第2話 現実は退屈だ
ランドセルを背負って学校に行く。特別に緑色に舗装された通学路を歩くだけの時間が長いようで短い。下駄箱に着いたら上靴に履き替えて、教室に着いたら真っ先に自分の席に向かって行ってランドセルの中身を机の中にしまう。
みんなと少し違うのは、落書き帳の真っ白な用紙を一枚切りとって、色鉛筆の入った筆箱を机の端に備える事だ。と言ってもこれの出番はまだ先で、今は黒い鉛筆の下書きの上からボールペンで上書きするところだ。
描いているのは学芸会の表紙になる絵だ。昔から動物を描くのが好きで、たまたまノートの端に書いた落書きが先生の目に留まったのが運の尽きだった。名前は出さないと言ってくれたので渋々承諾したけど、みんなの手元に自分の絵があるのはなんだか照れくさい。
今描いているのは「ぞうれっしゃがやってきた」の絵。厳しい戦争の時代を生き抜いた飼育員さんと象達の苦労話だが、象の餌を探して回る飼育員さんを非難する街の人の声や、お腹を空かせて死んでいく象をただ見ている事しかできないシーンが、だんだんと僕のボールペンを握る力を奪っていく。悲しい目をした象の姿をイメージして描くのは、どうしても自分まで悲しい気持ちになってきてしまう。次第に悲しいという感情も、お腹が空いてつらい、身体が動かなくて苦しい、それをどれだけ飼育員さんに伝えても、ただ頷くしかしてくれない、そんな象の思いが指先に伝わって、目じりのシワが哀愁を漂わせていく。
悲しそうな表情の動物を描くのは少し嫌いだ。自分の気持ちと悪戦苦闘していると、ふと紙の中に入る影が多い事に気が付いた。
誰かが覗き込んでいる、反射的に振り向いた先に、興味津々に僕の絵を覗きこむ女の子の顔があった。
「……ん?あ、ごめんね。邪魔だった?」
両手を合わせて謝るそぶりを見せたのは、よく馴染んだ顔だった。
「気にしてないよ舞ちゃん。ただびっくりしただけ。」
別に邪魔をしにきたのではないんだとわかると、僕は気にせず手を動かし始めた。
舞ちゃんは気になっている女の子ではある。だからそんなに顔を近づけられると緊張するし、見るにしてもできれば完成してからの絵を見て欲しいけど、こうやって自分に興味を持ってくれていいることは嬉しいので、あまり気にしないようにしている。
それでもじっと見られるのはやっぱり緊張するし、何よりこうしていると他の男子がはやし立ててくることがある。それは困るので、それが始まったらいつも止めるようにしている。
今日は外で遊んでいるらしく、これなら朝会までは静かに描けそうだ。
それからは、舞ちゃんとは特に何も話さずに、今にも泣きだしそうな象の瞳が完成した。授業が終わってはまた描いて、放課が終わればやめるの繰り返し。そんなに凝った絵を描く必要はないと思うけど、厳しい時代を一生懸命生き抜いた象を適当な気持ちで描くのは気が引けた。
悲しい物語は、例外なく考えさせられてしまう。きっとそんな思いをしなくていいように、そういう思いで書かれたからこそその意味を受け止めようとして、でもそれがなかなか受け止めきれないから考えてしまうのだと思う。
それを成長と表現するには、流す涙が嘘っぽい気がする。
「…………なんでこんなことしたんだろう。」
気づけば象の瞳に涙を浮かべていた。ただ少し瞼に水たまりを作っただけで、悲しそうなはずの象の表情が柔らかくなった気がした。でもこれは悲しい物語なのだから、象がこんな表情になってしまうのはおかしい。そのはずなのに、自分でもこの涙の事が気に入っていた。消しゴムで擦っても、もう象は泣いてしまっている。
そこまでして、描き直す気にはなれなかった。
「あ!照間がまた絵かいてるーーー!!」
象と見つめ合って悩んでいる最中だった。一人の男子生徒が、僕が象の絵を掲げながら睨み固まっているのを指差しで笑った。それに呼応して、その男子と仲のいいい子たちが集まってくる。
彼らは一同に、僕の周りを取り囲んだ。
「何かいてるんだよ!見せろよ!」
一人の男子が象の絵の端を掴んだ。そんなに紙質が良いものではないので、あまり強い力で引っ張ると描いた線から絵が破れてしまう。だがそれをお構いなしに、奪い取ろうと無理やりに引っ張られる。僕は絵が破れてしまう惜しさに手を離してしまった。
「……なにこれ?きっしぇー!!捨てちゃえ捨てちゃえ!!」
