第18話 葱と教育

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明治二十七年冬志野は底冷えする横浜の海岸通りを泰三から牛鍋でも食そうと認めた手紙に促され店へと入って行った。二十年頃から牛鍋は一般的な食べ物となり、今日も店内は鍋から上がる蒸気とつけ汁の匂いの中格子窓の隅で鍋を突いている泰三の前に座った。

「泰三兄様、急に横浜で牛鍋が食べたいとはどうされました」と志野を気にせず上目使いに見る泰三は「来たか志野。只、お主と食したいと思うたまでだ、別に取り立てて要件などない」と目線を合わせようとしない姿で「志野、丁度牛鍋も煮えておる。ザク(ネギ)と豆腐も割り下が染み込んで良い感じだ。先ずは食べよう」と深皿を持ち箸で幾つか見繕うと志野へ渡した。泰三は嘘がつけぬ事は志野が一番良く知っていた。何か自分に疾しい事があると必ず直視せずに他へ気を反らす、そして相談事は相手が伺ってくるまで待っているのが上等手段であり、片膝を上げ小刻みに揺らすので誰でも理解できた。卵に浮かぶ食材を眺め志野は「今日は何用で」と再び訊くと、旨そうに食べる泰三の箸が止まり「何を伺う、だから一緒に牛鍋を食したいと云ったであろう」窓に風に乗った枯葉の当たる音に「何もないと云われるのですね。ただ、牛鍋を食べさせるために横浜まで呼び出したと」と怪訝そうな顔を泰三に向け「では、食して帰りたいと存じます。私も学館で残務が御座いますので。」黙って食べ始める志野に、伺う眼をした泰三は「学館は順調そうだな、志野。祐之介どのが傍に居るから心強い」と箸を進めた。

「聞きたい事があるのなら、早く言って下さい兄様」と周り諄い事が嫌いな性分の性格が出てしまい、問い詰めるように答える志野に泰三は背筋を伸ばし正すと「実は相談したき儀がある」と小声で答え、苦笑して頷く志野も「何でございます、兄様」と姿勢を正し、「実は有志館の事だ」と喋り始めた。

泰三が云うには有志館は四年前から有山から引継ぎ泰三が運営を切り盛りしていたが、近年になり学校制度の改革など学業の場が広がり、有志館でも書生数が減って今では三人程しかいない現状を愁いでいた。資金の殆どを今でも師が取り組む「古事記伝」の文筆編集に費やしている現状であり、其れも今年で終ると有山から云われていた。故に、泰三としては養われている状態である事に自暴自棄になり、有志館の今後を案じていた。

「それに志野、有山先生は古事記伝の編集後に出雲の国に居を移したいと申している。先生が居なくなれば有志館は終わりだ」と俯く格好に、志野は泰三の考えに問いかえた。

「師から引継いだ有志館を兄様は終わらせ、有山先生があっての有志館と申されるのですね」

「そうであろう志野」先を申せと云わんばかりの泰三に志野は溜息を洩らして

「そう申されるのであれば、終わらせればよい事で何を悩んでおられるのです」と突っぱね「そんな簡単な事ではない、それでは師に申し訳が立たない」悩む顔の泰三に志野は「有山先生は私が去る時こう申されました。兄様は学業が奮わぬが、人間として面倒身の良さ、人への思いは一番であると。兄様この意味が分かりますか。」首を振り「学業は奮わぬ、その通りだ」と頷く泰三に志野は意味深げに

「愁いでいる場合では御座いません。兄様は私より先に師と出会い、師の志を理解されていると思っておりましたが、今の言葉に私は悲しくてたまりません。」項垂れる泰三を悲しい目で見つめ「有志館が無ければ学業は出来ませぬか、机上の上が全てと申されますか。学問とは場でするのではありません、師の思い、志、師への忠義の気持ちがあれば、何処でも教える事は出来るはずです。有山先生から得た儀は兄様の頭心の中に生きており、師は兄様に一番大事な志が備わっていると申して、有志館を離れると云っておられると推察します。」何時しか志野の眼から涙が溢れていた。

志野の涙に師への徒ならぬ思いを感じて、言葉が見付からず黙っている泰三に志野は「兄様が師の代わりに問えば良いのです。」答えを促し「学ぶ事は無いと、この先は自分で切り開き、学んだ事を芯に自分流に発展させよと。己は有志館存続を理由に自分を憚っていたのかも知れぬ」真剣な眼を向ける泰三に志野は義を見てせざるは勇無きなりと孔子の言葉を口にした。泰三は噛み砕く様にその言葉を繰り返した。

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泰三は翌日から行動を始めた。有志館の今までの経緯と現状把握を説明し、「泰三に任せた故に好きにせえ」だけ云い頷くと「その先は如何する泰三」と伺った。泰三は志野からの言葉を胸に自分自身の方針を語った。その中身は泰三らしいもので、学ぶ事に身分は有らずと有山の教えを通り江戸時代の寺子屋を模した民衆の側に居る学び舎と称し、学校の補足授業を行う場として開放した。今で云う

