セカンド・タイム

 アナウンスA会場。

 その教室の最後方。色素の薄い髪をもつ、高身長の男子生徒がビデオカメラを構えていた。伊月である。


「――とう、どうして来た?」


 伊月は眉をひそめた。ぎりぎりまで練習しろと言ったろう、とでも言いたげに。


「すぐに戻りますよ。ところで、伊月先輩。ひとつだけ訊きますね?」

 伊月が怪訝な顔になる。



「……神楽先輩のこと、好きなんですか?」


 一瞬、伊月の目が点になった。


 彼は、片手に持っていた自身の原稿をちらりと見る。すぐに前に視線を戻した彼は、あはは、と少し笑った。


「まぁね」


 彼は優しく笑んでいた。伏せた睫毛が、ふるり、と揺れる。

 口調も変わっていたように思う。


 きっと、これが彼本来の姿なのだと、悟らざるを得なかった。


 それほど、その表情は、彼によく似合っていた。




「じゃあ、練習してきますね。先輩に、決勝で会えるように」

「ああ」


 伊月は、先の優しい表情が幻だったかのように、いつも通りの短い返答をした。


 6月。自分がエントリーを拒否した、あの大会の前日。神楽は原稿に目を落とし、呟いた。


「最近、風部運動部があんまり振るわないから、海部文化部はチャンスなんだよ」


 2ヶ月経ってようやく慣れた、スラングだらけの言葉。その裏に、彼女の思いが満ちていた。

 スラングを覚えるのには、本当に難儀したのだが。


「結果を残して、注目されて――。海高の皆に、UBCのこと、もっと知ってほしいんだ」


 透はこの半年で思った。同感だ、と。



   ***


 透は再び、マイクと審査員を前に席に着いた。その審査員の後ろに、聴衆が集まっている。神楽と、カメラを構える伊月が見えた。


 しん、としていた。さぁ、2回目だ。



 “キュー”が出る。


 審査員一人一人を見て、小さく息を吸う。

「20番、弓射ゆのいとう



 大丈夫、特別なことは考えなくていい。


若村わかむら英姫えいき『ダラザザ・レドラ』」


 この本を選んだとき、神楽は苦笑して、心配そうに言った。

「題名からして、君って挑戦者チャレンジャーだよ。君、“ダドザゾ・ゾザドダ”って全然言えないじゃんか。そこにラ行も突っ込むなんて、いい度胸してるよね?」


 でも、俺はこれを読むんだ。6月の大会にも出ずにこの本に捧げてきた日々は、絶対に間違ってない。




「見事な夕焼けだったのに、君は飛び降りた。」




 伊月先輩がこだわったものが、わかった気がした。自分が初めてこの本を読んだときの思いを、今なら伝えられる気がした。


「というのも、僕は飛鳥に手を引かれてここに来たのである。飛鳥は、『見せたいものがあるの』と言った。『何処へ?』彼女は答えない。」



 伊月はいつも、行間を見せろ、と言っていた。言葉にならない思いを、見せろ。と。

 だから彼にはわかった。透は間違いなく、今までで最高の読みをしている、ということが。


「展望台に上った瞬間、僕の世界から音が失われた。ただ、茜色の空と君だけが在った。」


 神楽は知っている。伊月がつきっきりで透に指導していた日々を。自分にはなかなかバトンを渡してくれず、少し寂しい思いをしたのだから。

 彼女は思った。これが、今の透の全てなのだ、と。


「ようやく全てを悟ったとき、そっと僕は口を開く。『君が今からすることを、僕は絶対に忘れよう』」


 透は、何故だか少し、泣きそうになった。


「『どうして、僕が君に好意を寄せていると信じられる?』」


 それでも飛鳥の台詞は、自分の心の色などが見えないように、気を張った。


「『それはね、あたしが君の心にあたし自身を置いていく為だから』」


 透は、二人の台詞を描き分けるのに、とても苦労した。二人は性格も口調も全く異なるのに、どうしても描き分けることができなかったのだ。


「彼女は花開くように微笑した。尤も、僕にはそれが淋しい微笑みにしか見えなかったのだが。飛鳥は、『きっと、君はあたしを忘れないよ』と言い残して、僕の視界から消えた。刹那、僕は確かに、いつもの呪文を聞いた。」



 そして透は、もう原稿を見なかった。

「『ダラザザ・レドラ』」


 彼は聴衆に向けて、静かに最後の文を放つ。




「僕は、涙も無かった。」




 気のせいだろうか、透には、一瞬、時が止まったように思えた。

 計時係の生徒は頷き合う。1分58秒です、と彼らは無表情に告げた。


 聴衆に目を向ける。2人が見える。伊月が“グッド・ジョブ”と示していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る