第二章「椅子(一)」
(一)
天皇家を遡れば、そこに女性天皇は存在するが女系天皇は存在しない。この国の人々が頑なに天皇家を崇めるのは、性染色体Y遺伝子が体現として現れているからだ。男性のみを辿れば、天皇家の祖先は必ず一つの答えにたどり着く。
それが須佐之男命であり、伊弉諾尊である。だから天皇家は神として崇められているのだ。
ただ、この国で天皇家が神から人間に堕ちてしまうことがある。人々にとっては神だが、天皇にとって同じ宮中の神は崇めるべき対象ではない。王位を継承するために起こる争いを、彼らは平民の間で起こる主導権争いと同様に行っている。人間の争いを牽制するための法律や条約が存在するように、天皇家は天皇家を統治するための『現代皇室典範』と呼ばれる明文化された規律が存在した。そして、現代皇室典範には次のような項目がある。
“天皇家の追放について”
そして、天皇家の追放について、現代皇室典範は次のように規定する。
“天皇家は当代党首を筆頭とした組織を形成し、そしてその組織は現代皇室典範に違反した天皇家を追放することができる。”
“天皇家追放に関しては以下の点を満たすことを条件とする。
一、明確な典範違反を犯していること。
一、明確な証拠があること。
一、当代当主が起案し、違反者以外の全員の同意が得られていること。”
“ただし、当代当主を追放する場合は、国会議員全員の承認を必要とする。”
コンコンコン、と木製のハンマーが鳴る。上等な燕尾服を着た男性が壇上に立ち、円城の会議所全てを埋め尽くす、様々な年齢の様々な様相をした人々に告げる。
「いま、ここにいる全ての国会議員の承認をもって、当代天皇、東宮(ひがしのみや)家当代当主東宮(ひがしのみや)儀桓(ぎかん)の追放を承認する」
その声を合図に、壁に埋め込まれた液晶画面には『可決』の文字が躍る。これは即ち、当代天皇が、国民の手によって選ばれた人間によって神から人間に落とされたことを意味する。
天皇家が始まり、現代皇室典範が規定されて以来、初めての出来事であった。
(二)
『これは、貴方の存在を証明するただ一つのものなの』
母親はそう言いながら、息子の前に一枚の着物を差し出した。一般人が到底買うことができないであろう布に、丁寧に刺繍された大きさが等しい花弁が円を成す花の紋様。
紋様が意味することを、幼い息子は知ることができなかった。
アスファルトが太陽の光を照り返してまぶしい。都内にある国立大学の大学院に通う天沢(あまさわ)唯(ゆい)は、その照り返しの中を、汗をかきながら歩いている。けだるい顔に活気は全くない。白い肌、透き通った鼻筋。栗色の毛は、東洋人のものではなかった。
「……あっちぃ」
アカデミックな雰囲気の建物が並ぶ中にはたくさんの学生が歩き、立ち止まり、座ったり、話したり、もの食べたりしている。すれ違った女生徒のキーの高い笑い声が脳天をつく。カツンカツンというヒールの音が、目の前を歩く男のスニーカーからこぼれる蛍光色が、どうにも気になって仕方ない。そうしている間にも、右手に持っている紙束には手汗が滲む。先ほど行った実験の結果である膨大なデータが書かれている紙束だ。アナログな機械は、分析結果をインクと針で薄い紙にグラフで書きつける。彼は、それを見るのが好きだった。
長いこと研究室にこもっていたからだろうか。強い日差しに目がくらむ。少しは外に出ろと言う、教授と友人の声が頭の中に木霊した。
しかし、それを考えても眩暈が治まるわけでもない。少し休もうとベンチに向かいながら目をつむった瞬間、ドン、という音がした。
「え、」
見上げると、こちらを向いて歩いていた男にぶつかったようだった。茶色の皮靴はいかにも品がよさそうで、白色のコットンのカッターシャツはまくりあげられ一番上のボタンはラフに外されている。片手には有名メーカーの鞄。
(金持ちのボンボンが国公立大学に来んなよな)
