第17話 帰国と門出

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勝に恵まれた日本の運気を表すように国旗が沿うように道に一列に並ぶ横を裕之介は異様な雰囲気と感じながら、武蔵女子高等学館に新しい教師のお願いを有山へするため有志館へと歩いていた。武蔵女子高等学館の学力強化のため、英語を含め語学向上に努ようと志野からの要請でもあった。有志館の門を抜け玄関に向かうと泰三と会った。「裕之介殿、街は戦勝に沸いている。」

「その様ですね」と浮かぬ顔を向ける裕之介に「裕之介殿は嬉しそうではないご様子。」訝しげに問う泰三に「いいえ嬉しいですが、教育者としては若者が戦場へ向かうのは心が痛みます。戦争とは自分を殺し、人を殺めるもの、国下で戦うのは皆若い者ですから」悲しそうな顔を泰三に向けた。泰三は頷くと「有山先生も同じ思いです」草履を履き門から出て行った。

有山は部屋で古事記を読み返していた。襖の向こうから原文で読む声に裕之介は少し聞き入り一呼吸置くと開け中へ入った。「裕之介、元気であったか」皺の増え年を取った有山に膝と手を付けた裕之介は「先生、ご機嫌そうでなによりです」と挨拶した。有山は火鉢に手を添え「まるで自分達が戦争から帰還した様に街はガヤガヤ煩いが。日本もこの戦火を切り抜けた事で有頂天にならねば良いが」心配顔に裕之介は恩師の思いを感じ「此れから軍備強化に邁進するでしょう、必ずや」と真剣な眼を向けた。有山は白髪頭を撫で「そうであろう。教育とは違った別の教育が始まるかも知れぬ」と何かを思いあぐねた様子に「先生、今日参ったのは。英語教育強化のため新教師を迎えたいと思いご相談に来ました。」と話を変え英語教師とな。…と考える有山に裕之介は膝を出し聞き入る仕草をした

その時千鶴の声がしてお茶を持参して、有山の横へ座った。有山は千鶴に「語学の教師を学館にとの相談だ」問いかけ千鶴は黙って聞いていた。

その時書生が襖越しに「先生、お客様です」との声に眉を上げ伺うように「誰だ」と云い「吉田咲と申しています」と書生は答えた。有山と千鶴は驚いき隠せず、今一度名を申せと訊きかえし、「娘の咲が帰ったと伝えて欲しいと云っています。」と言い返すと、千鶴は慌てる様に玄関へ向かった。そこには洋服身を纏い一回り大きくなった咲の姿があった。

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帰国の挨拶をした咲に有山と千鶴はなぜ知らせぬと寂しげな顔をしていたが、咲の説明に皆納得した顔に変わった。イギリス留学の中の出来事を話す先に二人は親分りの笑みを浮かべ、マシューからの預かり物として英文書数冊と手紙を有山に渡した。

「咲、立派な女子に成長して。書生があの貴婦人が誰ですかと興味津々な様子でしたよ。手紙では勉学に励んでいる様子は解りましたが、会ってみると時が経っているのを実感します。」と千鶴は眼頭を押えた。有山はマシューからの手紙を読み終えると、咲に眼を遣り「マシュー殿は咲がもう、何処へ出してもイギリス文学を教える事が出来るほどに成長していると云っている。然し。。。」と不安げな顔に、千鶴は「他にも何か書いてあるのですか」と伺い、咲もマシューが何を書いたのか気になる様で有山の言葉を待つと。「咲の事ではない。日本の事だ。咲の大戦で日本が西洋列国と肩を並べたと考えるのは、早いと愁いでいる。清国政府がアメリカの仲介を願い講和を望んでいるとも書いてあり、日本の勝利で終わるだろうと云っている。」続けて言おうとすると、書生がお茶を運び入れ千鶴に渡し去るのを確認するかのように有山は口を開いた。

「朝、清、日と隣国どうしの争いと列国は思っているから良いものを、一つ間違えれば判らなかったかも」と不安げな顔を咲きに向け「先生の申す意味が解ります。私はイギリス滞在中列国と日本の差を改めて感じました。この国に居ては解らない事が多い気がします。」確かに、戦局は日本有利に進んで、翌28年3月には日清講和会議が再開され、4月には調印の運びとなる。

