透明を待つプールサイド

羊木

第1話

 

 屋上のフェンスを越えて、縁に立つ。上には茜色の空。下には校庭や体育館が見渡せる。最期に、彼女が見た景色もこんな風だったのだろうか。フェンスに寄りかかり、想像する。目の前には何も無く、隣に彼女はいない。一歩、踏み出せば真っ逆さま。この高さなら死ねる。彼女という前例もある。

 ひゅるり、と風が吹くが、そよ風では私を突き落とすことは出来なかった。制服のスカートが揺れ、背後のフェンス越しにさざ波が聞こえるだけ。学校の屋上にプールがあるのが珍しいかは分からないが、今は感謝しておく。茜色の空にさざ波の音はよく似合っていたから。ちゃぷちゃぷひゅるり。風と波の音をしばらく楽しんでから、ゆっくりと、一歩を踏み外そうとした瞬間だった。

「ねえ」

 かき消えそうな声が後ろから聞こえた。聞き慣れたあの声に似ていたので、つい振り返ってしまった。でも、フェンスの向こうには誰もいなかった。プールの水がちゃぷちゃぷと音を立てるだけ。

「ねえ」

 また、聞こえた。でも、姿は見えない。

「あ、ごめん。今は姿が見えないから、分かりにくいよね。ごめん」

 彼女は短いセリフの間に二度も謝った。でも、姿は見えない。

「えっと、もしかしてだけど柊さんは死のうとしてた?」

 懐かしい声で、私の名前が呼ばれた。

「そうだけど」

「やっぱり、そうなんだ。ねえ、横に行ってもいい?」

 そういうと彼女はフェンスを乗り越えて、私の横に来た気がした。見えないからよくわからないけど。

「死ぬ理由とか聞いたら、教えてくれるかな?」

 どう答えるか。まだ少し濡れたままの髪をいじりながら考える。濡れた髪からは嗅ぎ慣れた塩素のにおいがした。髪に滴った水が制服のスカートに落ちる。

「……受験ノイローゼって奴かな。両親が、いい大学出なさいってうるさいんだ。やたらと重圧かけてくるし。これで受からなかったら、将来どうなるんだろうとか考えるとしんどくて」

「あれ? 柊さんって水泳の特待生じゃなかった? 将来はオリンピックも狙えるから大学への入学はそんなに考えなくていいって。3年後の東京オリンピックに出れるかも、とか」

「両親がさ。水泳にうつつを抜かすんじゃなくて、そろそろ現実見て勉強しろっていうんだ。まあ、一言で言えば色々なしがらみが面倒くさくなってきた。あと勉強がめんどくさい」

「そんな曖昧な理由で死ぬの?」

「人が死ぬ理由なんて曖昧だ。よく分からない。なんで死ぬんだろうな」

「なんでだろうね」

 横にいる彼女を見る。姿も表情も真意も見えない。ただ、私と同じようにフェンスにもたれかかっているのは分かった。

「でも、勉強が嫌ってのいうのは分かるかも。夏休みなのに毎日塾に通うって大変だよね。柊さんも塾帰りだったりする?」

「ああ。塾ってのは面倒だ。ずっと座らされる。泳ぐより疲れる」

「柊さんらしいね。ずっと動いてないと死んじゃうみたいな感じだし。それに、私たちの年からセンター試験の仕組みも変わるし、大変だよね」

「そうだな。全く、嫌になる」

「なにより、柊さんが勉強してる姿なんて想像できないよ。いっつも授業中寝てるしね」

「まあ、人は変わるということで」

「ほんとにね」

 そういって二人で笑った。ちゃぷちゃぷひゅるり。波と風を背景に二人で笑う。ひとしきり笑った後で、彼女はふと、遠くを眺めて話し始める。

「私も塾行くの嫌だったなぁ。ほら、塾って大体の人が私服でしょ。その中で制服着ていると浮くんだよね。服買うお金ないから仕方ないんだけど」

 彼女の家は裕福ではなかった。そのせいかクラスでも浮いていた。

「目立つのは嫌。目立つといじめられるから。だからかな、ずっと透明になりたかったんだ」

 彼女は屋上の縁を歩き始める。縁ぎりぎりを、平均台の上で歩くように、両手を広げバランスを取って歩く。危なっかしかった。今にも落ちて死にそうだった。

「でもね。透明になったらなったで、今度は寂しくてね。柊さんが、私に気づいてくれないから」

 背を向けて歩いていた彼女が、くるりと私に向き直り、言う。さっきまで危険な綱渡りをしていたとは思えない笑顔を向けてくる。いつもそうだ。何でもないふりをして、彼女は笑う。

