第五章 第5話
「うっ、がががぁ……」
その動きに呼応するかのように、兄さんは両目を押さえて悶えている。
「信じる。絶対に信じる。だから僕は、大切な兄さんを守るために闘うんだっ!」
兄さんは、目から鮮血を流している。
肩で息をしながら、滴り落ちる血を手で拭って、僕の目をしっかりと見据えた。
「ハァハぁ……、俺を殴っておいて、よく言うよ」
その声には、さっきまでの怒りは感じられない。
「いいか、レイバー。兄さんはもう、元には戻れない。自分の弱さに負けてしまっているんだ」
それは、かつての優しい兄さんの目に戻りつつあった。
「ちがっ……」
「俺はな、レイバー」
口を開こうとすると、僕の肩に手を置いて、兄さんはこう言った。
「勇者なんて仕事、本当は無くなってしまえばいい、と思っていた。勇者がいるから世界が乱れる。できることなら――一人一人が、勇気を出して世界を救うべきなんだ」
その言葉を聞いたときに、僕は兄さんがどれだけ大きなプレッシャーを背負っていたかを知った。
勇者は万能じゃないし、
まして、超人でもない。
できることと、できないことがある。
勇者だって、一人の人間。
自分を守ることに、精一杯な時もあるんだ――
「兄さんが、勇者になったのはな、レイバー。最後の勇者“End Bureiba”〈エンドブレイバー〉になるためだった」
「最後の勇者って?」
「火事になる家がなくなれば、消防士の仕事が無くなるように、世界が安定すれば、勇者って仕事も、最終的には要らなくなる。けれど、どんなに気をつけても、また火事は起こるものさ。そして再び、世界は乱れる――」
僕は黙って、兄さんの言葉を聞いていた。
エプシロンの影響が薄らいでいるせいか、兄さんの赤髪は急速に白み始めている。
「兄さんは強くなれなかった。きっと、心の隙間をエプシロンに捉えられたのだろう。みんな働く気をなくせば、世界が治まると――今考えれば、何か勘違いをしていたな……」
空を仰ぐ兄さんの目からは、一筋の涙が頬を伝っていた。
そして、僕のほうを向き直ると、ハッキリとこう言った。
「レイバー、お前は兄さんの“憧れの勇者”だよ」
僕もその言葉を聞くと、急に涙がドッと溢れてきた。
「あっ……おっ、覚えててくれたんだね」
「忘れるもんか。アムロイ村を出た時から、お前はいつか俺を超えてくれると思ってたよ」
兄さんは、僕の頭をクシャクシャとした。
そして、にこやかに笑ってくれた。
「さあ、て――」
鋭い眼光を向ける兄さん。
瞳からはエプシロンの影が消え、元の黒い瞳に戻っている。
ブシュルルウルルルルウウウウゥゥゥゥ……
兄さんを纏っていた黒の瘴気は、身悶えしているシー・ライナスに集まっていく。
「おのれ、人間っ……。せっかく、キサマが求めし力を与えしものを」
僕は咄嗟に、剣を構えた。
兄さんは畏れることなく、毅然と言い放つ。
「神サマってのも大変だな、シー・ライナス。いや、男神ラーナス。俺もアナタも元の場所に帰るべきだ。――こんなこと、もう終わらせよう」
男神ラーナスが怒り狂ったのは言うまでもない。
力に任せて、拳を地面に叩きつけると、破片が周囲に飛び散った。
ラーナスは、兄さんに憎悪の眼差しを向ける。
「我が真名を呼ぶな、人間風情がっ! 元の場所に帰れだと? 皇帝を屠ったキサマに一体、どんな帰る場所があるというのだっ」
怒りの目を向けながらも、せせら笑うラーナス。
「あるっ! 俺にも、そうアナタにもだっ」
兄さんは、僕が剣を握る手に両手をグッと重ねた。
そして、僕の目を見るとニッコリとほほ笑んだ。
その顔を見て、僕にはわかった。
兄さんは、エプシロンを、ラーナスを赦したんだと。
僕は兄さんの手を握り返した。
「勇者は畏れない。決して、畏れない。たとえ、あなたが神でも、間違っているのなら、絶対に従わないっ!」
僕と兄さんは、大きく踏み込んでラーナスに斬り込んだ。
「求めている人のいる場所――それが僕らの帰る場所だあああぁっ!」
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