唯が毒づいたのを見透かしたのか、男はポカンとした顔で唯を見つける。そしてハッとしたように、目が見開かれた。
「あ、すいません、」
ぶつかったものは仕方がない。個人的なひがみをぶつけても徒労に終わるだけだ。唯はそう判断して、さっさと謝って去ろうと体の向きを変えようとしたが、男の声がそれを止めた。
「あ、いいよ、大丈夫」
思ったよりも低い声は、どこかで聴いたことのある声だった。知り合いかもしれないと、よくよく顔を見ようとしたが、男の顔は逆光でまるで見えない。けれど微かに見える風貌は、どこかで見たことがあるような気がした。
(どこで会ったのだろう)
その声で、その慈しみあふれる笑顔で、いつか、どこかで、自分になぐさめの言葉を掛けられた気がする。
もやの中に隠れてしまった記憶が、出てきそうで出てこない。
あの、と声を出そうとして息を吸い込んだ。それを図ったように、革靴の男は彼を見て笑った。
「また、どこかで」
男はそう言うと、再び歩き始めた。
唯は、それをぼんやりと眺めていた。規則正しい靴音に会わせて、記憶が遠ざかる音がする。
蝉の声が、彼の耳をつらぬいた。
天沢唯は、気付くと父親がいなかった。彼のそばには、東洋人離れした顔の母親がいて、この国独特の食事を摂っている風景ばかりが脳裏に焼き付いている。そして、どうしたことか、天沢の家が餓えることはなかった。母親がどこかの悲劇のヒロインのごとく、死ぬもの狂いで働いている様子もなければ借金に追われている様子もなかった。家は貧乏臭くないほどにこぎれいにされており、天沢唯自身も自らが裕福だと感じたことも極貧だと感じたこともなかった。そんな環境の中で、天沢唯は普通の子どもと同じ様に育ち、特段苦労せず、有名大学へ進んだ。
無論、それは彼の持つ天才的な頭脳の賜物でもあった。
工学の、とりわけ通信関係の研究者の卵として、彼は勉学にいそしんだ。華やかな空気を好まず、人と戯れることもなく、彼は教室の真ん中で黙々とノートを取り続け、研究室では熱心に実験を続けた。鮮やかな栗色の髪、白い肌、東洋人とは思えない顔のつくり、そしてその明晰な頭脳に近づいてくる人間は数多くいたが、彼は大半を拒絶し続けた。ミーハーな言葉と行動で近づいてくる人間は、大体の場合自分の皮しか見ていない。深く腹の底を明かして、失望されるのが関の山だというのが、幼少期から現在までに得た世渡りの知恵だった。
しかし、それが彼が周囲を拒絶する根本的な理由ではなかった。
自分と彼らが、違う世界に生きる生き物のような気がしたのだ。
自分と、周りの人間はどこか違うような、そんな気がしていたのだ。
人間の生得的機能は俗に本能と呼ばれるが、そこには嫌悪等の感情も含まれるという。しかしながら、唯はこの感情が生得的機能からもたらされるものなのか、家庭環境からもたらされるものなのか分からなかった。
彼の家は母子家庭であった。優しい祖母と、母親によって唯は育てられた。唯の母親は質素を好むわけでも、華やかなものに執着するわけでもなかったが、とりわけ、どこからか貰ってきた着物を大切にしていた。黒地に白の糸で纏ってある花。そして、その花弁は全て同じ大きさだった。花弁の頂点は滑らかな曲線で結ばれ、遠くから見ると大きな華やかさを持つ完全な円に見えた。そして、母親は丁寧に着物を押し入れに仕舞いこみ、年に一度、クリーニングへ出す時にうっそりとした目でそれを眺めるのだ。一方で、年に一回というその機会に、唯は黒い着物を直視することはなかった。
吸い込まれるような気がしたのだ。
その着物の黒に、白い糸で縫われた花の、その中心に。
「お母さんは、それが、大切なんだね」
いつの年だったか、何の気になしに言った一言だった。母親は、その言葉に少しだけ目を瞠って答える。
「そうよ」
彼女は、その着物をかかえこみながら、彼が幼いころから見てきた、とてもきれいな笑顔を見せた。
「これはね、あなたを証明する、宝物なの」
(なぜ?)
