第14話


   事件


「その方を放してもらいましょう!」

 そんな声が空から降ってきた。それが誰の声かはすぐに分かったよ。ちょっと前に聞いたばかりの声でもあったしね。綺麗過ぎるほどに透き通った落ち着いた女性の声。この世のものとは思えない、まさに天使の声に相応しいだと思う。

「その方はあなた方がどうのこうのとしていい方ではないのですよ。よろしいですか? その方に怪我でもさせたのなら、あなた方は覚悟を決めなくてはなりません」

 ミカの声に、悪魔たちの足が止まった。僕を掴んでいたその手を離し、その姿勢のまま顔を曲げ、目を上に向け、ミカの姿を眺めていた。ミカは空に浮かび、ゆっくりと地上に降りようとしていたんだよ。

 そんな悪魔たちを、ミカは一人一人を確認するかのようにじっくりと眺めていた。そしてそっと足を地上につけた。そのまま悪魔たちから視線を離さず、地面に背を向けて倒れている僕を引っ張り起こした。

「これは・・・・」

 僕の背中を見て、ミカが絶句した。着ていたシャツがボロボロに破けていた。地肌には小石がいくつも食い込んでいたに違いない。痛みというよりも、違和感がそれを教えてくれた。

「あなた方はとんでもないことをいたしましたよ。これは事件、ですね。覚悟は出来ているのですか?」

 僕の背中に目を向けながらも、横目で悪魔たちを睨んでいた。

「痛かったでしょうね。けれどもう大丈夫です。ほら、痛みが消えたでしょう」

 僕の背中から、違和感が消えていく。直接僕の背中に触れたりはせず、そっと背中の傷に手をかざす。暖かい光のようななにかが肌に染み込んでくるのを感じた。僕の背中が癒される。心が柔らかくなるような感覚だったよ。

「さて、あなた方はどう責任を取るおつもりですか?」

 悪魔たちの黄色い目がぶるぶる震えていた。そしてゆっくりその足を後退させていった。はっきりとミカに対して怯えているよだった。

「そんなに責めなくてもいいですよ。僕は命が無事で家に辿り着けばいいんですから。背中の傷も治ったようだしね」

 僕は背中に手を触れた。そこにあった違和感が消えていたからね。そして一人、驚きの表情を浮かべながらそう言ったんだ。まっさらな綺麗な背中を肌で感じることが出来た。そこに昔からあったはずのイボさえ消えていたからね。まぁ、天使の仕業なんだから当然かとも思っていた。僕の感覚は、完全に麻痺をしていたんだ。

「そうはいかないのです。傷を治したのは私の力です。これはもう、あなただけの問題ではありません。私の問題でもありますし、神様の問題でもあるのです。あなたは危険ですから、後ろに転がっている袋を持って離れていて下さい」

 ミカの言葉を聞き、手から袋が消えていることに気がついた。ミカの背後、数十メートルの所に白い塊が見えた。僕は走ってそこを目指した。無我夢中で、子供たちのおもちゃを守るんだ! そう心の中で叫んでいた。僕の目には、その袋しか映っていなかった。ただ真っ直ぐ、走っていたんだ。途中で何度かなにかに足を躓かせながらもね。

 袋を手に取るとすぐ、中を確認した。三つの人形は傷一つなく笑顔を見せていた。僕の顔にもきっと、そんな笑顔が浮かんでいたのかも知れない。頬が緩んでいく感覚を覚えた。

 袋を胸に抱き締め、ミカへと顔を向けた。ミカの背中が目に入った。そのときだよ。背筋が一瞬にして凍りついたんだ。恐ろしいと感じる暇もないほどだったよ。

 僕はゆっくりと、本当にゆっくりと首を動かした。それが限界だったんだよ。背筋が凍りついていたんだからね。当然といえば当然だよ。ギシギシ音を立てながら首を動かしていた。背後になにがいるか、それは分からなくても、なにかとてつもなく恐ろしいものがいるのは明らかだった。僕はどうしてもそれを確かめずにはいられなかった。興味本位? そんなんじゃないよ。恐怖。それが唯一の理由だった。背後に顔が近づくと、頬に冷気を感じた。思わず首の動きが止まった。ほんの一瞬だったけれどね。首の動きはもう、僕の意思とは関係なくなっていた。止めることも動かすことも、自由なんてなかったんだから。

 僕の目に映ったのは、三匹の死神だった。なんだ・・・・ こんなものに恐怖を? 一瞬だけどそう感じたよ。遠目でだけどずっとそれを見ていたんだからね。けれどすぐにそんなことは忘れてしまったんだけれどね。だってそうだろ? 死神のフードの中から感じる冷たい息。恐怖を感じない方がどうかしているよ。遠目で見るのとはえらい違いなんだ。それに、死神の冷たい息は、僕の顔を吸い込もうとしていた。僕の唇がひょっとこのように伸びていく。

「危ないですよ! 少し距離を保っていて下さい。私がここにいるので悪いことはしませんが、あまりに近づきすぎると自然と吸い込まれてしまいますから」

 ミカの声が僕の耳元に届いた。不思議な声だった。数十メートルも離れているのに、遠くからの大声でなく、普段の会話の声が耳元に聞こえていたんだ。

 僕はその言葉に従い、足を動かした。死神から顔を背けることは出来なかった。顔を後ろに向けたまま、前へと二歩。ひょっとこ顔が消え、冷気も柔らかくなった。

 恐ろしいゴキブリに遭遇したとき、襲われるかも知れないとの恐怖からその吐き気がするほどの恐ろしい姿から目を離せなくなる。どうしてかな? 隙を見せたら襲われる。そう感じてしまう。そんなときの僕は、じっとそいつと睨み合ったまま妻へと助けを求める。けれどそこには妻がいない。その代わりにミカが助けてくれたんだ。

「それでいいのです。そのままそこにいて下さい。なにが起こるかわかりませんから、念のために辺りに気を配っていて下さいね」

 ミカの声がまた、耳元に届いた。僕は死神から目を離し、ミカへと顔を向けた。死神への恐怖は薄れていた。ミカの言葉とその存在がそうさせてくれたんだ。その距離感を保てたこともその理由の一つだけれどね。

 顔を向けた先に、ミカの姿は見えなかった。そこにミカがいる確信はあったけれど、はっきりと見て取ることは出来なかったよ。悪魔たちの姿も見えない。なにかが動き回っている? そんな動きを感じる砂埃が見えていただけだった。

「戦っているの?」

 少し大きめの声を出し、そう言った。それでもミカには届くはずもない。そんなことは分かっていてそうしたんだ。

「えぇそうですよ。そんな大きな声を出さなくても聞こえていますから。言うことを聞かない方たちにはこうする他ないのです。もうすぐで片付きますから、そこを離れないでじっとしていて下さいね」

 僕の声がミカに届いている不思議は、ミカの声が僕に届いているのと同じ理屈だ。それがどんな理屈なのかはわからないけれどね。僕はそう納得している。心の叫びを無闇に口に出してはいけないとも感じた。ミカには、僕の声が全て届いてしまう。もしかしたら、確かめてはいないけれど、ここの声までも聞こえているのかも知れない。

 ミカの戦いは、僕にはどうすることも出来ないことだった。ただ見ているだけの時間が始まった。ミカの言葉通りにじっとしていたのは、そう言われたからでも、恐怖で身動き出来なかったからでもない。ただそうすることしか出来ない。そんなこともあるんだよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る