「ごめん。急に変な話して」

「別に変じゃない」

「……ありがとう」

 気が付けば、茜色の空が暗くなり始めていた。彼女と話していると時間の進みが早く感じる。少し立ち疲れた。制服のスカートをはらいながら、屋上の縁に座る。ぶらぶらと両足を宙に出すと、なんだか気分がいい。危ないけど。

「私も座ろっと」

 彼女も私の横に並んで座る。一緒にぶらぶらと両足を遊ばしている気がした。目の前には何も無いけど、目には見えないけど、隣には彼女がいる。

「なんで、死ぬときタバコを吸ったんだ?」

 沈む夕日を眺めながら、聞いた。彼女が飛び降りたこの屋上には、遺書はなく、ただ靴とタバコの箱が置いてあった。銘柄はセッタ。見慣れたパッケージだった。ただ、彼女はタバコを吸う人ではないので、不思議だった。

 彼女は、そうだね、とつぶやいてから、恥ずかしそうに顔を赤らめて話し始める。

「大人になれなかったから、かな。成人する前に死ぬわけじゃん。最期にタバコでもやってみようかなぁ、と思った次第でして」

「どうだった」

「まずい」

 顔をしかめながら彼女は言う。

「でも、タバコのせいで死んじゃったんだよね」

「は?」

「いや、タバコ吸ったらむせちゃって。それで、咳き込んだら足踏み外しちゃって」

「……笑いどころか?」

「そうかもしれない」

 彼女は笑った。呆れたけど、私もつられて笑ってしまう。空はすっかり暗くなり、星が瞬き始めていた。夏休みじゃなければ、部活が終わり下校の時間だ。別れを知らせるチャイムの音が響く時刻。まあ、私は無理を言って屋上の鍵を借りて、遅くまで練習して帰ったものだが。

「それで、タバコと一緒に落下したんだよ。そこでびっくりしたんだ。タバコと自分が同じ速さで落下するんだよ」

「重さは違っても、物体は同じ速さで落ちるらしい」

「そうそう。でね。私の目の横でタバコがくるくると回転して、煙を巻きながら落ちるんだ。白煙と茜空がなんだか合っていて。昔見た、田んぼに上がる煙みたいだった。懐かしくて、煙が目に入って、今更ながら涙が出たんだよね」

 その時を思い出すかのように、彼女は目を細めた。両手の人差し指をくるくるさせているのが愛らしかった。

「こんなに軽いタバコと私は同じ速さで落ちるんだなぁって思うと、不思議な気持ちになった」

 そこで彼女は一呼吸を置いた。そして、私の顔色をうかがうようにして続きを話す。

「柊さんとタバコって似合うんだろうなって思った」

「私はタバコを吸わない」

「未成年だから?」

「水泳をやってるからだ。肺を悪くしては持久力が落ちる」

「……柊さんらしいね。でも、タバコを持った姿ってたぶん絵になる。カッコいいよ。絶対」

 彼女は黙った。私はカッコいいと言われて照れ臭かった。二人で夏の夜空を見る。静かな夜だ。しばらく、夜風に吹かれた。プールの水で少し濡れていた髪と制服はすっかり乾き、赤らんだ顔も冷めたはずだ。そうして、彼女は再び話し始める。

「実はね。前に柊さんがタバコを吸ってたのを見たことがあるんだ」

「マジで?」

「うん。路地裏で隠れてこそっと吸ってた」

「そうか。見られてたか。あーあ、うまく隠しているつもりだったんだがな」

 ほんの数回しか吸ってないのに見られたのか。ホントよく見てやがる。

「私もまさか柊さんが吸っているなんて思わなかった。臭いも全然しないし、綺麗だし。だから、知っているのは私だけだと思う」

「だろうな」

「ただ、カッコよかった。壁にもたれかかって、煙を吐いている柊さんが大人に見えた。そんな姿を見たのは私だけで、本当に見れてよかった」

 熱を込めて、彼女は語る。聞いているこっちが恥ずかしくなってきた。そっぽを向きながら、一応、釘を刺して置く。

「誰にも言うなよ」

「今更、言えないよ。死んでるし。これが幽霊ジョークって奴?」

 彼女は笑った。月に照らされても、透明な彼女には影一つ出来ない。いや、見えないのか。本当はあったのだろう。影なんて見せずに彼女はいつも笑う。そして、そのまま、死んだ。

 ぐしゃ、と何かが私の横に落ちた。タバコの箱だった。封は切られており、使用済みのようだ。見慣れたセッタだ。そして、彼女も吸ったセッタだ。

「お願いなんだけど、もう一回、タバコを吸っている姿が見たいんだよね。いいかな?」

「別にいいけど」

 セッタを右手でつかんで立ち上がる。日はすっかり暮れた。彼女が死んだ時刻はとうに過ぎてしまっている。死に遅れたな、そう思う。タバコを咥え、ポケットに手を突っ込んでライターを掴む。