一目見て象の表情が気にいらなかったのか、それとも僕が気に入らなかったのか、絵を奪い取った男子は何十時間とかけた力作をくしゃくしゃに丸め、それを教室のゴミ箱の中に放り込んだ。
放物線を描いて消えていった絵。その瞬間は何ともなかったが、少しづつ事態を受け入れるにつれて込み上げてくるものがあり、それはやがて赤く、黒く変色していく。
「いっつも変な絵描いてて気持ち悪いんだよ!バーカ!」
絵を捨てた男子はそう言って、他の取り巻きと一緒に僕に指を指しながら見下すように嘲笑した。しかしそれだけだった。きっと何か、悲しいだとか怒れるだとか、そういった感情を湧かすことができればもっと違う事も言えただろうが、生憎と自分ができないことに対しての嫉妬深い行動なんて、何も生まない安い行動だとしか思えなかった。
捨てられた絵を取りに行こうと立ち上がった。それだけでいちいち身震いなんてしないでほしい。僕がゴミ箱に向けて歩き出そうとすると、取り巻きの一人が進路を妨害しようとしてくるので、やめた。
座ると、また嘲笑が始まって、教室が騒がしくなった。
すると少し時間が経って、誰かが輪の中を割って入りこんで、僕の机にシワシワの上を一枚叩きつけた。
舞ちゃんが、わざわざ象の絵を持ってきてくれたのだ。
「うわ、花園が寄って来た。」
「あーあ、またこいつかよ。」
舞ちゃんは、憎まれ口を睨みつけた。
「ねぇ、なんでこんな酷い事するの?」
「知らね。お前毎回照間と喋ってる時に来るよな?ウザいんだけど。」
「ウザいのはそっちでしょ?さっきからうるさいんだけど?なんで男子って静かにできないかな?目障りだからやめてくれない?」
「目障りなのはおめーだろ!早くどっかいけよブス!」
短気な男子の一人が、舞ちゃんの肩を突き飛ばそうとした。僕は咄嗟に立ち上がって、その腕を払い除けた。
「……は?なんだよ照間?」
「…………女の子に暴力振るうのはダメだと思う。」
「……うーわ、照間が格好つけてる。」
「やっぱお前ら夫婦なんじゃん!」
「「「「「ふーふ!ふーふ!ふーふ!」」」」」
そんな僕の行動を、絶好の餌に飛びつく魚のようにはやし立てる男子達。僕はアホらしいだけだったけど、舞ちゃんの顔は真っ赤だった。
嫌な予感がしたので、僕は舞ちゃんの手を無理やり繋いで握った。
「……照間くん?」
もちろんそういう反応が来るだろうと思ってやったので、僕は舞ちゃんの顔は見ないようにした。
「……………ねぇ、」
「……は?」
「授業、始まるよ。」
僕が指を指した黒板上の時計の針は、授業の始まりまであと3分を指していた。
次の授業は、体育だ。
「……………行こうぜ。」
一人がそう言うと、男子達は着替えをもって更衣室に行ってしまった。
教室には、いつの間にか僕と舞ちゃんだけになっていた。
「……照間くん、大丈夫?」
僕はしわくちゃになったかわいそうな象を眺めていた。
これはなんというか、仕方のない事だったんだと思う。僕がいじめられているという事よりも、この絵はそうなる運命だったのだと思う。涙を溜めた瞬間から、この象は「ぞうれっしゃ」の象ではなくなってしまったのだと思う。
台本を読んだからわかるが、「ぞうれっしゃ」の象は、お腹が空いて辛いとか、飼育員さんがいなくて寂しいだとか、そんなことで泣いたりはしない。
大切な物を失って、涙を流すのは人間だけだ。
「……大丈夫だよ。」
僕は象の絵の両端を掴んで、指に力を込めて奥歯を噛み締める。
そして、涙を流す象の絵を、涙もしないまま二つに破り裂いた。
「照間くん!?」
その後はなんて事はなかった。もうこれは象の絵じゃない、ただの破れた紙だ。そう思えてからは何度破って粉々にしてもなんとも思わなくなった。
粉々になった紙きれを、はらはらと一枚ずつゴミ箱の中に落としていった。小さな紙吹雪は、白と黒が色とりどりで綺麗だった。
「…………照間くん、」
「舞ちゃん、僕保健室に行くから、先生に気持ち悪いからお休みしますって伝えてくれる?」
「…………いいの?せっかく描いたのに……。」
僕が真っ直ぐ保健室に向かおうとすると、舞ちゃんが心配そうな視線を送りながら不安を胸に抱きしめていた。無視すると、きっとすごく怒るんだ。
だから僕は、わざと下手くそな作り笑いを浮かべた。
「今の気持ちで描いた方が、もっといい象が描けそうなんだ。」
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