空と雲とほんの少しの煙と
ふと思い立ったので、今日は休みますと上司にメールした。
通勤電車の中、押し付けられたドアの外、ガラス越しに広がっていた青空が、俺の心を奪っていってしまったのだ。
奪われたら取り返さないといけないので、仕方なく会社を休むことにした。
そう、あくまで仕方なく。
体調不良だと理由を添えておいたが、心が奪われたのだから嘘ではない。
有給はたっぷりあるし、差し迫ったタスクもないから遠慮はいらない。
転職してからはこれといった不満もなく過ごせており、別に職場に行きたくないって気持ちが湧いてきたわけでもない。
本当に、ただふらりと青空の下へと繰り出したくなっただけなのだ。
街の上を滑り行く白雲。
その白と薄青の混じった空が、ガラス越しに視線を放り投げていた自分の思考をじりじりと吸い込んでいき、気付いた時には終点の駅のアナウンス。
鉄の箱から吐き出され流れゆく人々の間を縫って歩き、どこへ向かうかも定かでない、見知らぬ列車に飛び込んだ。
座ると外を見るのが面倒だから、空いてる車内の中でも立ったまま。
いつもの通勤中ならば我先にと椅子に飛び込んでいただろうに、この青空はそんな焦りすらも一緒に持っていってしまったようだ。
普段の電車と比べて静かでゆったりとした駆動音に包まれながら、俺は飽きもせず空を眺めている。
青にも違いがあった。
ムラもあるし、土地それぞれの個性がある。
雲の形なんか全く似つかないし、触った感触さえ異なっていそうだ。
何かに似てると言いづらい自由なフォルムも、風に揺られて姿を変える。
同じ場所から見上げていても変わるのだから、遠く離れれば言わずもがな。
ゆらり揺られて三十分、ようやく降り立った駅はとても静かで、ドアの閉まる音が構内に妙に反響している。
目的地がこの駅だったのはせいぜい二、三人くらいのようだ。
自分が降りる場所としてここを選んだ理由は特にない。なんとなくだ。
改札はかろうじて Suica が使えたので一安心である。
電車に揺られているうちに通勤時間帯は過ぎ去ってしまい、かといって買い物に出かけるには早い時間だから、駅の周囲には人気がない。
ここがどんな場所なのか、駅名も確認していないのでさっぱりわからない。
駅前に設置されているくたびれた案内板を調べてみると、少し歩けば広めの公園があるようだった。
他に目立った施設は見つけられなかったので、ひとまずそこへ行こう。
※※※
閑散とした商店街らしき通りを抜けていく。
周囲には背の高い建物がほとんど建っておらず、空が近く見える。
人間の世界と空とを分けるものはなんだろう。
屋上だろうか。
建物が高く高くあろうとするのは、人間の手が届く範囲を拡げたいという願望からなのだろうか。
そんなことを考えながらふわふわ上を向いて歩いていたら、一回車にクラクションを鳴らされてしまったので、今は前を向いている。
油断禁物不倶戴天だ。
車通り自体は少なく、環境音は遠くから響く駆動音くらいのものだったが、目的地の公園に近づいてくるにつれ、子供のはしゃぐ声らしきものも届くようになってきた。
公園と聞いて思い浮かべるイメージは、茶色い砂地に錆び付いた遊具がポツリと置かれているような寂れた風景だったが、どうやらここは敷地面積がなかなか大きく、中には芝生の広場があるらしい。
小学生にもなっていないであろう子供達が、その緑の上を走り回っていた。
広場の端の木陰では、母親と思しき人たちがシートに座って談笑している。
広場を挟んでちょうど反対側の方に、少し山になった場所がある。意図して作られた地形だろう。
俺はその頂上まで進み腰を下ろす。シートはないから直に座る格好だ。
先客はいない。独り占めである。
この光景は、向こうにいる母親たちの目にどんなものとして映るだろうか。
朝と昼の間、賑いの霞む時間帯にふらりと公園に現れた成人男性。
このご時世ではどんな存在に見えるだろうか。
幸いにして小綺麗なビジネスカジュアルルックだが、不審者が不審者らしい格好をしていることの方が稀であることを思えば何の意味もない。
