花火の音が消えるまで
なんで、こんな場所にいるんだろう。
悪足掻きする太陽がそれでも月に押し出されつつある夏の夕暮れ。
駅前から神社まで公園に接した大通りを使って催される毎年恒例の夏祭。
蝉の鳴き声を打ち消す雑踏の中で私は自問自答を、いや、ひたすら自問だけを繰り返していた。
答えなんて出た試しがない。
「どうかした?」
前を歩く彼が振り返り、口を開く。
「別に。なんでもない」
咄嗟にそう答えたけれど、彼はそれに返事をせず、私を見つめ返している。
待ってくれるのが彼の優しさだと知ってはいるけれど、向けられたその視線に、私はいまだに緊張してしまう。
「なんで、ここにいるんだろうなって思って」
自分の心が落ち着いたのを確認してから、考えていたことを口にする。
「やっぱ苦手だった?」
彼が申し訳なさそうな顔をしたのを見て、私の頭はぐるぐると回り出す。
「あ、いや、別に。人混みが好きじゃないってだけだから」
咄嗟に取り繕えるような返事をしたつもりだったけど、これじゃぁ全然意味が変わってない。
人混みのことを口にして、それを強く意識してしまったからだろうか。
過ぎ去る人々の会話が耳に流れ込み、身体が強張っていくのを感じた。
大通りにぼぉっと立ち尽す私は、きっと邪魔になっていただろう。
人の流れる中にいると、溺れてしまいそうな感覚に襲われる。
ほんの少し足を浸けただけで。バランスを崩して倒れてしまいそうになる。
流れに足を掬われて倒れそうになる私が、今こうしてなんとか堪えていられるのは、間違いなく彼がいてくれるからだ。
これだっていつまでも続くものじゃないのに、私はずっと縋ってばかりだ。
※※※
夏休みに入ってから、私は図書館に通って受験勉強をしていた。
ということにして、適当に色々な本を読み漁って時間を消費していた。
行きたい大学はもう決まっていて、受験を乗り切るのに必要なだけの勉強はとっくに済んでいる。せいぜい頭を鈍らせないようにしていれば、高校生活の残りは消化試合でしかないのだ。
図書館の中は学生で溢れていたけれど、みんな静かだから過ごしやすい。
今日は、鯨の生態について詳しくまとめられた学術書を読んでいた。
もちろん、しっかりと読み込めるほどの背景知識なんて私にはない。
だから、心地良い設定温度の冷房が効いた図書館の壁際の席と読書が組み合わさることで、微睡むにはうってつけの環境が出来上がってしまったのだ。
夢から覚め、ぼんやりとした頭のままにのっそりと顔を上げると、向かいの席には彼が座っていて、静かに本を読んでいた。
ぼやけた視界がクリアになるまで、私はじっと彼を見つめてしまった。
「あ、おはよう」
「なんれ……なんで、いるの」
寝起きだから呂律が回らない。
「気分転換しようと思って」
図書館に来た理由を聞いたのではない。
「なんで、そこに座ってるのって」
「気持ち良さそうに寝てたけど、放っておくのはちょっと危ないかなって」
「図書館だし、別に平気でしょ」
「置き引きとかさ、あるじゃない」
それを聞いて、私は慌ててバッグの中を確かめる。
持ち歩くものは少ないけれど、財布とかスマホとか、あとはまぁ色々大切なものが入っていなくはない。ひとまず何も盗られていないことを確認できたので、バッグを元の場所に戻す。
「大丈夫だった?」
「うん。何も盗られてない」
「よかった」
窓の外に目をやると、ほんの少し陰り始めていた。
どうやら思っていたよりも長いこと眠っていたらしい。
彼はいつからそこに座っていたのだろう。
※※※
「今日、花火やるんだってね」
起きてからはもう読書に集中できなくて、そろそろ帰ろうかなと思い始めたとき、図書館入口の掲示板に貼ってあったチラシを思い出した。
印象に残っていたのか知らないけれど、ふと、そんな言葉が私の口から飛び出したのはそんな理由だ。雑談の種になるかなと思っただけで他意はない。
少なくとも、私はそのつもりだった。
「あぁ、駅前通りの夏祭」
そう聞くと規模が小さく思えるけれど、市を上げてのお祭だから毎年毎年この時期は大騒ぎだ。一週間くらい前から商店街には装飾が施されていき、正直うっとうしい。
「もう何年も見てないんだよね」
だからこれも、ただただ事実を述べただけのつもりだった。