咲の声に有山は頷き「咲、何を今後行うべきと考える」と伺い「先ずは、私が学んできた事を教える場を探しとう御座います。日本は列強と肩を並べるほどに軍備増強を推し進めるでしょう。然し、本当に必要な事は他国の文学、思考、習慣等を知った上で行う事が肝要と考えます。私はその糧の一つになりとう御座います。学びたい人は大勢おりますゆえ、その方々に広い世界を見せ、その上で価値を見出し希望を与える人になりたいです」真直ぐな気持ちの咲に有山は感心するような顔を向け「他を知らずして己を語るなと申すか」と満足げに頷き、咲は「先生に語るなど百年早う御座いました」と手を付く姿に「咲は志を得たな」有山の声に千鶴は咲に手を重ねた有山は襖向こうの裕之介に声を掛けた。客人と称して裕之介には隣の部屋で待つようにと云い、此れは有山の思案した事で咲の深奥を見定めるためであった。突然現れた裕之介に咲は驚きを隠せぬ様子に有山は「すまぬ、咲この方は志野殿の夫で裕之介と申す者。心配いらぬ。」「志野様の旦那様ですか。」とまた、驚く咲に「云わなかったが、志野殿は女子学館を武蔵野女子高等学館と場所と名を改めて学び舎を大きくされた」千鶴は付け加えるように答え「いま、志野は学館長、私は理事長をしております」裕之介が挨拶した。咲は慌てる様に頭を裕之介に下げると、有山は笑みを浮かべ「裕之介、決まったな。良い糧になるぞ」と促すように云うと「はい、決まりました。」と答え、唖然とする咲に有山は「そなたの英知、志野の学館に就くさぬか」との言葉に意味を察し「全てお聞きなり、子の私を試されたのですね」と苦笑する咲は、裕之介に向き直し「至らぬ所はありますが、志野様へ恩返しと思い精進致します。」と頭を下げた有山は頭を撫で千鶴に眼を移し「親が子の心配をするのは、あたりまえだ。」と同調を求める顔に「就職祝いも兼ねて夕餉に致しましょう」笑顔で千鶴云い席を外し廊下に出ると咲に謝る有山の大きな笑え声が有志館に轟いた

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咲は有志館を後にすると根津遊廓に向かった。根津遊廓は明治二十一年に撤去となり洲崎に移されて、移転にあたっては大学が近く風紀上の問題とされる説もある。跡形もなくなった遊廓跡を咲は思い出深げに歩いていると、すれ違う人の波から「咲殿では」声に後ろを振り向くと其処には黒い背広を纏い凛と立つ男の姿があった。

「どちら様でしょうか」注意深く伺う咲に「お忘れですか、山縣清彦です。」懐かしさに満ち溢れた様子で咲の前に立ち、思い出そうとする咲に「七年前の事ですから、忘れるのもしょうがありませんが。船でご一緒させて頂いた者です。」と帽子を取り挨拶をする姿を思い出した咲は「山縣...清彦.... あっ」と声を上げ「留学生の山縣清彦殿でしょうか」と笑みに変わる顔に「覚えて頂いて光栄です」と答えた。

清彦は咲が帰る二年前に英国留学を終え、今は外務省で次官補佐をしている。士族である清彦は特別枠の咲とは違い将来を見据えているエリートであった。然し、眼前の清彦は船で会った時と変らず大柄で優しい目をしていた。二人は歩調を合わせる様にお互いの英国での出来事を語り合い、清彦は英国で会う約束を果たせなかった事に何度も謝罪をしていた。

そんな清彦の姿を咲は愛おしく感じるようなっていたが、身分の違いを肌で知っている咲は言葉に出来ずに何気ない会話を繰返す中で「私は将来商業の道に進みたいと思っております。今は留学の恩返しと思い、次官補佐をして外交を学んでおりまずが、今後は外国との貿易を主とした勉強もしていくつもりです」清彦の主眼を定め「咲殿は」と訊く容貌に咲は一瞬躊躇すると「教師になります」と低い声で答えた。口数が少なくなる咲とは対照的に積極的に話す清彦に、自分と清彦では容姿が違い過ぎると感じ始めた咲は何時しか一歩後ろを歩く様になっていた。

「先生ですか。日本の将来を考えれば教師は最適な仕事ではないでしょうか。特に咲殿のような方には」と清彦は咲の将来を想像し「私は不慣れで、恩師の学館で教師になります」控えめな声に「人の心を知らずして自分の心は見えず。皆、人は平等です、その様な世なれば良いのですが、国も人も。」その言葉に頭叩かれた気分になり、人と比べ自分を蔑んでいる事に哀れみを感じ、信念を持ち人から学べと云う清彦の心持は先ほど自分が有山先生へ云った事で、私の決心とは薄氷の様な脆く、気分によって様変わりする安易なものであったと悟った。咲は自分自身に「表面を取繕う私は教鞭に立てるのだろうか」と説いていた。

そんな咲の心情を知らずに清彦は「教師とは難しい職業です」何故ですと咄嗟に訊く咲に清彦は真剣な面持ちで「日々自分の中に潜む善と悪を抑え、人に平等に教えるのは難儀な事ですから。教える側の心情、受ける側の心持。」

咲は思い出すように「上でも、下でもない。」清彦の横顔を愛おしく眺めていた。

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