リトル・タイム・アナグラム
喘息患者
第1話 瞼を閉じて開いたら
「ようこそ!時間と空間に支配された世界へ!」
瞼を閉じて開いたら、そこは夢の世界だった。
夢と言っても不思議なものだ。視界に広がるのは、言ってしまえば色とりどりの宝石が所狭しと領地を奪い合っている、赤やピンクや黄色や、言葉にしにくいちょっとしたグラデーションが主張し合う光の乱反射する世界。それは夢というよりは、幻想的な世界と形容した方が伝わるだろうか。ともかく、これが現実ではないのは理解できる光景が目の前に広がっている。
極め付けが、首に懐中時計をぶら下げた三毛猫が、後ろ足だけで器用に立ちながら、満面の笑みで前足を広げて目の前にいる。
余談だが、この猫ちょっと肥満気味だ。
「………あの、」
「ようこそ!時間と空間に支配された世界へ!」
まるでスローガンのような文句を叫ぶ三毛猫にたじろぐのは、まだ年端もいかない小学校高学年ぐらいの男子。突然の怪奇現象に、まだ状況がうまく呑み込めないでいる。
「…………君は?」
「ようこそ!時間と空間に支配された世界へ!!」
猫がそう叫ぶたび、少年の体がびくんと震える。猫は堂々とした出で立ちで、少年が怯もうと警戒しようと知った事じゃないとたゆんとした腹を張る。
「…………僕は
「ようこそ照間!時間と空間に支配された」
「それはもういいから!!」
少年が遮るように叫ぶと、今度は猫の方が体をビクンと震わせた。ふんぞり返ったせいで上を向いていた顎が引かれ、自然とテルマと猫の目線が交差する。
「あはは!凄いね!君は喋れるんだね!」
「………君も喋ってるよね?猫なのに。」
「んお?」
なんだか馬鹿にされてる気分になったので負けじと言い返してみれば、猫の目がぱちりと開いて、それが顔の面積の大半を埋めるものだから驚いて、腰を抜かす前に足を滑らせて尻餅をついた。
「あはは!そうだね!猫なのに喋ってるって面白いよね!あはは!あはははは!」
「……………。」
なんだろう、この猫と喋っていると頭がおかしくなりそう。テルマは自分の気持ちに蓋をして、頭の片隅にしまい込んだ。
「ねぇ、君の名前は?」
「んお?」
尋ねると、また大きな瞳が間の抜けた声と一緒に現れた。まるで体の中を覗き込まれてるようで嫌だったが、そんな嫌悪感はすぐに猫の瞼の裏に閉じられた。
「名前?名前なんてないよ!いらないからね!」
意味不明に堂々と胸を張る猫に、テルマは困惑する以外にどうしていいかがわからなかった。
「そうなの?じゃあなんて呼べばいいの?」
「あ、でも通称はあるよ!」
「……それ名前じゃないの?」
一体どう違うのかが理解できず、やはりテルマは困惑するしかなかった。
「僕はこの世界の案内役!それはつまり「
テルマは思った。なにがつまりなんだろう、なにをつまりと表現したのだろう、自分が知っている限りでは「つまり」という日本語は、難しい事柄を簡単にわかりやすく要約したものの事を言うのだと思うのだけど、これは何を要約してくれたのだろう?偉そうに反り返ったもこもこの胸がうざったい。
ただ、とりあえず困惑しておけば間違いないのはわかったので、困惑しておいた。
「…………じゃあ、「リベ」って呼ぶね。」
ついでに考えることも放棄して、わかった事だけを抜き取って答えを出した。するとリベはそれが気に入ったらしく、半円の出っ張りが上を向いて喜んだ。
「リベ!リベだって!僕はリベ!よろしくね!なんだか船みたいだね!すいへーりーべーぼくのふねー!」
喜びついでに、この訳も分からない世界の中で、何もわからない僕を無慈悲に置いていこうとする背中を揺らしながら、ぴょんぴょんと進んで行く。
どちらかというと、リベは水夫の方じゃないかな?とツッコミを入れるのは、テルマがもう少し成長してからのお話だ。
それはそれとして、ご機嫌で無慈悲な背中をテルマが追いかけようとするが、慣れたはずの足がうまく前に進んでくれない。まるでランニングマシンの上を延々と走っているような感覚に戸惑い立ち止まる。だが足を止めても戻されることはなく、むしろ足を動かした方がリベの背中は遠ざかっていく。
「待ってよリベ!おいてかないで!」
そう叫んで手を目一杯伸ばしたその時だった、何かが背中を叩いたのだ。
「うわっ!!何っ!?」
気配もなく近づいたそれに驚いて飛びのこうとする。勢いに任せて後ろを振り向いた刹那だった。
「ばああああああああっっ!!!」
