明日の葉桜

 答えは、わかっていた。


 目を開けて原稿を見る。顔を上げて、神楽かぐらとうが見えた。

 審査員を見て、“キュー”が出るのを確かめて。


「24番、水上みなかみ伊月いつき


 発声も、滑舌も、今が最高の状態ベスト・コンディションだとわかった。あとは、心だ。

 ――朗読に、読み手の心が映らないことなど無いのだから。


佐野さの悠李ゆうり『明日の葉桜』」


 伝われ。俺の伝えたいこと、全部。






 二人の世界には、夜桜だけが佇んでいた。

 星明かりも届かぬほど、桜の大樹の周りには濃密な夜の気配が広がっている。夜の風の中、艶やかな桜は、ただ、散っていた。


「私は、葉桜が好きだわ。生命力をみなぎらせている姿が」

「ああ。それなら、この桜は明日、美しくなったのだろうな。――葉桜になって」


 彼女は表情を曇らせた。それが、私には堪らなく淋しかった。


 桜が、舞っている。


 落ちる花弁が時を刻み、私は沈黙を破る。

「お前は、明日の葉桜を見られないと言うのか?」

「ええ。明日の葉桜も、明日の貴方も」


 肩に乗った花弁を摘まんで地に放り、彼女は諦観を顕にした。


「今日は仕舞いにしましょう。……さようなら、桜の下の貴方」


 私は、思わず彼女の腕を取った。伝わるだろうか、私の言葉は。






 伊月は毅然と顔を上げた。


 ――――――伝われ、俺の言葉!






「お前が明日の葉桜を見られないのなら、今日が終わるまでここにいよう。願わくは、明日も明後日も、ここに私を見つけてくれないか」


 知らず、涙が頬を滑った。






 ――2分です。と計時係は告げる。制限時間を使いきり、伊月は全身全霊をこの読みに込めたのである。

 黒板に書かれた自身の名前を消すと、もうそこには誰の名も無い。決勝が、終わったのだった。


 長いこと、手にした原稿を眺めて。

 やっと気持ちの整理がついたように、マイクの前を去ろうとした。


 刹那。


「あ――――」

 伊月はよろめいた。彼の持てる何もかもを――その生命力も――出し尽くして、枯れてしまったかのように。


 聴衆はもう、誰も居なかった。


 審査員さえ、既に退出していた。透さえも。




 そして、そこには神楽だけがいた。



 彼女は、涙を止めることができずにいた。それで、再びよろめいた伊月を支えながら、何度も涙を拭う。伊月の肩で。


 練習で何十回、何百回と聴いた原稿。暗唱できるほど聴いたはずの原稿なのに、涙が頬を滑り落ち続ける。きっと、彼が何故朗読の題材に『明日の葉桜』を選んだのか、わかってしまったせいだろう。


「そこで涙拭わないでよ、神楽」

「こういうときだけ名前呼ぶのは卑怯だから、聞かない」

「……じゃあ、いいよ」

「うるさい」



 神楽の涙の温度を肩に感じながら、伊月はと柔らかく笑む。


「ちょっと、力みすぎたかな……。伝わったか? 俺の伝えたかったこと」

「……伊月」

「どうした?」


「――気障キザっぽい」


「あはは」

 ――――伝わっていたのなら、十分だ。

 全国を目指して練習してきたけれど、それなら。例え全国に行けなかったとしても、満足できた。

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