なぜその着物が宝物なのか。鮮やかでもない刺繍。品のよい黒。清潔感のある白糸。その花はまるで何かを象徴するシンボルマークによく似ていた。
「……お葬式みたい」
唯が思わずつぶやいた言葉に、母親は目を見開いて固まった。しかし、一瞬の間の後、彼女は、また歯を見せて笑い、そして言うのである。
「あなたにとってはお葬式だと思うかもしれないけれど、私にとっては、大事な出会いの証なの」
彼女はそう言うと、丁重にその着物を仕舞った。
それからというもの、唯はその着物に鎮座する、全ての花弁の大きさが等しい花紋様がどうしても歪んで見えた。「存在を証明する宝物」と母親から聴かされていた着物。だが唯は納得できなかった。そして、その唯に追い打ちをかけるように、白い花は語りかけるのだ。
「お前の存在は否」と。
「お前の存在は是」と。
「お前の存在は悪」と。
「お前の存在は善」と。
母親の言葉の意味を図りかねるまま、着物が自らに語りかける言葉の意味も不明瞭なまま、唯は二十二歳の誕生日を迎えた。焼けつくような日差しは全く衰えることを知らず、唯は猛暑から逃避するように延々と研究室で針とインクが描き出すデータを眺めていた。なめらかに動く針が描く、なめらかで美しい曲線を。
「……おかしいな」
その日の針が描く曲線は自分の思い描いていた結果とはちがっていた。データが紙の上で踊る。おかしい、こんな結果になる筈ではない。暑さで機械がおかしくなってしまったのかもしれない。そう思いながら、唯はもうこれ以上はやっていられないと、計器の電源を落とす準備を始めた。
「天沢、」
ふいに、聞きなれた教授の声がした。先ほどのようにグラフの線を眺めている時、彼はよく教授や友人の豊(とよ)木(き)に呼びとめられ叱咤されるのだ。また心配されるのか、と唯は若干心得た気持ちで振り向いた。しかし教授の口から出た言葉は、いつものそれではなかった。
「新入りだ。よくしてやれ」
教授が指し示す先にいた者。どこかで見たような革靴。育ちのよさそうな服装。有名ブランドの鞄。
「……あ、」
「本日から、ここの配属になった、東山(ひがしやま)幹(みき)、と申します。よろしくお願いします」
頭を下げた男の声。妙に低い声。どこで聴いたのだろう。どこで見たのだろう。その時は革靴でも、白いコットンシャツでもなかった。フラッシュバックよろしく頭が真っ白になって視界がゆがみ、眉間に皺が寄るのがわかった。
「……あ、あまさわ、ゆい、です。よろしくお願いします」
だが、挨拶がてらうつむいた双方が、お互いの表情を知ることはなかった。
「じゃぁ、天沢、東山にあれやこれや教えてやってくれるか。一応、天沢とは同じくらいの歳だからな」
「あ、はい」
「東山は、天沢の言うことをよく聴いて勉強するんだぞ。こんな優秀なやつ、いつ海外に取られるかわかったもんじゃないからな」
ケタケタと笑いながら、教授は実験室を出て行った。
「よろしくお願いしますね」
東山はそう言うと唯に手を差し出した。唯は誘われるままに手を伸ばす。どこかで見たような、どこかで感じたような感触がする。そして全身が警告する。
この男の言葉を聴いてはいけない。
「……どうかしましたか?」
「いや、なんでも、な、い」
外で鳴く蝉がうるさい。そういえば母親が死んだ日も、蝉がうるさかった。母親は数年前に持病を煩わせて死んだ。母子家庭では到底通えないと思われる一流の病院に通い、個室に入院し、そこで息をひきとった。病院の設備は他よりも先を行っていたのかもしれないが、医者は医者だったし、病院は病院で、看護師は看護師だった。病気も病気そのものだった。
ただ、彼女は最期まで彼女だった。母親だった。
たった一つの秘密だけを仕舞いこんでいる、それ以外は。
母親は豪華な葬式を望むことはなく、密葬という形で、唯の知っている母親の友人や、母方の親族のみで荼毘に付された。煙は綺麗に上り、雲ひとつない晴れ間に消えていった。アブラゼミが、ジャワジャワとうるさかった記憶だけがある。
『ああ、これは、これは、』
誰かがそう言った。その先には、真っ黒な服を着た男が立っていた。その男は小さく会釈をし、煙に向かってふかぶかと頭を下げる。
『残念なことになりまして……会わせる顔もなかろうと……面会も断っておりました……』
別の誰かがそう言った。
『それは……彼女ならば仕方のないことです……』
そう言った男の顔が思い出せない。
(あれは、誰……)
「どうか、しましたか?天沢さん?」
「っ、いや、なんでもない…」
そうですか、という言葉と共に、にやりと笑った東山の顔が、どうにも頭に焼き付いて離れなかった。
(三)
科学者たち。世界を作ったものたち。数学者たち。物理学者たち。生物学者たち。数々の学者たち。
「我々も世界を作っているのでしょうか」
唯の数少ない友人の一人である豊木が、前触れもなくそんな言葉を口にしたことがある。