「最期にタバコを吸いながら落ちるのも悪くない」

 お前と同じように、と心の中で付け加える。彼女は私の方から目を背けていた。ただ、何かを考えていて、言葉を選んでいるようだった。しばらくして、彼女が私に再び向き直る。

「……ねえ、本当はなんで死ぬの?」

 二人の間に夜風が吹いた。彼女は立ち上がり、私をまっすぐ見つめていた。

「受験とか、その他諸々が嫌になったといったはずだが?」

「一つ」

 彼女は人差し指を立てて言う。

「私と同じ塾に通っているなら、制服で塾に行くのは変。だって、あの塾の多くの人は私服だから、制服で行くと浮いちゃう。柊さんがわざわざ目立つような真似はしないはず」

「確かに塾帰りと言ったが、学校にも用があったんだ。それで制服なわけだ」

「二つ」

 彼女が中指を立てる。

「センター試験が廃止されるのは3年後。私たちには関係がない。こんな重要なことを受験生である柊さんが忘れるはずがないよね。知らなかったのは受験に興味がなかったから」

「私はセンター試験を利用しない方式なんだ。だから、よく知らなかった」

「相変わらず。自分の興味のないことには無関心だよね」

 彼女は笑いながら、嘘も下手、と小声で付け加えた。指先を口元に当てながら、悪戯っぽく話す姿は扇情的だった。でも、透明な彼女に影はない。

「三つ」

 彼女が薬指を立てる。

「柊さんの髪は濡れていた。たぶん、今日もここで泳いできたんだよね」

「まあ、勉強の軽い息抜きかな」

「柊さんは個人的な都合でこのプールを借りたってことだよね」

「それが何か?」

「私が去年に死んだことで、屋上の利用は厳しく制限された。だって、また飛び降り自殺が起きたら、学校の失態だからね。高いフェンスも出来たし。そんなに軽々しく利用なんてできない。なのに、柊さんは一人でこの屋上に来ることができた。どうしてかな」

 試すように尋ねてくる。はぐらかすのも、もういいだろう。

「私が特別だから」

「そう。柊さんは将来を期待されるオリンピック選手候補。遅くまで練習したいっていえば、場所も貸してもらえるだろうね。実際、私が死ぬ前から柊さんはそんなことをしてたし」

「つまり、私は受験生ではなく、オリンピック候補のままだから、受験ノイローゼとかは嘘だって言いたいのか?」

「そう。加えて四つ目を言うなら、私がタバコを吸わない理由を聞いた時。まだ、水泳を続けているって言っちゃったし」

 四本の指を立て、指先をひらひらと振りながら彼女は笑う。やっぱり敵わない。理知的に話す彼女はいつもよりはきはきしていて、魅力的だった。

「どうして、嘘をついたの?」

「さあ。どうしてだろう」

「……私のせいかな?」

 その質問には答えずに、彼女が最期に吸ったセッタを噛みしめる。にがい。彼女は死んだ。もう見えない。

「死ぬ理由なんて曖昧だ。なんで死ぬんだろうね」

 私の口調を真似て彼女は言う。

「人は曖昧でよくわからない理由で死ぬ。でも、死にたいから死ぬ。それは確か」

 彼女がどんな顔で言っているのかはもう見えない。今どこにいるかも分からない。

「そして、死んで透明になって。寂しくなって、それからやっと死んだ後悔をする。また会いたいと願う。ホント理不尽な生き物だよね」

 彼女が私に近づいてくる。そんな気がした。

「私はね、貴方の泳いでいる姿、タバコを吸ってる姿、遠くを眺めている姿が見たい」

「私は、君が見たい」

「だからね、死んでほしくない」

「私はもう見れない」

「ごめん」

「君は私を見て、私は君を見れないのか」

「ごめん」

「理不尽だ」

「ごめん」

「なぜ、死んだ!」

「ごめん」

 彼女が私に抱き着いてきた。抱き着いたんだ。きっとそうだ。

「生きて」

 彼女は抱き着いたまま、耳元でそう囁く。卑怯だ。


 ***


 気づいたら、フェンスの内にいた。目の前にはフェンスがあって、隣に彼女はいない。セッタを口に咥え、火をつける。煙を吐く。夏の夜空に白煙が吸い込まれていく。フェンスの向こうに残っていた彼女がすっと消えた。私のタバコを吸う姿を見て満足したかのように。私もゆっくりと後ろに下がり、落下する。プールの水しぶきが上がり、制服が濡れる。タバコの火が消える。水面に浮かびながら、濡れたタバコを再び咥える。なんの味もしない。そのまま、適当に泳ぐ。

「これで満足かよ」

 ぼやく私には何も聞こえない。透明な彼女の返事をただ待つ。いつまでも。

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