた涼子の顔には表情が乗っていなかった。

「……ただいま」

いつもとまるで違うトーンの声。確かにそこにいたのは涼子だったけれど、私はその姿にどこか違和感を覚えた。


よろよろとパンプスを脱いで部屋に上がり込んだ涼子は、いつものようにベッドに倒れ込むのではなく、私たちがいつも使っていた小さなテーブルまでのそのそと歩いてきて、糸の切れた人形のようにへたり込んでしまった。

「……どうしたの?」

あからさまに普段と様子の違う涼子を気遣いながら、私はさっき感じた違和感の正体に気付く。

いつもならぶら下げているはずのコンビニの袋が、今日はなかったのだ。


「なんでもない」

「なんでもないってことはないでしょ……」

「うん……」


パソコンの電源を落とし、私も床に腰を下ろす。

いつもと同じ、テーブルを挟んで彼女の反対側だ。

「お疲れ様。シャワー浴びる?」

何があったか聞きたいけれど、自分から口にするまで待つべきだろう。

今はとりあえず身体だけでもすっきりしてもらった方がいい。

「うん……」

そう言いつつ頷きはするけどちっとも動かない涼子を、なんとか風呂場まで引っ張っていく。

いつもの調子なら一緒に入ろうと言ってくるような状況だったけど、涼子は「もう大丈夫」と口にして一人で入っていった。

相当に参っているようだった。

ちくちくと、不安の気持ちが広がっていく。



シャワーを終えて着替えた涼子をベッドに座って待ち構えていた。

涼子が隣に腰掛けたまま私の方へともたれかかってくる。

多分、私が出した着替えのシャツ以外に何も着けていない。

「ねぇ、ちゃんと着替えてきてほしいんだけど」

普段より意識して冗談めかした口調にしてみたけれど、涼子からは何の反応も返ってこない。

他に何かを口にするのも何だか憚られて黙っていたら、涼子はずるずると身体を崩していき、とうとう私の太ももに頭を載せてきた。


仕方ない。諦めよう。

そう思いながら、私は涼子の髪をゆっくり梳いてく。

普段ならもっとしっかり乾かしているはずなのに、今日はだいぶ湿っぽい。

やっぱり疲れているんだろう。

乾かしてあげたいけれど、このままじゃドライヤーを取りにいけない。


「……今日ね」

横になってから十分くらい経って、ようやく涼子が喋り出した。

そして、一度栓を抜いてしまえば、あとは何をせずとも言葉が溢れ出る。


ぽつぽつと、会社で起きたことを涼子が口にする。

前から仲の良くなかった上司と喧嘩になったこと、先輩や同期が上司の肩を持ち、誰も自分の味方をしてくれなかったこと、自分の仕事の出来なさがとてもつらいこと。

散逸的でまとまりのない言葉がとろとろと流れていく。

ところどころに混じる涼子の感情は粘り気を伴っている。

涼子は基本的に気持ちを内に押し込んでしまいがちなタイプで、それを吐き出すことができないくらいには周囲に気を遣ってしまう。

だから、凝縮された感情は鋭い棘を持っていて、きっとそれを受け止められる人はほとんどいない。


出てくる言葉は散逸的でバラバラだ。

今日あった出来事だけじゃなくて、今まで溜め込んできた不満やストレスなどの原因も一緒になっているんだろう。

多分、涼子自身もそれはわかっていて、それでもどうしようもないほどに気持ちがぐちゃぐちゃなのだ。


だいぶ時間が経ったと思う。

やり場のなかった憤りを一通り吐き出せて気持ちが落ち着いてきたのか、涼子はようやく静かになった。

「ごめん。こんな話して」

「ううん、いいよ。愚痴なんていつものことじゃん」

実際は、こんなに生の気持ちを吐き出してくることなんて滅多になくて、いつものようなお酒を使って言葉を投げ合う時間とは全然違う雰囲気なんだけど、私は意識してそう言った。