前を歩いていたはずのリベが、前足を広げておどけながら現れたのだ。
心臓が飛び出そうになったのは言うまでもない。
「うわああああああっ!??!!?」
飛び出そうになった心臓を追いかけて転ぶと、これがまた嬉しそうにリベがあはは!あはははは!と笑いだす。図太い胴体に隠し切れないほど尻尾も振れている。
「びっくりしたね!楽しいね!ここは「時間と空間に支配された世界」! 君がいるのは僕の後ろ?それとも前?答えはどっちも違うよ!ここはそういう世界なんだ!」
「………どういう事?」
色々な事が置きすぎて蒸気を吹き出しそうな頭を抱えながら尋ねるテルマ。リベはそれをにっこりしながら見つめると、何もない場所に指をなぞり始めた。
「今ね、あそこにある石を触ってるよ!」
テルマは指を指された方向を向くが、特に何も変化は無い。
「あのね、嘘だよ!」
「…………。」
テルマはリベに、無言と無表情で抗議した。
「楽しいね!じゃあ次!今度はあそこの石を触るよ!」
リベはそう言って、今度は床に爪を立てて線を引き始めた。甲高い気味の悪い音がギギギと響き、テルマは思わず耳を手で塞いだ。だが、音が弱まる気配がない。
「どうせ今度も嘘なんでしょ!」
「違うよ?ほら、あれ見て!」
どうせまた嘘なんだろうと指差された方向を見ると、だいたい20メートルは離れているようなところに、不自然に線が引かれた、線の周りが粉を吹いている箇所がある。
「あはは!嘘吐きにろくなやついないよね!」
どの口が言うんだと思ったが、それよりも手近な床に傷をつけたはずなのに、それが数十メートルも離れている場所に傷をつけている光景に目を奪われてしまった。
「不思議だね!楽しいね!この世界には前も後ろも上も下も、右も左もなければ種も仕掛けもないんだよ!僕がいるのはここだけど、テルマがいるのはあの石の隣だよ!つまりね、今度はテルマのお腹を触っちゃうんだよ!そーれ!」
なにがつまりなのかを考えていたら、突然腹部に何かが突き立てられたような感覚が生まれた。それがおへその辺りに突っ込まれ、周りをくりくりとほじくられる。
「ちょっとやめてよ!」
それを止めようと腹をまさぐるが、治まるどころか何かが当たる感触すらない。しばらくもぞもぞ動きまわっていると、おへそをぐりぐりされる感覚が消え、リベがあはは!と笑いだした。
「楽しいね!ほっぺパンパンだね!面白いね!」
「…………………。」
なんだかいいように遊ばれた気がして気に入らない。
「でもね、実はおへそをぐりぐりしたのはほんの一瞬なんだよ?」
「嘘だ!ずっとやってたじゃないか!」
「嘘じゃないよ?はいっ!」
「うわっ!?……またおへそを!」
「してないよ?」
「うそ!……あれ?本当だ。」
おへそをぐりぐりされた感触はあるのに、リベの指は器用に折りたたまれている。
もう何が何だか、わからなくなってきた。
「不思議だね!楽しいね!ここはそういう世界なんだよ!君がそう思ったらそうなんだ!そうじゃなかったらそうじゃないんだ!ここはすべてが自由!とっても不便で、とっても愉快なパラダイスなんだ!」
リベはにっこりしたまま前足を広げて胸を張るが、やはりテルマは困惑するしかなかった。とにかく不思議でとにかくおかしな綺麗な世界、よく判らないまま置いてけぼりのテルマの感情は爆発寸前だった。
「もう!わかるように教えてよ!」
怒りに任せてグーで握った手を下に叩きつけた。すると、なんだかもさっとした感触が肌に伝わってきた。
「いてっ!…………んお?」
そしてリベが声を上げ、戸惑ったように大きな目を全開にした。これはもしかして、リベの頭に拳骨を落としたのだろうか?指を広げて辺りを優しく撫でると、さわさわした感触と一緒にリベの瞼が細くなる。
「んんんん……優しいね。気持ちいいなぁ!照間はいい子だね!」
リベが嬉しそうに猫なで声で言うものだから、何だかそれでいい気もしてきた。
そんなところで、突然視界が揺れ始める。
「あ、もう時間なんだね!じゃあね照間!また明日会おうね!」
猛烈な揺れに襲われながら、笑顔のリベが元気に手を振っている。待って、どういう事?僕は一体どうなるの?リベはどこに行っちゃうの?
一つも謎が解けないまま、真っ暗な世界に飛び込んできたのは見慣れた狭い天井だった。
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