「世界というのは概念でしかない」
「はぁ?」
教授は顎を指で撫でながら、間抜けな声を出した豊木の顔を見やる。少しだけ口角を上げて笑ってから、彼は言葉を続けた。
「……そうだな。人々は目に見えているものが世界なんだ。例えば、お前の横に座った女子学生。その女子学生の世界……すなわち、価値判断を決める基準であったり、情報源であったり、交流の術であったりが、たった一つの端末デバイスでしかなり立っていないとした時。そこに我々の成果が反映されていないとしたら」
はっとした顔で豊木は教授の顔を見やる。
「人々が見える世界に我々科学者たちの技術が反映されていなければ、女子大生は世界が変わったとは思えない」
例え、根底に科学者たちの力があったとしても。
唯は後進の指導があまり得意ではない。というよりも、進んで受けることはまずなかった。豊木が辛うじて彼の友人であるのは、彼が唯の入って来てほしいところと入ってきて欲しくないところを理解しているからだ。ものを教えるということは、時として相手の懐に入ることを余儀なくされる。
彼は徹底的にそれを避けたかった。
「……天沢さん?」
「え、あっ……なんだ?」
幹の学士論文を見直しながら、唯は上の空だった。どうしてこうなってしまったのか。唯が師事している教授は世界的にも有名な電子通信学の学者で、その下で研究がしたくてこの大学に入った面も大きかった。教授自身も唯の性質を理解し、大学院に上がってからも、彼は唯の下に学生をつけることをしなかった。
だというのに。
幹は都内の違う大学から来た外部生らしいとは豊木から聴いた情報だ。唯は個人的な事情を聴いたり、訊かれることを好まない。よくある「出身地はどこなのか」「好きな食べ物はなにか」といった質問でさえ苦手としているのだから、出身大学がどこなのか訊けるわけもなかった。その性質が、彼の異質さを助長していたといっても過言ではないのだが。
「論文はよく出来ていると思う。学会で聴いたことがないのが不思議なくらいだ」
素直な感想を口に出せば、眼の前の男の顔がゆがんだ。瞬間、つ、と背筋を冷たいものが走る。
「本当にあなたは……世界に関心がないんですねぇ」
「は?」
呆れたように吐かれた台詞に、唯は唖然として立ちすくむ。幹はゆっくりと口角を上げて、唯を見下ろす。少しばかり高い背より発せられる、何かを値踏みするような視線。自信に満ちた、どこかで自分が一番であると過信しているような、あの「笑み」。
(俺は、どこで、この男と会ったのだろう?)
かしゃん、と胸ポケットに入れていたペンが落ちた。幹はすぐに表情を戻してそれを拾い上げると唯に手渡す。
「……天沢さん、疲れていますか?」
「い、いや、べつ……に」
疲れているわけではなかった。ただ、あの顔が焼き付いて離れない。あの、自信に満ちた笑みが。あの蝉が鳴き喚く火葬場で会った男の声が。あの光景が。あの言葉が。幹の顔を見る度に脳裏をよぎるのだ。
「休憩しましょうか」
「えっ、いや。まだ、大丈夫、だよ」
「でも。天沢さん、『疲れていたら、効率がわるくなるから寝るんだ』とか言うのが口癖なんでしょ?豊木さんから聴きましたよ」
そういえば、そんなことを言ったような気もする。いかんせん口の軽い豊木に唯は内心呆れ果てる。確かに、唯は睡眠が不足することを最も苦手とする。食事が三食取れないのはもっとつらいかもしれない。しかし、今欲しているのは休憩ではなかった。ともかく「この男」と離れたかった。自分の中に潜むトリガーを引こうとしている気配のする、この東山幹という男から逃れたかった。思い出せそうで、思い出せない、あの「笑み」を浮かべるこの男から。
もしかすると、この感覚は自分に絶対的な自信がない唯の嫉妬かもしれなかった。今まで他者と一線を画すことで保っていた自己の優位性が、コミュニケーション能力においても、研究に対する姿勢と成果においても自分より優っているのだろうこの男が羨ましいだけなのかもしれなかった。
だが、決してそれではないだろうと本能が警告する。自らの生得的機能が警告する。
「この男は危険である」と。
「この男は開錠する」と。
「この男は扇動者である」と。
「この男は鍵である」と。
幹と話す度に、その声を聞く度に、その顔をみる度に唯は、決定的な「何か」を思い出しそうになるのであった。自分の存在に関わる「鍵」を。
記憶を辿る中で、どうしてもたどり着くのは自らの母親の葬式だった。
数年前に自らが喪主として執り行った母親の葬儀。青空に舞った白煙。その中で、ひときわ深い黒の礼服を着たあの男。顔こそ皺が刻まれ、若いとはいえなかったが、品がよく穏やかな声をしていた。そして、その笑顔、声、表情の作り方、その立ち振る舞いが、どうしても、幹と重なって離れない
「ねぇ、天沢さん。何か、考えているでしょう?」
