第22話 帝大生

第三章(1)

(「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後ろの方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。)

大正三年夏目漱石は朝日新聞に連載を経て出版本として世に出る事となる。


「漱石の心ですか」

健三は一文に心酔し遠くから語りかける声に我に返り、客車の鉄の擦れ同時に木材の擦れる音が交差しガタンゴトンと不規則な音が現実に引き戻した。隣には白シャツに鼠色の背広を着こみマフラーと帽子を被った丸メガネの男が笑みを浮かべていた。威厳を感じさせる眼と笑みを浮かべる顔には年輪を思わせる皺が幾筋も広がり、より高貴な印象を演出していた。男は志野の夫大垣祐之介で東京から自宅のある三鷹へ帰る汽車に乗っていた。

「帝大の学生さんですか」祐之介は憚りもせずに言葉を繋ぎ

「何故そうお思いでしょうか」持っている本を静かに閉じ答え

「誰でもわかりますよ、その帽子を見れば。」健三は被っている帽子を触り苦笑した。見るからに書生としては疑心する衣装と眼は細く浅黒い顔は帽子が無ければ労働者として思われるだろう。実際健三は博打の方として帝大の学生から帽子を奪い取っていた。嫌がる帝大生を尻目に腕力に物を言わせ持っている本と帽子を剥ぎ取り、追いかける学生を振り切り汽車に飛び乗っていた。学生とは顔見知りで今度会った時に金と引き換えにしてやろうと悪知恵が働いた。健三は疑念を持たれないように嘘を重ね

「身なりは書生らしくありませんが」と含笑みを浮かべたが、眼は鋭く伺っていた。

「世界は戦の真最中、日本もイギリスと同盟を結んだお蔭で掻き込まれ大変な時です。書生さんも心配では有りませんか、この戦が何時まで続くかわかりませんが。殺生は心を蝕み得るものは傷だけです。心が傷つくと殺伐とした世界になりますから。早く終われば良いのですが」

時は大正四年で前年の大正三年から五年の間第一次世界大戦が有り、殺戮の世界へと動いていた。日本は戦勝国となるが、この時を経て時世は軍国主義へと向かっていく。読書きは出来るが教養が無く大戦の意義も知らずただ黙って祐之介の言葉に頷くしかない健三に言葉を繋いだ

「書生さんはどちらへ向かわれるのですか」

一瞬躊躇する健三は持前の狡賢い頭で

「貴殿は何処へ向かわれるのですか」

と訊き返し再び笑みを浮かべた「大垣と申します」

祐之介は答え、健三は男の声に何故か姿勢を正し

「私は横山健三と云います。私も三鷹に向かっている所です」顔には満面の笑みを浮かべ返した。祐之介は相変わらずの気さくな様子で

「奇遇ですね。人の縁とは突然遣って来るものと私の奥方が良く云います。もし宜しければ何かの縁ついでに私の家に寄りませんか。書生さんともっと話がしたいと思いまして。」思い付いた言葉に祐之介は「お忙しくなければの話ですが」と付加え伺う声に健三は不敵な笑みを浮かべ「私もせっかくの縁を大事にしたいと思いますので、宜しければ伺わせて頂きたく」

祐之介に笑みが浮かべ「其れではご案内致します」答えた。

汽車にブレーキが掛かり鉄と木の擦れ合う音が断続的に響き駅に近づいている事を知らせていた。

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