二人で食事をしたいと思っている
「先輩、やっぱりここにいたんですか」
振り向かずとも、そのよく通る声の主はわかる。
カタカタと音を立てて階段を下るその足音が聞こえてきた時点で、実は見当がついていた。
ちょうどいい短かさになっていた煙草を携帯灰皿に押し込み、なんとなく口に溜めていた残りの煙をゆっくりと吐き出す。
青と橙の混じり合う夕の空に、灰色が舞う。
穏やかで風のない一日だった。
ゆるやかに揺蕩う煙の向こうに、か細い電線と無言のビル群が映っている。
こんな日の雲は煙草の煙によく似ている。
だけど、この子たちは雲にはなれない。
「あの、聞いてます?」
「聞いてるよ。何か用?」
私は振り向かないままに応える。空と町の境目に吸い込まれた視線をそのままにしておきたいと思ったからだ。
「急にいなくなったから探しに来たんですよ」
少し呆れたような口調で彼は言う。語尾のトーンから、いつものことですけど、と無言の付け足しがありありとわかる。
「別にいいじゃない。仕事はきっちり終わったんだし」
「そうですね。先輩のおかげで順調に進みました。ありがとうございます」「うむ」
こういうところで謙遜をしても意味がない、というのが私のスタンスだ。
「検収も大丈夫でしょうし、チームみんな一息つけてほっとしてますよ」「いいことじゃないか。だから私も一服入れてたわけ」
喫煙所と化している屋上にはどうせ人が何人もいる。
そのせいで、そういう場所が苦手な私はいつも非常階段の踊り場っていう中途半端な場所なんだけど。
「だろうと思って俺もここまで来たんですけどね」
「よくわかってるじゃん」
「で、部長が打ち上げしようって言ってます。先輩も来ますか?」
「いつものか」
「えぇ、いつものです」
そして、私はゆっくりと振り返る。
彼は思ったよりも近い位置に立っていた。
声のボリュームが普段と変わらないから、もう少し離れているもんだと思ってたんだけど。
「なんか近いな」
「この場所が狭いんですよ」
「階段があるじゃん」
「見下ろす形になりますけど、いいんですか?」
「下りるって選択肢はないわけ?」
気を遣ってんだか遣ってないんだかわからないが、こいつは普段からずっとこんな調子だ。
冷たい性格ってわけじゃないから、邪険に扱うようなものでもない。
うちの会社にはドライな傾向の人間は多いが、こいつは際立っている。
仕事は仕事って割り切りが強いんだろう。
「先輩」
「何?」
「煙を口に溜めるの、癖なんですか?」
「まぁね」
「だから時々煙草くさいんですね」
私の拳が彼の腹部と挨拶を交わした。
「ちゃんとケアしてるつもりなんだけど」
「……えぇ、そうですよね。俺が煙の匂いに敏感だから気付くだけで、気になるようなものでもないです。他の人は気付かないと思います、はい」
彼は腹を抱えながら言葉を発している。
「それなら言い方には気を付けようね」
「はい、わかりました。先輩も、暴力反対、且つ平和主義でお願いします」「善処する」
とはいえ、さっき含んだ煙の残り香は、まだまだ私の周囲に漂っていた。
少し冷え込んできた空気と混ざり合い、私の鼻腔を柔く撫でている。
「それで、先輩。打ち上げには出るんですか」
「いや、いい」
そういう場は、あまり好きではない。
今までも、避けられるなら避けてきていた。
それで何かを言われるような会社ではないから、特に気にしたこともない。「人が多い場所がね、苦手なんだ」
「そうですか」
「なんかね、気力的なものの消費が無駄にでかい感じがするんだよ。仕事上どうしようもないなら行くけど、行ったら行ったで次の日からはしばらくパフォーマンスが落ちる」
「先輩のパフォーマンスが落ちてるの、あんま見たことないですけど」
「そりゃ普段から全力出してないからね。いつも 70% くらいだよ。疲れるとその 70% を維持するために全力出さないといけないから嫌なんだよ」「安定してるんだかしてないんだか」
「ムラなく成果を出し続けるっていうのが仕事では大事なんだよ」
そんなもんですかねぇ、と彼は言葉を漏らした。
「打ち上げの件、部長には俺の方から伝えておきますよ」
「ありがと。君はどうするの?」
「俺ですか?俺も飲み会は苦手なんで家に帰りますよ」
「ん」
夕暮れのオフィス街はとても静かだ。
帰路に着き始める人々も、騒ぎ立てるよりも駅に向かうことを優先する。
昼間はその中に人の営みを押し込めているのに、時間が立てば空っぽになってしまう。
こんな場所の空気が、私にとっては心地良い。
思考もクリアに回転していく。
人が多い場所は苦手だけど、しかしまぁせっかく仕事が一区切りついたんだし、どうだ、暇人同士、二人で食事でもしないか?
うん。会話の流れに不自然さはない。
問題は、この台詞をいつどうやって口にすべきか、だ。
「先輩、もう戻りますか?」
「どうしよっかな。もう一本くらい吸っていこうか迷ってたところ」
「冷えてきましたし、その格好であんまり長く外にいると風邪ひきますよ」
そういえば、上着は持ってきていなかった。
言われてみると、少し肌寒く感じていたことに気付く。
「それじゃぁ俺は戻りますから」
仕事の片がつくと、私はいつもこの場所に来る。
私を探しにくるとすれば、大抵は同じチームの彼だ。
今日もきっとそうなるだろうと思っていて、実際にそうなった。
その度に、何度もシチュエーションを設定しシミュレーションしたはずの台詞が口に出せぬまま、無為に時間が過ぎていくのだ。
空を仰いでも視界の半分はビルの外壁と踊り場の裏側に埋められている。
情緒なんてものを感じる余地はない。
誘いを断わられたとしても、彼と気まずくなったりはしないだろう。
ああいう人間だ。
大して気にも留めないだろうし、意図に気付いたところで触れずにおいてくれるくらい、いや、触れようとも思わないくらいにはドライなやつだ。
私だって多分、仕方ないなと受け入れてしまうだろう。
仕事は仕事で割り切るべきだというポリシーが、私の諦めに正当性を与えてくれる。
だからこそ、そうなってしまうのが怖くて口に出せないでいる。
「食事すら誘えないんじゃその先なんてなぁ」
「はい?婚活でも始めたんですか?」
上の空になりすぎて、まだ目の前に彼がいることを忘れていた。
そういえば、まだ足音は鳴っていなかった。
吐き出した言葉は煙のように消えてはくれない。
消える前に、彼の耳に吸い込まれてしまった。
さて、どうしたものか。
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