東山は装置にカバーをかぶせながら、落ち着き払ったいつも通りの声で、唯に語りかける。唯の背筋を冷たいものが再び走った。彼が一つずつ機材の電源を落とす度に、逃げ場が失われていくのが直感的に分かった。幹は、物理的にではなく精神的に、ゆっくりと唯を追い詰めていっているのだ。
記憶の糸をこれ以上辿らせないでくれ、と叫びたかった。
ただ、それを幹の視線が妨害するのである。
逃げたいと思っているのに。出口はすぐそこだというのに。体が動かない。心が焦っているのに、動こうと思わない。否、思えない。時間の流れが止まったかのような感覚。速くなる鼓動、キンとした耳鳴り、額ににじむ脂汗、それぞれを知覚する度に視界が狭くなっていく。
(なぜだ)
唯は、冷や汗を滲ませながら自分に問うた。なぜ、動こうとしない。今逃げなければ、話を遮らなければ、自分は狩られてしまう。殺人犯と遭遇したような気分になる。
(どうして)
今狩られてしまえば、今この男に決定的な何かを言われてしまったら。自分はこの男から逃げられなくなるだろう。精神的にも、物理的にも。この男は知っている。唯が逃げられなくなる何かを知っている。そして、唯を利用しようとしている。鎖でつなぎとめて利用しようとしている。
(どうして)
もしかしたら自分は、幹が知っている「何か」が何か知りたいのかもしれない。自分が心の奥底で疑問に思っている「何か」を、この男は知っているのかもしれない。もし、それがこの場で分かるというのならば、自分はここを離れる必要はない。
(そう、か?)
「……!?」
急に幹の顔が近付いてきて、唯はビクリとはねた。切れ長の漆黒の目がこちらを見ている。
「何か、気づいたことがあるんでしょう?」
最後の計器の電源を落とし、幹はそう言った。ひっ、と唯のどが鳴った。くらくらする頭に、幹は更に言葉を投げつける。
「俺は何も知らない、気づいてない」
唯の僅かに上ずった声に、幹は口角だけを上げて答える。
「……いいや。知っているはずだ。あなたは、俺のことを。正しくは、俺が何者であるのかということを」
「……お前のこと、なんて」
知らない、と言いきろうとした言葉に、幹が追い打ちをかける。
「知ってるんでしょう? 見たことがあるんでしょう? あなたは、俺を。そして、あなたの父親が、誰なのか……もう分かっているはずだ。その頭の中ではね」
幹は、確かにそう言った。
(四)
謎解きゲームを始めましょうか、と幹は言うと、パソコン端末の傍にあったアームチェアに深く座り込んだ。全ての計器の電源が落とされた実験室は、いつもよりも薄暗く感じられ、流れる空気もわずかながら質量を増していた。
(今、誰か入ってきたらいいのに)
唯の頭の中では未だ警告アラームが鳴っていた。この男の話を聞いてはならない。この男の声を聴いてはいけない。
(しかし、この男は知っている)
もう一人の自分が囁く声がする。今まで母親の着物を見る度に、お前の存在は否と語りかけてきたあの自分が顔を出す。訊きたくても聴けなかった自分の出自。その答えを欲する悪魔だった。
「どこから始めましょうか?」
固まってしまった唯を見ながら、幹は「ああ、コーヒーでも煎れましょうか」などと暢気なことと言い出し、思わず唯は馬鹿にされたような気になってそっぽを向いた。アームチェアから腰を上げた幹は、作りつけの棚から挽いた豆を出して手慣れた様子でドリッパーに粉を放り込み、電気ポットから湯を注ぐ。コーヒー豆の豊かな香りが鼻腔をついたが、唯の頭の中では自問自答の声がやまない。
(この男は、いったい何を知っているというのだろうか)
(彼は、何を語るというのだろうか)
そのような疑問ばかりが頭の中で反響する。二人分のブラックコーヒーを入れ終わった幹が、再びアームチェアに座り、眼の前に立つ唯の傍にマグカップを置く。
「……あなたは、ご両親がいないそうですね。長いこと母子家庭だった、と。その母親も数年前に亡くなっておられる」
「そう……だけど、」
なぜ知っているのだ、という言葉は、再び幹に阻まれる。
「では、あなたは、いわゆる『おとうさん』と呼ばれる人に会ったことはありますか?」
隠喩的な物言いだった。おそらくは、唯の母親が再婚していた場合のことを見越してだろう。しかし、唯の母親は再婚することはなく生涯を終えた。ましてや、恋人の話も、好きな男性の話も、唯が物心ついてから母親が亡くなるまで、きいたことはなかった。
「ない、けど、それがどうか、」
「では、自分の『遺伝子上の父親』が誰か知っていますか?」
「は……」
「あなたの母親が、誰と寝て、あなたを孕み、生んだのかを知っていますか、と訊いているんです」
あっさりと言い放つ幹に、唯は思わず嫌悪感を示す。
「……そんな、えげつのない言い方、しなくても……」
キン、という耳鳴りがする。その瞬間、頭に描かれたのは、幼い日に母親に尋ねた何の気のない疑問だった。
”ねぇ。おかあさん。ぼくのおとうさんは、どんな人だったの?”