「そう、だけど、さ」

私の言葉に対して、涼子はもごもごと口ごもる。

そんな彼女の髪を、私は思いっきりかき乱した。

「ちょっと、ようやく乾いてきたところなのに」

抵抗の台詞は無視して私は口を開く。

「そういうの、遠慮しないって決めたでしょ。大丈夫。気にしないで」

あやすように、ぽんぽんと涼子の頭を軽く叩く。

それを受けて力を抜いたのか、涼子の頭がより深く太ももに沈んでいく。「……来週会社行きたくないなぁ」

「休んじゃえば?」

「簡単に言ってくれるけどさぁ、今休んだらまたあのおばさんにぐちぐち言われちゃう」

太ももの上で涼子は頭をぐりぐりと振っている。

髪の毛の感触がくすぐったい。


「転職、考えてないの?」

「今の私じゃ無理だと思う」

「そんなことないと思うけど」

「もしかしたらどうにかなるかもしれなくても、今の私じゃ自分に自信がなさ過ぎてダメ」

まぁ、面接で自信なさげな人を採る会社は稀だろう。

いつもの涼子ならそんなことはなさそうだけど、今みたいに凹んでる状況でこれ以上鼓舞するのも酷な話だ。この話題に触れるのは一旦やめよう。


それからしばらくは、お互いに無言だった。

私はかき乱した髪を梳いて元に戻しながら、涼子は私の太ももに頭を預けてただ黙ったままで、時間が過ぎていくのに身を任せる。



突然、くぅ、と小さな音がした。

出どころは、涼子のお腹。


「もしかして、夜ご飯食べてないの?」

「うん。残業してたから」

そこまで意識が回らないほどにいっぱいいっぱいだったということか。

「それじゃぁコンビニ行こ。お酒も無いし、ついでに夜食も買おうね」

「今から?もう十二時過ぎてるじゃん」

「どうせすぐには眠れないでしょ。それに明日は休みなんだし大丈夫」

「シャワー浴びたばっかな……」

「また浴びればいいじゃない。私だってまだだよ」


ぐずぐずとベッドに倒れる涼子を無理やり着替えさせる。

私一人で行こうかと言ったらそれは嫌だと返してきたので、そうするしかなかったのだ。仕方がない。

「あれ、もしかして二人で夜出歩くのって久しぶり?」

玄関で私の替えのシューズを履きながら、涼子がふと呟いた。

「そうかもね。いつもは涼子がいっぱいお酒買ってくるから、外出る用事もなかったし」

もしかしたら、私がこの町に引っ越してきてからは初めてだったかも。



春の終わり。夜の空気はまだ冷たさを含んでいる。

真夜中になっても二十四時間営業のコンビニには煌々と明かりが灯っていて、中では暇を持て余した店員が宙を見つめている。

暗く沈んだ町の中で、光に吸い寄せられる蛾の如く、ふらふらとコンビニまでやってきた。


「私、ここ来たことあんまりないな」

そう言うと、涼子は驚いた顔でこちらを振り向く。

「え、そうなの?普段使わない?」

「いや、そうじゃなくて、いつもは反対側にあるコンビニ行くから」

「あ、そうなんだ。言ってくれればよかったのに」

渋っていた割に家を出たら先陣を切って歩き始めた涼子の後を、私は止めることなくついていったのだ。

この道は駅に続いている。

涼子がいつも使うコンビニはこっちなんだなと思って黙っていたのだ。


店内に流れるBGMは外の雰囲気と違ってやたらと明るい。

暗いBGMを流すコンビニなんて聞いたことないけれど、昼間と一緒の音楽を聞いていると、少し時間の感覚が鈍っていく。

「一緒に買う?」

「お互い好きなもの買えばいいんじゃない?」

そんな言葉を交わしてから、私たちはバラバラに店内を彷徨い歩く。


時々、商品棚と睨めっこする涼子を横目に見たりしながら、私はおにぎりとビールとチョコレートをカゴに詰め込んでレジに向かった。

店員が欠伸するのを見て、今は夜中なんだと思い出す。

会計を済ませ、涼子がやってくるのをコンビニの外で待つ。

ガラス戸を隔てて一気にボリュームの下がるBGMが、どこか懐かしさや郷愁のようなものを感じさせるのは何故だろう。

その音量が一気に大きくなる。

「お待たせ」

「ん。じゃ、帰ろうか」

私がそう言って歩き出すと、涼子が後ろから声をかけてきた。

「ねぇ、ゆっくり歩いて帰らない?」



散歩ってわけじゃないけどさ、夜道、楽しみたくて。

涼子はそう付け足した。

大した距離ではないけれど、意識して足取りをのんびりとした足取りで、家までの道を進んでいく。


