第三章「椅子(二)」

(一)


皇族以外の人間に皇位継承順位がつくこと。これは現代皇室典範において重大な罪とされている。年々皇族の数が減って行く中で、この国の宮付きが考え出したのが、許嫁という制度だった。

皇族と結婚できる家柄は、ほぼほぼ決まっている。皇族で従兄弟の関係にあるもの、または旧財閥の血筋であるもの、もしくは旧宮家と血縁が近いもの。そういった具合だ。言い方は悪いが、非公式のデータベースのようなものが皇族の中にはあり、その中から一番相応しいであろう人間が、皇位継承順位を付けられる対象者には宛がわれる。しかしながら許嫁が決まっても、結婚するまでの自由恋愛は黙秘されていた。それに対する条件はただ一つ。


婚外子を作らないこと。

 



 父親が外国の血をひいている、ということ以外は、平凡な家庭に天沢月子は生まれた。月子、という古風な名前でありながら、彼女は東洋人離れした顔立ちと、並外れた頭脳を持っていた。それでいて飾り気のない、至極まっすぐな性格。イメージを上書きする儚げな容貌。そんな彼女に惹かれる者は多くいた。

 そして『彼』も例外ではなかった。

「つきこさん、」と舌足らずな声で、彼は月子のことを呼んだ。その目は、熱い炎を宿しながら、真っ直ぐに彼女を欲していたのだった。月子は見事にその炎に燻られ、あっという間に彼の手中に堕ちた。この国が持つ独特の、湿気と淀んだ空気の中で、彼は月子の柔らかな肌をむさぼった。そして、彼は彼女の中にひとつの命を落としてしまった。今となってはもう、それが故意だったのか、偶然の出来事だったのかはわからない。

けれども、月子は彼と一緒になる事はできなかった。彼は、この国で一番大事にされている椅子に座らなければならず、その義務にふさわしい許嫁がいたのだ。

それでも、と彼は彼女にひとつの贈り物をした。


それは、ジャワジャワとアブラゼミが鳴く、とても暑い日のことだった。

「あなたに、一番よく似合う花ですよ」と言いながら、その男性は、目の前の麗しい女性に真っ黒な着物を差し出した。上品な黒。めくれば現れる完璧な白い円。そして、その円に鎮座するのは、全てが同じ大きさの、真っ白な花弁。


一緒になることが許されぬならば、せめて、形だけでも。


男はそう言って跪き、女の手の甲に口づけをすれば、女は声を殺して泣いた。


(二)


 唯の頭から、幹が言った言葉が離れることはなかった。自分の中に流れている血。遺伝子のもつその情報が、彼が言う『椅子』を取り戻すきっかけになるのだろうか。そんな中で、彼の頭に思い浮かんだのは、母が亡きあと自分を支えてくれた祖母の顔だった。

 もしかすると、彼女ならば、自分がどのような経緯で誕生したのか知っているのではないだろうか。自分がこの世に生まれてきた意味を、知っているのではないだろうか。

 そんなことを考えながらも、唯は心のどこかで、「自分自身の存在が、何の意味もないこと」を彼女だけは知っているのではないか、と信じていた。どうか、幹が言っていたことが嘘であるようにと願っていた。どうか、自分があの「椅子」にすわる権利を持っていないことを、祖母が証明してくれると信じていた。

 そのような期待を持って、唯は母親が生まれた家へ赴いた。

「ああ、どうしたんだい、急に」

シワが目立つようになってきた祖母は、笑顔で唯を迎え入れた。幼いころと変わらない風景がそこには広がっている。土間に腰かけ、来る途中にかいてしまった汗を手渡されたタオルでぬぐう。玄関からまっすぐにのびた廊下は、奥にある広い庭へと続いている。遠くに見える緑が日光に照らされてまぶしい。