”そうね。あなたのおとうさんは、とても、とても素敵な人だったわ”
唯の母親は郊外の一般家庭に生まれた。父親が外国の血をひいていることを除いては、特に裕福でも貧しいわけでもない。当時流行だった「中流」という言葉に丁度当てはまるような、そんな家庭だった。彼女は平凡な家庭で、平凡に育ち、そして世間敵には上流とされる大学に進学した。その大学に在学している時に出会ったのが、あの「菊の花」を家紋にもつ男だった。
「東宮、という家を知っているか」
「ひがし、のみや……」
「東宮、西宮(にしのみや)、南宮(みなみのみや)、北宮(きたのみや)。この四つの宮家で構成されている、この国に存在する一族の話だ」
いつの間にか敬語が失われた幹にそこまで言われ、唯は血の気が引くのを感じていた。東西南北の四つの家系で構成される一族なんてものは、この国では一つしか存在しない。
天皇家。
この国の象徴であり、かつては神と等しかった血筋。
「東西南北の四つの家から構成される天皇家の継承順序は、それぞれ東宮家、西宮家、南宮家、北宮家の順番だ。東宮家が本家であって、その他は分家のような扱いを受けていた。今から話す男は東宮家の長男で、当時、彼は天皇の皇位継承順位第一位にいた。その次が西宮家長男、西宮(にしのみや)恵基(けいき)だ。通常、皇位継承順位を与えられた者は、満十八歳を迎えた時に許嫁をつけるというのがこの国の天皇家の習わしとしてあった。この話からいくと、もちろん彼には許嫁がいたんだ。でも、大学で出会った一人の女がその運命を変えてしまった。外国の血が混じった彼女の顔は誰が見ても麗しかったと伝え聴いている。彼もその美貌には勝てなかったんだろう。二人は交際を始めてしまったんだ……」
唯は、無意識に思考を止めようと試みた。この国で、一番血の流れを重んじる一族。どうしてその家の話を自分が聴いているのか。その結末を聴いてどうなるのか。
血の気がひいていく唯を気にも留めず、幹は淡々と話を続ける。
「男は、その女と交際するようになり、女に子どもを孕ませてしまった。自らには許嫁がいたというのにな。……女は男の家の事情を鑑み、子どもをおろすことを望んだが、男はそれを望まなかった。それを受け入れて、女は男児を生んだ」
“唯、これはね、あなたをとても大事にしているひとのところへ贈る写真なの”
「写真を男に送ること。それが、彼女が望んだ唯一のことだ。そしてその見返りに、男は女に金銭的な援助を約束する」
幼すぎて涙が出そうなくらい馬鹿げた話だ、と幹は嘲笑しながらやや冷めたコーヒーを啜る。
「女は写真を撮り続け、男は金銭の世話をし続けた。これを知るのは、その家でも一部の人間だけだ。その間に、男は許嫁と結婚し、そして、子どもが生まれた」
幹は非常に冷静だった。怒るでも、からかうでもなく、ただただ事実を話しているように思われた。ふと、唯は我にかえって沸いた疑問を率直に口にする。
「待て……なんで、お前が、そんなことを知っている……」
「賢いあなたならもうわかってるんじゃないのか。俺の名前を思い出してみてくださいよ」
少しばかり戻った敬語は、それでも唯に対する嘲笑いを含む。
「……ひがし、やま、みき」
宮落ちした天皇家は、しばしば平民に溶け込むために名前を変える。先ごろ宮落ちした東宮家。その家に与えられた名前。
「俺の本当の名前は東宮(ひがしのみや)楓(ふう)幹(かん)だ。先代天皇家当主、東宮儀桓は、俺の父親にあたる」
ガシャン、と実験器具が一つ大きな音を立てて床に落ちた。
部屋には、まだ誰も入って来ない。
(五)
東西南北、四つの家からなるこの国の天皇家は、東宮家を本家としている。皇位検証順序は、その並びのとおり、東宮、西宮、南宮、北宮の順番だ。当代当主、西宮恵基が即位したのは、先代当主である東宮儀桓が崩御し、東宮家に男性がいなかったからではかった。
「……儀桓に婚外子がいるというのは本当なのか」
緊急に開催された、宮内庁職員でさえ傍聴することができない宮家会議において、ひそひそと各宮家の党首が囁き合っている。