中学の頃からずっと、夏休みの間は家か図書館に籠もっていたのだから。
「それじゃあ久しぶりに見に行ってみる?」
「え?」
「花火。今日このあと、時間、大丈夫?」
寝起きのふわふわとした心地がまだ残っていて、喉の奥を遮る壁が機能停止していたのかもしれない。
「ん、大丈夫」
特に何の抵抗もなく、私はするりと答えてしまった。
予定なんてないから、時間は大丈夫。その通りの意味でしかない。
ただ質問に答えただけで、別に行きたいと言ったわけではないのだ。
※※※
結局、私たちはごった返した大通りから外れ、人の少ない通りから公園を目指すことにした。同じことを考える人はわりといるようで、浴衣姿のキラキラした女子たちがちらちらと目に入ってくる。
「花火までは時間あるね。あと一時間半くらい」
彼が時間を確認してそう呟いた。
「どこか寄ってく?晩御飯、食べてないし」
そういえば、お昼もあまり食べてなかったから、かなりお腹が空いていた。
「でも、どこも混んでるんじゃない?」
「それもそうか」
ファストフードとか回転率の早いお店なら入れるかもしれないけれど、なんだか気が乗らなかったから、私から提案するのは止めた。
公園まではそれほど遠くないからすぐに着いてしまった。
かなり広い公園で、お祭のために提灯やらの装飾はたくさん付けられているけれど、屋台は一つも無いみたいだ。商店街との役割分担だろうか。
何かしらお店はあるだろうと思っていたんだけど、アテが外れてしまった。
「じゃぁ通りの方で何か買ってくるよ。ダメなものとかある?」
「私も行く」
間髪入れずに答えた。
女の子を一人にするんじゃないよ、という気持ちが半分。
「まだ人はいっぱいいると思うけど、平気なの?」
「別に問題ないよ。なんとなくイヤってだけだし」
もう半分は、ちょっとした強がりと見栄だった。
彼はじっと私を見ていたけれど、黙って見つめ返すことで返事に代えた。
※※※
祭には様々な人が群がってくる。
そこには当然、私のことを知る人も、知っていた人も混じっている。
やっぱり、少し気持ちが浮かれていたんだろう。
誰にも会いたくない。
人混みを避ける理由のほとんどはそれだったはずなのに。
※※※
気付けば日はすっかり落ちていた。
多分、花火がそろそろ始まる時間だ。
通りで買ってきた焼きそばは、手付かずのままですっかり冷えてしまった。
公園の端、背の高い木々に囲まれて花火がほとんど見えない位置ゆえに、人通りはすっかり消えていた。
広場の喧騒が夜空を介して響いているけれど、それ以外の音は聞こえない。
ずっと。
ずっと俯きながら眼を閉じて、ベンチに座り込んでいた。
多分、もう何十分も経っている。
その間、彼は一言も発することなく、私の隣に座っていた。
ごめんなさい、と言いたかったけれど、結局言えずにいる。
※※※
屋台の連なりの出口付近にはあまり食べ物が売っていなくて、少しだけ通りを歩くことになった。
わたあめとかかき氷とか、お腹を満たすには物足りないものが多くて、最初に目に入った腹持ちのよさそうな食べ物が焼きそばだったので、それを買って公園に戻ることにした。
急いでいたのは、私を気遣ってのことだろう。
会計を済ませたあと、彼は大通りを抜けられる道の方へと歩を進めた。
でも、少し遅かったらしい。
突然、背後から名前を呼ばれた。
記憶にない声だったから、無視してしまえばよかったのだ。
けれど、気が緩んでいた私は何の気なしに振り返ってしまった。
視界に入れた直後にはそれが誰だかわからなかったけれど、無理もない。
中学を卒業して以来一度も話したことのない同級生の顔なんて、ましてや、化粧っ気に包まれて色気づいた女子の顔なんてわかるはずがない。
対する私は昔と変わらぬ姿だったがゆえに、彼女たちは気付いたのだろう。
彼女たちは、あのときの私を知っている。
教室の隅で孤立して、そしてついには爆発した私のことを、ずっと遠巻きに眺めていた人たちだから。
連れらしい男たちの方は、本当に見覚えがない。
身につけたものなどから判断するに、多分、高校生ですらない。
何事かと興味深げな表情で、彼女たちの横に立っている。
女子たちは私の方を見てニヤニヤとした表情を浮かべていたが、視線は不意に私の背後へと向けられた。
彼の存在に気付いたのだ。