「早く、おあがりよ。暑かっただろう?」

「うん……」

玄関に飾られた写真は、幼い日の唯と母親が映っていた。真っ白い肌、栗色の髪、そして東洋人離れした顔立ち。あの男と何一つ似ていない、自分の顔。

「……なんだい、急に写真なんて見つめて。月子が懐かしくなったのかい?」

「うん。なんか。母さんは本当にいたのかなぁって、」

仮にも二十年近く一緒に暮らした女性。それでもどこか、唯の中で母親という存在は腑に落ちていなかった。

 浮世離れした容貌。彼女が大切にしていた真黒な着物。白い花紋様。

 自分は、母と過ごした数十年、もしかしたらどこか違う世界にいたのではないだろうか。

「そりゃぁ、いたよ。あんただって、つい最近まで一緒だっただろう?」

祖母は不思議そうな顔をしながら、唯に早く居間に入るよう言った。彼女にとってはたった一人の娘だ。自分よりも長く、唯の母親である月子と一緒にいた人だ。祖母の中の娘である月子と、自分の中の母親である月子との意味の違いを、唯はぼんやりとではあるが感じていた。

「うん。そうだね……」

しっかりと芯をもっていた彼女は、未練のひとつも残さずに亡くなった。ただひとつ、彼女が持っていた着物を除いては。

 祖母の言うとおりに、まだ脱いでいなかった靴を脱いで小上がりにあがる。庭に続く、短くはない廊下を歩いていると、真夏日ではあったが心地よい風が吹いてきた。庭にある木々がざわめく音がする。


『ねぇ、唯、これは、あなたの存在を証明する、宝物なの』


その風に交じって、母親の声が、聞こえた気がした。



「ばあちゃんに、聴きたいことがあって、」

唯は、居間の机に座って、祖母と面と向かって話した。カランと氷が音を立てて麦茶に溶ける。祖母は、日本に駐在していた外国人兵士との間に子どもを産んだ。それが月子だった。月子は、父方の血を濃く受け継いでおり、東洋人離れした風貌をしていた。そう、唯と同じ様に。

「なんだい、改まって」

お気に入りの茶色いせんべいを口に含みながら、祖母は柔らかく笑った。

「……母さんのこと、で」

「ああ、月子のことかい?なんだい。ようやく思い出の一つでもわたしと話す気になったのかい」

おだやかに、目じりにしわを寄せながら祖母は笑った。その顔を見ながら、唯は一瞬、幹から聴いた話を話題に出すことをためらった。よくよく考えてみれば、母親が亡くなってから、暗黙の了解のごとく母親との話題は祖母との会話の中に上げられなくなったし、それがタブーであるかのように、どちらも月子の話題を避けていたのである。

このことは、本当に触れてもいいことなのだろうか。

このまま、忘れたふりをして、母親の思い出を穏やかに話すほうがいいのではないか。

唯は葛藤する。自分は果たしてその「椅子」について話してもよい人間なのだろうか。その資格があるのだろうか。

(でも、はっきりさせなければ)

 さして分泌されていない唾を飲み込み、唯は祖母に言った。

「母さんの……黒い……着物のことで」

言った瞬間、祖母の顔が凍りついた。ざっと血の気がひいた気がした。

「どうして、今さらそんなことを聴くの?」

震えた声。先ほどまで手元にあった煎餅は机の上に落ちてしまっていた。でも口を吐いて出た言葉はもう覆らない。唯は極力平静を保ちながら言葉を続けた。

「……父さんの、息子だっていう人と、会ったんだ。言ってなかったかもしれないけど……実は俺、たった一度だけ、母さんの葬式で父さんと会ってるんだけど……。その人、まるで、父さんの、生き写しで……」

「……」

祖母は俯いてこちらを見ようとしない。どうか否定してほしい。自分がただの人間であると。かつて神であった一族の末裔ではないと。そう言ってほしい。認めてほしい。

自分は、ただの人間であると。

「……ねぇ、ばあちゃん。俺は、ただの人、だよね?」


最後の希望だった。自分は何の変哲もない人間だ。


そう認めてほしかった。


 すう、と息を吸う音がして、蚊のなくような声で、祖母が言う。

「……あなたの、おとうさんは……」

(三)