「これは重大な現代皇室典範違反と捉えますが、」
南宮家当代当主が北宮家当代当主に疑問を投げかける。
「事実だとしたらな」
四つある椅子の内、もっとも上手にある椅子が不自然に空いている。この招集は噂の中心にいる東宮家当主が行ったものだが、開会間際になっても現れる気配を見せない。
「……遅いな」
誰かが呟いたその時、細かな彫刻が施された、重苦しい木製の扉がキィと音を立てて開く。
「遅くなってすまない」
現れた東宮当代当主の儀桓は、顔色が悪くやつれて見えた。
「お前たちに願いたい」
かすれた声は乾燥が原因ではなさそうだった。眼は焦点が合っておらず、生気が感じられなかった。
「……俺を追放してほしい」
吐かれた言葉に、その場にいた三人の当主は言葉を失った。
「俺の父親は情が深い人間だったが、しばしばその情動が与える外部への影響を鑑みることができなかった。つまりは、非常に自己中心的な人間であったといっても差し支えない。その時も、恐らくは死に目をみることができなかったあなたの母親……天沢月子の死を悼んでのことであったのだろうが、宮落ちすることで俺たちがどんな目にあうか考えもしなかったんだろうな」
唯の母親が死んだ年。ちょうどその大晦日に、東宮家は宮落ちすることになった。追放理由は、皇位継承以前に行われた、婚前交渉による婚外子の発生。
「……俺が悪いってでも言うのか」
「そういうわけじゃない。悪いのは俺の父親である先代天皇の旧東宮儀桓だ。お前の人格や行いには何の罪もない。問題なのはお前の存在自体だ。お前が生まれてきてしまったという事実だ。現に、儀桓は学生時代に出会った女学生との間に嫡子がいることについては既に公表してしまっている。隠しようのない事実として、お前の存在はあるんだ」
そこまで言って、幹は唯に椅子に座るように促した。
「この国がどうして男系天皇を重んじるのか。それは男子のみを辿れは、ルーツはただ唯一の一対の神にたどり着くからだ。それが正当な天皇家の証だから。……これがもし、妃側の婚外子であったならどうだ。その子どもは女系となり、そもそも皇位継承順位なんて付けられない」
「……俺が、男だからか?」
「そうだ。お前が、旧東宮儀桓の血をひく男子だからだ」
悲鳴をあげそうになった。そんなはずがあるか。自分はごくふつうの家庭に生まれたごくふつうの境遇の子どもだったはずだ。そう思い込めば思いこむほど、あの花紋様が、母親のあの言葉が、頭の中に甦って消えてくれない。
どんな黒よりも深い黒を愛でる母親の色白の指。
『これはね、唯。あなたの存在を証明するものなのよ』と呪いのように呟く桃色の唇。
「……そんな、ばかな、」
思いだした母親の言葉を必死に否定しようと言葉をつぶやいた途端、足がふるえだした。確かに母親はあのときそう言った。存在を証明するものだと。完全な円の中に鎮座する、等しい大きさの花弁を持つ白い花の模様。
それはまさに。
「天皇家の家紋、そのすべてに入っている花紋様。それをあなたが知らないわけがない」
「……なんなんだ、突然……!どうして、そんなことを言うんだお前は、」
頭の中の情報が整理できた途端、噴火する火山のごとく怒りが沸いてきた。こんな場所で、何も心の準備ができていない状態で、知り合ったばかりの男に、こんなことをどうして知らされなければならないのか。どうして今、告げられなければならなかったのか。ずっと視界に入れないようにしていた自らの出自を、どうしてこんな形で、望んでも居ないのに知らなければいけないのか。
「俺が先代天皇の隠し子だなんて、そんなことを俺に言って何になるんだ……俺を天皇の家に引き戻したいのか?宮落ちした東宮家の一員に引きずり込んで、お前は一体何がしたいんだ、」
「……取り戻したいんだ」
幹はゆっくりと口を開いた。顔が少しばかりゆがんでいた。
「俺は、椅子を取り返したいんだ。」
「は……」
急に真顔に戻って落ちたトーンで応える幹は非常に冷静だった。恐らく、彼はこれを前々から計画していた。だからこそ理路整然と話ができるのだ。そこまで思い至って、唯は自らの怒りが急速に冷めていくのを感じていた。