彼女たちの顔に浮かんでいた侮蔑混じりのニヤけ面が一層強まって、目元に下卑た感情が宿り始めたのを感じた。
なんで、こんな場所にいるんだろう。
視界がぐらりと揺れる。
通りを行き交う人の流れへの抵抗力が削ぎ取られ、足元が覚束無くなる。
強い耳鳴りが響き始め、何も聴こえない。
彼女たちの口が動き始めた。吐き出された汚い声は彼に向けられている。
その音は確かに私の耳にも届いているのに、何を言っているのかがまるでわからない。
笑い声。
甲高い。
気に触る。
心臓が冷たい。
凍って、砕ける。
何もかもが雑音に変わりいよいよ重力が消えたとき、ぐいと手を引かれた。
そんなことくらい知ってるよ、という彼の声が耳に届く。
そのあとにやりとりがあったのかなかったのか、私はもう覚えていない。
私の右手を握る彼の左手を眺めながら、引っ張られるがままに大通りを後にして、いつの間にか公園へと戻ってきていたのだった。
※※※
破裂音。
うねっていた視界はようやく落ち着きを取り戻し、今の自分の状態を意識できるようになってきた。
シャツが背中に貼り付いて気持ち悪い。
額から湧き出た汗が顎を伝って垂れ落ちて、地面に跡を付けている。
そして、私の右手は彼の左手の中。
あれからずっとこうしてくれていたのだろうけど、改めてそれを意識したことで少し力んでしまう。
「気分はどう?」
私が力を込めたのに気付いたんだろうか。
久しぶりに、彼の声を聴いた気がした。
「最悪、からは抜け出したかも」
俯いたまま答える。
「そっか」
そんな彼の返事の直後、ガサガサとバッグを漁る音がして、目の前にタオルが差し出された。
左手でそれを受け取って顔を拭くと、不快感はだいぶ減ってきた。
破裂音は勢いを増し、歓声は止むことなく響き続けている。
やっと身体を起こすことが出来たのでついでに夜空を見上げてみたら、薄雲が音に合わせて点滅を繰り返していた。
「ごめん」
思わず言葉がこぼれた。
「何の?」
「花火、始まっちゃった」
「うん、そうだね」
手元に意識が戻る。
固く繋がれていたけれど、彼の左手は包み込むような優しさで、それを離さぬよう力を込めていたのは私の右手の方だった。
そのことに気付いた私は恥ずかしくなったけど、意識しているのが伝わってしまいそうでいきなり手を解くなんてこともできない。
「ごめん、痛かった?」
少しだけ手の力を抜いてそう訊いてみるくらいしかできなかった。
そういえば、彼と手を繋ぐのはこれが初めてだ。
手の平からはさらに汗が滲んでいく。
気持ち悪く、ないだろうか。
でも、訊けない。訊きたくない。
だって、訊いてしまったらこの手を解くのが自然なことになって、私はそうしてしまうから。
生温い風に乗って火薬の匂いが漂ってくる。
花火の音は一層激しさを増し、クライマックスを迎えているらしい。
花火の音に覆われて、身体の強張りが解けていく。
結局何も食べてないから空腹で、やっと落ち着き始めただけだからまだ身体に力が入らないのも仕方なくて、そして手を繋いだままだからそっちの方向に引っ張られてしまうのも仕方のないことで。
だから、だから、ふらりと身体が揺れて彼にもたれかかってしまったのは、必然的な事故に過ぎない。
肩と肩が触れ合って、体温が伝わってくる。
「ごめん」
私の口から同じ言葉が飛び出たけれど、姿勢を戻すことはしなかった。
力が入らないのだから、どうしようもない。
「謝るようなことじゃないよ」
耳元で彼の声がする。少しくすぐったい。
どれのことだろう。
「そうかな」
「花火は今日だけじゃないし、今年で終わりってわけでもないし」
「……そうだね」
右手の指が、彼の左手の指を探っている。
頭が重力に負けて、彼の肩を枕にし始める。
指と指とが絡み合い、汗が混じる。
花火が終われば、帰路を行く人達がこの場所にも大勢やってくるはずだ。
その中に巻き込まれたくはない。
もしかしたらあの人達が混ざっているかもしれない。
足が少し震えている。
だから、だからこそ、せめて。
花火の音が消えるまで、このままでいてもいいですか。
声に出せない問い掛けが、夜の空気に溶けていく。
彼の答えはわからない。
私の答えもまだわからない。
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