「私、このあたりのことよく知らないんだよね」

涼子がそう言った。少しだけ寂しげな口調だ。

「いつも夜に来て夜に帰っていくから?」

「うん。そもそも何があるのか、どんな町なのか、気にしたことないかも」

「私もそんな感じだけどな」

「駅からふらふらと出てきたら、いつものコンビニに寄って少し買い物をして、それからゆかりの家に直行。あんまり周り見てないね」

お酒はまだ入っていないのに、涼子がいつもより少し饒舌だ。


「ゆかりが住んでいるこの町がどんな場所なのかって考えたことなくてさ。普段どんな感じで過ごしてるんだろうって考えたときも、そこまで意識したことなかったんだよね」

そういう台詞を涼子から聞くことが普段ないから、少し驚いた自分がいた。

反応に少し困っていると、涼子はさらに言葉を続ける。

「私、居場所がある実感っていうのがほとんどなくて」

「居場所?」

「うん。会社、まぁ何度も言ってるけどあまり居心地よくないし、家はなんだか寝るだけって感じで心安らげる場所ってわけでもないし」

仕事も私生活も自分の家で完結してしまう私とは、かなり違う感覚だ。

私にとっては自宅は城で、この町は城下町。

不遜ながらもそんな認識を持っているせいだろう。


「昔っからそうだったんだけどさ、どこに行ってもなんか周りから浮いてるなって感じがね、してるんだ」

その悩みは、これまで何度も耳にした。

事あるごとに涼子はこんな台詞を口にするのだ。

「だから、今はゆかりの家にいるときだけが本当に落ち着く時間、場所って感じでね。だったら、もしかしたらこの町そのものも私にとって居心地の良い場所になってくれたりするのかなって、ちょっと思ったりしたんだよね」

私は、その言葉に少し心を奪われた。

多分、涼子にとっては何も意識せずふらっと口にした言葉なのだろうけど、私にはとても、とてもドキドキする一言で。


まばらに並んだ街灯の下、ゆっくりと歩を進めていく。

この時間にもなれば私たち二人以外に道を行く人はいない。

アスファルトに掠れる靴裏の音。

控えめに紡ぎ出される涼子の声。

二つが絡まりあいながら、遠く夜空の先へと吸い込まれていく。


「ねぇ涼子。手、繫ごっか」

「え、どうしたの急に」

返事が返ってくるやいなや、涼子の左手を強引に掴み取る。

指先まで冷えていて、それが少しくすぐったい。

「冷たいね」

「だって外寒いじゃん」

急に繋がれた手に戸惑いながらも、涼子は笑って返事をする。

「あのさ、今度はもっと明るい時に散歩しない?色々ぶらつこうよ。夜じゃ怖いけど昼間なら裏路地とか入りたい放題だし」

「う、うん。そうだね」

突然饒舌に喋りだした私にびっくりしている涼子を見ながら、私は考える。


どこに行っても浮いてる感じがする、そんな涼子に私ができることはなんだろうか。そもそも、できることなんてあるのだろうか。

簡単に答えの出る話ではないし、解決にはなっていないかもしれないけれど、こうやって手を繋いで、私と涼子、二人の重みでこの町に足を踏み下ろす、そういうのもいいんじゃないかなと、ふと思った。


この町の風景を、二人で共有する。

この町の風景に、二人で溶け込む。


二人分の重みがあれば、きっと大丈夫だろう。


振り返ると、夜の通りにコンビニの照明がぽつりと浮かび上がっている。

涼子が週末にいつも立ち寄るコンビニ。

異物のようでいてしっかりと町に溶け込んでいるその場所は、いつしか涼子の日常に組み込まれていた。


「ねぇ涼子、何買ったの?」

「ビールとチーズとカップヌードル」

「え、この時間にラーメン?」

「いいじゃん今日くらい。ていうかゆかりだっておにぎり二個も買ってたでしょ。カロリーそんなに大差ないよ」

涼子の返す言葉に、それもそうかと二人して笑い合う。


揺られてシャラシャラと擦れ合う、小さなビニール袋。

その音は、私と涼子、二人の日常を彩ってくれる効果音の一つだった。



「ねぇ、明日の朝ご飯は?」

「あ、冷蔵庫空っぽだ」

「あーあ、じゃぁ戻って買いに行く?」

「うぅん。どうせお昼まで起きないでしょ?どっか行って食べよ?」

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