「なぁ、唯。俺と手を組まないか。俺の父親が、愚かな一人の男が、自らの贖罪のために捨ててしまった当代天皇の椅子を。付けられるはずだった継承順位を。……俺たちが座るはずだった、あの椅子を、取り戻さないか」
「……お前は、」
「俺は椅子が欲しかった。昔のように崇められなくても、この国の頂点に君臨するあの椅子に座りたかったんだ。それが馬鹿な男のせいでひとかけらの可能性もなくなってしまった。誤解するな。唯。これは今君臨する西宮恵基への報復じゃない。これは、父親への復讐だ。お前も憎くはないか。自らを無責任に出生させた東宮儀桓という男が」
冷えた、据えた目がこちらを見ていた。幹は、己の欲のために唯を狩ろうとしていた。否定の言葉すら受け取る気配のない目。やられる、と思ったその時、コンコン、とノックをする音がして、唯は、はっと息を飲んだ。
「あ、は、はい!」
唯が冷静を装いながらノックに返事をすると、扉が開けられ、豊木が不思議そうな顔をしながら顔を出した。一瞬にして張りつめた空気が切れ、温度を取り戻していく。
「あれぇ、まだやってんのか?」
「あ、うん。ちょっと長引いちゃって。ごめん。でも計測も終わったし、ちょっと休んでただけ」
後ろでは、幹がなにやら考え込んでいる。一体その顔で何を思考しているのか、唯は想像したくもなかったが。
そう思って、幹から視線をそらすと、考え込む幹に気づいた豊木が声をかけた。
「東山君も、あんまり始めからとばしちゃだめだよー。この研究室はきついからね」
不意にかけられた豊木の声に、幹はふと我にかえった。
「ああ、すいません。ぼくは全然平気で。ついつい興味がわいちゃって。天沢さんに聞いちゃったんです。先輩には無理を言ってしまいました」
幹は苦笑すると、立ち上がって身支度を整える。
「へぇー。唯もなつかれるもんなんだなぁ。……あ、そうそう、教授はもう帰っちゃったんだけどさー、お小遣いくれたから唯と東山君を飯連れって頼まれたんだけど。どうよ?」
「え、ああ、どうしよう」
「おまえ最近研究にかかりっきりだったろ? 三食食ってるのは知ってるけど、まぁたまには豪勢にいこうぜー」
豊木は財布から出した高額紙幣をちらつかせながら、笑いながら唯の肩をふざけて抱いた。連日の研究室詰め、そして、さきほどの会話で、唯は疲れきっていた。豊木の声は、彼を安堵させるのには十分だった。そのせいか、いつもなら誘いを断るところだが、今日は珍しく乗ってもいいような気になった。思わず快諾の返事をする。ともかく今は、張りつめた空気と重すぎる会話で疲れた頭を癒したかった。
「いく……今日はもうしんどい」
「そっかそっか。おまえもやっぱり疲れるんだな。東山君は?」
「じゃあ、ご一緒していいですか」
幹の返事を聴いた唯は、勘弁してくれ、と心の中で呟いた。振り返ると、幹はさっきまでの表情とは裏腹な、穏やかな笑顔をしながらマグカップを洗っている。
(こういうところまで抜かりないか)
「……アァ」
思わずついてしまった唯のため息に、豊木は笑う。
「やっぱお疲れじゃんねー。じゃ、そうと決まればさっさといくぞ。この前の居酒屋、あのきれーなおねーちゃん、まだいっかなー」
「……居酒屋かよ」
唯がぼそりと言った言葉は豊木に届くことはなかった。気を取りなおして、既にドアの前にいる豊木と幹を見やる。
「おし、じゃ、でるか!」
豊木の鶴の一声で開けられたドアから、幹が出ていく。どうしてあのまま帰ってくれないのだろうか。
「唯ちゃん疲れすぎだよ! ほら、早く、速く」
顔色が悪くテンションも心なしか低い唯を見た豊木が、弾んだ声を出しながら唯の手を引いた。
(こいつは……俺が天皇の血筋だといっても、同じように手をひいてくれるのだろうか)
そんな馬鹿なことを考えながら、唯は研究室の電気を消した。
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