、塾の様な物である。学童が学びたい科目を分け、少人数で解るまで教える心情として、子供好きな泰三に取って全く苦労は感じないようで、先生、先生と慕う子供達に泰三は嬉しさに眼を細めた。また、泰三の教え方が良いとの評判を聞きつけ、田舎の読書きの出来ない幼子の為に来て欲しいとの依頼も、自分から仮の学び舎を作り、教えているほどであった。そんな泰三を有山は頼もしく見守り、翌年の夏有山は自分が泰三にとって煩わしく厄介な存在である事を感じ呼び寄せた。

「矢入れの中から己の心矢を選びぬいた、後は真直ぐ射抜けるか否か見させてもらう泰三」眉を触り泰三に声を掛けた。

「有山先生、私は己の邪心を捨て今できる最善を尽くす事に致しました。享楽で不精な癖は治りませんが、師の志に受継ぎ、添えたいと存じます」何かを見出し迷わぬ心がそこにはあった「我の心眼を得て、果敢に突き進め泰三。」

「師への思い必ずや射止めます」と答えた。

有山は有志館に庭に出ると、銀杏と楓の木に眼を遣り、「銀杏は志野、楓は泰三だ。色づく秋が楽しみだ」青々と茂った葉を二人になぞり。「泰三、わしは出雲の地へ向かう、千鶴も一緒だ。今後は子弟ではない、一人の人間として酒を酌み交わそうぞ」

泰三は驚きもせず師の恩情を汲取り「行かれますか」と答え、有山は「知っていたのか。有志館は有山が去る時に終わる。此れからは好きにしろ、任せた貴殿に」と振返り頭を下げる有山に、泰三は込上げる思いを抑えきれず、咽び泣いた。その様子を千鶴は大広間の柱に手を添え訊き「師の思い心に留めて世を渡る。」大丈夫です何時までも受継がれますと願いを刻み込んだ

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泰三は晴れて(しの)と婚儀が執り行われ飛び回る泰三の良き理解者として、共に手を携える伴侶となり、有山と千鶴はその半年後出雲の地へ居を移した。有山の意向により有志館を師友塾と名を改め、書生二人を教師として学童の勉学に就かせた。有山は白木に師友塾と認め泰三に渡すと「天命を与える」と云い残し去って行った。

志野四十八歳の時(明治三十二年)高等女学校令・私立学校令が公布となり、晴れて武蔵女子高等学館も武蔵女子高等学校へ改め正式に学校として認められ、共に歩んできた銀杏の木は学校の屋根に届く程に成長していた。志野は教鞭に立つことは少なくなっていたが、教師への指導、生徒の対話の機会を持ちたいと、毎週毎に教材を作り学年別に機会を設けていた祐之介も財務、経営上の理由で東京との行き来を頻繁に行い、中々時間を取れない二人であったが一つの志の為に慢心相違ではあったが、苦労とは感じていなかった。

そんな時英語教師として赴任していから四年目の咲が学校長室に志野を訪ねてきた。「学校長いらっしゃりますか」ノックする音に、次の教材資料として英訳をしていた志野は筆を止め、「お入りなさい」と答えた。

咲は心痛な面持ちで志野の前に立ち「相談したき事が御座います」志野は尋常ならぬ咲の顔に「咲、どうしました、云ってみなさい」と冷静に問い、椅子に座るよう促した。「じつは・・・・」と口籠る咲に「学校の事ですか。其れとも」と注意深げに問うと「私が受け持っております生徒が二日前から来ぬようになりました。」一教室生徒三十人ほどを咲は担任として受け持っていた。

「誰が、来ないのですか」と伺う志野に、俯くように「生徒の佐々木すずが来ておりません」返した。考え込む志野は「どのような生徒で」と訊き、重い口の咲に「咲先生、しっかりしなさい」と喝を入れた。咲は姿勢を正すと「学業は優秀とは言えませんが、心優し周りに目を配る子で御座います特に、英語の授業は理解しているとは思えません。」志野を伺う顔に「人とは得手不得手があります。得意科目はあるのでは」考え込む咲は「国語が得意では・・」と思い倦ね答え「お下げ髪の可愛い子なのですが」と加えて云うと

「郷には連絡したのでしょうか。」

「いいえ、・・・」

「何故、連絡しないのです。」と問い詰める志野に

「寮におりますので」と呟く様に答える咲に「籠っていると、先生は何をしているのです」と不思議がる志野は答えた。

「私の事を嫌っているようで、中に入れて貰えません。寮友が話しても咲先生には会いとの一点張りで。同室の生徒を別の部屋で休ませ、先生として不甲斐なく歯痒くて仕方ありません。でも、何が原因なのか分からず、志野校長に相談に参りました。」心に籠った荷を下ろした様に深い溜息を漏らした。そんな咲を志野は苦笑いを見せ

「私が行きます寮へ」

「校長自ら行かれると」と驚いた顔の咲に

「生徒は私の子も同然です。親が行かぬして誰が行くのです」と答えた。

咲は教師と云う枠を超えた言葉に驚愕し「自分は生徒としか見ていない。」と教師ぶる自分に愕然となっていた。

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