 蝉が鳴き喚く、暑い夏の日のことであった。


 唯が祖母の家を訪問してからしばらくして、祖母が倒れたと連絡が入った。もともといい年だったし、この夏の暑さで参ってしまったのだろう。ほどなくして、彼女は息を引き取った。

 葬儀は近親者だけでしめやかに行われた。その日も、母の葬儀と同じ様に蝉が大声で鳴いていて、雲ひとつない晴れた空だった。火葬場に彼女が運ばれ、娘と同じ様に焼かれている最中、唯は泣くでもなく、じっと登っていく白い煙を見ていた。

 カツン、と火葬場のアスファルトを叩く革靴の音がした。振り向くと、仕立てのよいブラックスーツを着た幹が、そこに立っている。

「唯……これでもう未練はなくなったか……」

「何を?」

火葬場の一番煙がよく見える場所で、唯は空に昇って行く煙を見続ける。ようやくあの子のところに行けるね、薄れゆく意識の中にいる祖母が呟いた言葉。

 それは、唯と祖母との絶縁も意味していた。

「聴いたんだろう。彼女に。自分の父親が誰なのか」

「……そう、だけど」

 幹は唯を見ながら何やら独り言を言うと、東宮儀桓が天沢唯に着物を差し出した風景を再現するがごとく唯の眼の前に跪き、真っ黒な軍服を差し出した。漆黒の、上質な布。恐らく、幹が今着ているブラックスーツと同じ布地だ。そして、そこには完璧な円が鎮座していた。全てが同じ大きさの真っ白な花を蓄えて。

「……どうか、俺の願いをかなえてくれないか」

言って、幹は床に正座し首を垂れた。



『あなたのおとうさんは、誇り高きこの国の王。そして、あなたのお母さんのために自分の家族を捨てた最低の男』


 幹が漆黒の軍服を差し出した時、そう言った祖母の顔が、脳裏によみがえってきた。母親は、どういう気持ちでこの紋様を受け取ったのだろう。自分は公には出られない存在だというのに。それでも、彼はこの花を母親に差し出した。「唯一の証」として。その後、その息子が、家族が、そして月子が、どのような気持ちになるのかも考えることなく。ただ自分のために。

「……ああ。そうだ。未練なんて、ない。お前の人生と、俺の人生を、利己的な考えでめちゃくちゃにした東宮儀桓。そして東宮家を追放し王座に座る西宮恵基。全てを破壊して俺たちで再生してみようじゃないか、この国をな」

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。これが因果なのか。天沢月子が、東宮儀桓が、同じ大学に行かなければ。彼らが出会わなければ。そして、自分とこの目の前にいる人物が出会いさえしなければ。東宮楓幹という名を奪われた、東山幹がこんなことを思いつかなければ。東宮家が追放されなければ。様々な「たら」と「れば」が頭の中をめぐって、一点に堕ちた。


 椅子を奪還する。

 東宮儀桓によって世界を破壊された、二人の男の存在意義を知らしめるために。


 跪いたままの幹の手から軍服を受け取り、まじまじとその刺繍を見る。それが唯に言葉を投げかけることは、もう二度とないだろう。

(俺の存在は是であり、善であり、否ではなく悪でもないのだから)

「唯、」

答えは一つしかない。決まっている。もう後戻りはできないのだ。誇り高きこの国の、先代天皇家当主が唱えたただ一つのわがままである呪いによって、狂ってしまった世界を取り戻さなくてはいけない。そして、唯を止められたはずの祖母さえも、この世からいなくなってしまった。


もう自分には、失うものも枷も何もないのだ。


「……わかった」

その何かを決心したような唯の声が、わずかに幹の耳に届いた。

「ありがとう……」

そして首を垂れたまま、幹は絞りだすように返事をした。




そして、世界の歯車は回りだすのだ。

すこしずつ。すこしずつ。わずかに、傾きながら。


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