第8話


   天使の名前


 それからの僕は、天使の背中だけを見つめて走っていたよ。背後で次々と天井が崩れ落ちていく。天使の言葉通り、今にもビル全体が崩れそうだと感じていた。砂埃が再び視界を悪くさせていた。けれどそんなことは、天使には関係がないことのようだった。まるで予知しているかのようにクネクネと避けて走る。

 天使の頭上に、光り輝く輪はなかったけれど、その身体全体から黄金色の光が溢れ出ていた。その光を追いかけていた僕には、視界が良好とまではいえないけれど、足元を確認するくらいは出来ていたよ。

「ここまでくればもう、崩壊に巻き込まれる危険はないでしょう」

「ここまで? ここはまだビルの中じゃないのか?」

 走り出してから数分が過ぎていた。その時間を考えればとっくに外へ出ていてもおかしくはない。けれどそこにはまだ瓦礫の山があり、視界も悪く、とてもそこが外だとは思えなかった。

「ここはもう、ビルの外です。気がつきませんでしたか? だいぶ前からパラパラと落ちてくるコンクリートの欠片もありません。崩れ落ちる心配の天井はここにはありません」

 見上げたからといっても、僕の目にはなにも見えなかった。確かに天井らしきものは見えなかったけれど、外にしては薄暗い。まだ昼前のはずだったんだ。太陽の姿も、雲さえ見て取れなかった。

「ここは本当に外なのかい?」

「この瓦礫は、ビルなどの建物が崩れたせいです。この砂埃も、じきに晴れるでしょう。それまではここにいるのが得策です。埃が晴れれば、後は真っ直ぐ家に帰ればいいだけです。そっちの方角に向かえばいいはずです。道は分かっているでしょう。私の役目はここまでです。それではお気をつけて」

 僕が進むべきだという方向に指をさすと、天使は背中の翼をバサッっと広げ、すぐにも飛び立とうとしていた。

「まだ君の名前を聞いていない。それに、少し君と話がしたいんだ。いいだろ? 景色が晴れるまで、それまででいいんだ」

 僕は慌ててその天使を引き止めにかかったんだ。言葉は冷静だったけれど、心は焦りまくってたよ。よくもそんな台詞が口から出てきたと、自分でもびっくりしていたくらいだからね。とっさん言葉としては、効き目があったようだ。翼を動かしていた天使は、一瞬だけど宙に浮かんでいた。

「私はミカという名です。この国では女性の名前として一般的かもしれませんが、私たちの世界では男性によくつけられ名前です。父がこの国に大変興味を持っていまして、それで女性の私にこの名をつけたのです」

「君の父? それって、神様、っていう意味かい?」

 ミカは宙に浮かんでいた足を下ろし、翼をたたんだ。そしてまた、僕に向かって素敵な笑顔を見せてくれた。どんな環境にいても、何度観ても心が弾む笑顔なんだ。

「そういうことになりますね。全ての父は、神であるあのお方だけですから」

 ミカのそんな言葉の意味を深く考えたりはしなかったよ。それってつまらないし、無意味だからね。

「神様は、この事態をどう考えているんだい? これはいったいなにが起きたというんだい? ただの地震なら、天使が現れるはずもない。それに僕には信じられない。これが自然の力だなんて、あまりにも残酷すぎる」

 ときに自然が人間の想像力以上に残酷だってことは知っているつもりでいたよ。けれどそれは、映画やニュース映像でそう感じていただけで、あまりにもなこの現実を目の当たりにすると、とても自然現象だなんて考えは出来なくなるもんなんだ。神様の仕業? そんな発想をする人間は僕だけじゃないはずだ。

「あなたには全てを話すべきなのでしょう。神様もきっと、そうお考えだと思います」

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