第42話


   暗闇の中


 歩き出したミカに対して、なにかがシュッと音を立てて向かってきた。僕にはそれが見えなかった。小さな物音がし、なにかが動いていることを感じることが出来ただけだ。ミカはそれをサッとよけていた。二度目は顔に傷一つつけられていなかった。

「今のはなんなんだい? ミカには見えているんだろ?」

「あれがきっと、闇の生き物でしょう。とにかく私の後ろから離れないで下さい。この世界では私たちの常識も通じないようですから」

 僕はミカの翼の間に身体を埋めていた。それでもミカの右腕は離さず掴んでいた。そのままの恰好で、ミカは前へと足を進めていた。僕も離れないようにと足を動かしていた。

 静かな時間が続いた。暗闇の中、僕もミカも息をすることを忘れているかのようだった。足音さえ聞こえない。全ての音が、闇に飲み込まれてしまっていた。その勢いはさらに強くなっていく。

「家までは後どのくらいなんだい?」

 僕は確かにそんな言葉を発した。けれどミカには届いていないようだった。僕の耳にさえ、届かなかった。僕はそっと、ミカの顔をのぞき込んだ。ミカの口元が動いているのは見えたけれど、その声が聞こえてこない。闇に飲み込まれてしまったようだ。

 突然ミカの身体が前傾に倒れそうになった。翼の間にもたれていた僕も、それにつられてしまった。そのときふと、この身体になにかを感じた。引っ張られているような、吸い込まれていくような感覚だった。そうだよ。僕とミカは暗闇に吸いこまれてしまっていたんだ。

 暗闇の中は僕の想像力を遥かに超えていた。死神や悪魔のような、恐ろしいなにかがいると考えていたんだ。けれどそんな者はいなかった。そこはまっさらな世界で、まるで春のようだった。

 そこでは小鳥のさえずりが聞こえていた。穏やかな風も吹いていた。爽やかな空間だったんだ。明るくて、黄緑の景色が広がっていた。本当にそうなのかな? あれは僕の幻聴だったのかもしれない。そしてなにかが飛び交っていた。

「ここがどこなのか、あなたにはわかりますか?」

 僕よりも先に、ミカが口を開いた。本当の暗闇の中に吸い込まれてしまった僕とミカは、その言葉を取り戻していた。中に入ってしまえば言葉も物音も飲み込まれてしまうことはない。だってそこでは、全てが飲み込まれてしまっているのだから。今考えて一番不思議なことは、僕もミカもそんな現象なんて少しも考えずにその現実を受け入れていたってことだよ。その言葉や物音が聞こえることになんの疑問も抱いていなかったんだ。ミカの声が自然と耳に入り込んできた。けれどそんなミカの声が震えていたよ。

「わかるはずはない」

 僕はそんな無意味な言葉で即答してしまった。今では当然反省しているよ。次回からは気をつけることにしよう。

「私にはわかりません。ここがどこなのかというより、神様がここを恐れていた理由がです」

「それならわかります」

 綺麗な女性らしい声が聞こえてきた。ミカの言葉に自然と反応していたよ。まるでずっと前から僕たちとの会話に参加していたかのようだった。なんの違和感もなく入り込んできた言葉だった。けれど僕にはその姿が見えない。辺りをキョロキョロと、そんな声の主を探した。

「見えませんか? 私たちはあなたたちの世界にもお邪魔をしているのですよ。暗闇の中を住処にはしていますけれど、外の世界にも積極的ですから」

 僕の頬にスッとなにかが通り過ぎた。直後に一瞬の小さな痛みを感じたよ。僕はすぐに手を当てた。血が、流れていた。

「痛かったようですね。けれどそれが、私たちが生きている証なのです。姿は見えなくても、ここにいるんですとのアピールなのです。その傷をさけられる者はどこにもいません。あなたたちの神と呼ばれる方にも傷をつけることは容易なのですから。けれどあなたたちはまるで気がついていませんでした。死神たちもそうです。私たちには少しも気がついていませんでしたよ」

「それでなにが目的なのですか?」

 ミカは僕の傷口に手を当てながらそういった。僕の傷がスゥッと消えていく。

「目的はありません。私たちはここにいて、普段通りの生活をしているだけですから。この星がどうなっても、私たちには関係のないことなのです。私たちは、暗闇さえあれば生きていけるのですから」

「ならば邪魔をしないで下さい。私はこの方を家まで送り届けなければならないのです」

「そういうことならどうぞ、急いで帰って下さい。けれどわかっていませんね。暗闇にいるのは私たちだけではありません。もっと恐ろしい者たちも住んでいるのですよ」

 ミカはその言葉を無視するかのように歩き進めた。まっさらな空間の中、どこを目指せばいいのか僕にはわからなかったけれど、ミカは少しの迷いもなく真っ直ぐに歩き出していた。

「僕の家はここにはないよ。ここは暗闇の中なんだから」

「果たして本当にそうなのでしょうか?」

 僕の言葉に構わず、ミカはどんどん突き進んでいく。

「暗闇の中がこんなに明るいなんて、信じられません」

「それをいうなら、神様がいるなんて、天使がいるなんて、信じられない! 悪魔や妖怪まで存在していた!」

 僕は立ち止り、ミカの背中に大声を投げつけた。

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