とはいえ、気にしても仕方がないので気にしないことにしよう。
幸いにして、子供達はこんな人間には微塵も興味がないらしく、広場をキャッキャと走り回っている。
※※※
しばらくはぼんやりと辺りの風景を眺めていた。
公園は背の高い木々に囲まれている。
この小山から駅の方を眺めるとビルの頭が少し覗いて見えるが、ひとたび方角を変えると青空と木々の間には何もなく、緑と青を区切る折れ線が強調されて目に映る。
空までの距離が普段よりも近く感じられる。そのせいか、視線の先は自然と上空に引き上げられていく。
奪われた心がどの辺りを漂っているのかは皆目見当もつかない。
ついさっきまで、そんな設定も忘れていたくらいだ。
顔だけを上に向けていたのだが、次第に首が疲れてきた。
視線を気にする必要はないと判断し、俺は大の字に寝っ転がることにした。
シャツの背中は汚れてしまうが、大したことではない。
土の匂いが鼻を撫で、芝の柔らかな感触が背中に触れる。
そして何故だろうか、数十センチメートルとはいえ顔の位置は下がったというのに、むしろ青空が近付いてきたような感覚が強く浮かんできた。
流れゆく雲の速度が少しだけ速くなった。
ちぎれる。
くっつきく。
歪む。
伸びる。
雲たちが、まだ足りないぞと俺の心を引っ張っている。
※※※
ふと、微弱な振動があった。
後ろポケットに入れていたスマホの振動だ。
地面と腰に押し潰されていたそれを取り出すと、先輩からメッセージが届いたという通知が表示されていた。
『からだだいじょうぶ?』
どうやら休んだ自分を心配してくれていたらしい。
少し罪悪感を覚えないでもなかったが、有給でオーケーと上司が判断したのだから気にする必要もあるまい。
『おかげさまで元気です』
なので、正直に返事をしてみた。
『は?』
ちょっと怖い。だが、せっかくの心配をいきなり放り投げた格好になるのだから、気に障るのも無理はない。
はぐらかすため、寝転がったままで空の写真を撮り、先輩に送りつける。
『空が綺麗だったので』
『え?メンタルやっちゃった?』
『そういうわけではないですが』
心を奪われはしたが、異常はない。
『これどこ?』
『わかりません』
『は?』
もっともな反応だ。
『まあよくわかんないけど元気ならいいよ』
『明日は出ます』
『ちゃんと帰れるの?』
『駅の場所は覚えてるので』
多分ね。
そして、ここで先輩からの反応は途絶えた。
時計を確認してみると普段先輩が出社してくる時間だったので、仕事に取りかかったということだろう。
本来ならば自分も職場にいたはずなんだけどな、という背徳感が却って気分を爽やかにしてくれる。
しかも、今は緩やかな風が吹いていて、午前中の滑らかな空気が心地良く身体を包んでいる。
だから背徳感に便乗して目を瞑り、柔らかな眠気に身を委ねることにした。
きっと、眠っている間に青空がこっそりと奪った心を返してくれるだろう。
まぁ、特に根拠はない。
単なる設定だし。
※※※
帰り道、電車に揺られていると先輩からのメッセージが届いた。
時間は正午を回っていたので、昼休みついでのメッセージだ。
送られてきたのは、一枚の写真だった。
見慣れたビル群を覆い尽くす、少し濁った薄青の空。
『非常階段からですか』
『うん』
『都会ですね』
『ごった煮って感じ』
空に境界は無く、先輩の眺める空と俺の眺める空はどこかで繋がっている。
もしかしたら、いつか見上げた雲の中には先輩の吐き出した煙が紛れ込んでいたかもしれない。
『煙草はほどほどにしてくださいね』
『ん』
はたして奪われてしまった俺の心がきちんと返ってきたのかはわからない。
公園での目覚めはとても気持ちのよいものだったから、多分大丈夫だ。
改めて、電車の外へと視線を向ける。
朝とは違う表情の空が町に覆い被さっている。
その風景を写真に撮り、先輩に送りつけた。
『これ近所』
『なるほど』
『やっぱ元気じゃん』
『元気です』
最初にそう言った。
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