第16話 出発

(4)

有山は千鶴に促されるように咲(さき)に留学の話をした。咲は驚きと不安そうな顔をしていたが、千鶴の「学問は所選ばず、胸を張り行きなさい」と後を押される言葉に決心をし、早々に有山は書を認めるとマシューに送り二か月程が経ち、マシューから返信が届いた。内容は承諾したと書いてあり、他にも二名ほど日本から留学生が居るとも書かれていた。最後に公費留学であるため、書類を日本政府に提出する事が必要とあった。咲はマシューが引受人となり、特別枠で全て私が承るとあった。

半月後、紹介状を認め終えた有山の所に、千鶴が咲を伴い部屋に入ってきた。有山は咲に向き直し「この紹介状をイギリス領事館へ持っていきなさい」と英文で書かれた手紙を咲に渡し、今一つの手紙を「こちらは日本政府へ出す最後の書類だ」と溜息を付き千鶴へ渡した。半月の間出す書類の山を有山は一つ一つ片付け、満足げな有山は咲の心痛な顔に千鶴に目配せをすると「先生、先日出しました日本政府への履歴の中で咲が遊廓に居た事を怪訝しているか渡航を認めないと云い履歴書類を付き返してきました。」今にも泣きそうな顔の咲を案じている千鶴に「認めない。マシューが母国で奮闘して特別枠で留学を認め、何故今頃になって」と怒りを見せた有山の言葉に泣き出す咲をそっと支える千鶴は「咲の母は没しており、父は生死が不明なのが理由だと云い、身元を引受人は戸籍上の血縁でないと無理だと話を聞きません。」咲は鼻声で「お二人のご意向胸に滲みまして御座います。咲はもう結構でございます。」と平伏す姿に「役所の輩は頭が固い。」と思案するように髭を触り「千鶴、役人は身元引受人が居れば良いと云うのだな。」と伺い千鶴は「戸籍上でないとダメだと」と嘆く声に考えあぐねた有山は膝をパチンと叩き「では咲(さき)、有山の養子となり、名を吉田咲と改めよ」と言い放した。その言葉に千鶴は頷き、咲は驚きに満ちた声を上げ「そのような事は出来ません」と答え微動にしない咲に「咲も辛いとは思うが、我も千鶴も後には引けぬ。貴女を立派な教師にするまでは」と決心を露わし、千鶴も「同じ志で御座います」と頷いた。咲は二人の其処までの決心に満漢極まる思いが駆け巡っていた。

(5)

役人の怪訝そうな顔を尻目に有山の養子となった咲の書類は問題なく通り、遊廓の件も有山と聞きつけた大店の店主達の計らいで解決し、店主は皆遊女が海を渡り教師となる事に感銘を受け、此れからの未来を見据え喜んでいた。三か月後、咲(さき)は船のデッキに立ち見送る人たちに手を振り、当時、イギリスまでは四十~五十日間の船旅で客室も船底に近い三等であったが、気持ちは此れから始まるであろう見た事のない世界に胸が躍っていた。千鶴から送られた真綿らしい洋服に身を包み、海風が髪を靡かせ離れる祖国に何時までも手を振り続けていると「何時まで手を振っているのですか。」その声に咲は振り返り、後ろから日本語で男が声を掛けた。細身で眉の濃い長身の男が燕尾服を身に纏い立っていた。

「申し遅れました。私は山縣清彦と云います。」と紳士的に会釈する姿に咲は見惚れていると「英語で言わないといけませんか」笑みに、咲は恐縮するように「森、いいえ、吉田咲と申します」と答えた。まだ、吉田の苗字に慣れていない自分を諌めるように海へ目を移し。

清彦は「少し話しても良いですか」と語りかける姿が妙に気になる自分を咲は隠そうと黙って頷き、清彦はそんな咲には気も留めず話始めた。

清彦は咲と同じ留学生だと云い、咲も同じだと答えると驚いた様子でイギリスでの期待に満ちた思いを語った。将来は同じ教師を目指し歳は二歳ほど清彦が若かったが幼顔の咲はそう見えはしなかった。清彦は凛とて口調も滑らかな美男子で、背の低い日本人の中で外人に負けない風格に咲は頼もしく感じ。

「清彦様のご出身は」喋る清彦に伺い

「山口です。」と答え咲殿はと聞き返す言葉に一瞬躊躇して黙っていると、清彦は「女性に不躾な質問でした」謝る仕草に咲は「東京です」と自分は有山の子だと意思を固めた。

「東京ですか」と清彦は驚く姿に咲は複雑な心境で嘘ではないと自分に説き、自分奔放な武彦に自分と違う匂いを咲は感じていたのかも知れない。

「咲殿、イギリスでも会えますか」聞く清彦に咲は「お願いします」即答する自分が不思議でしょうがなかった。咲が飛躍する縁を清彦は持っていたのかも知れない。

(6)

明治二十一年国内では二重橋が二年を要し竣工を向え、皇城を宮城と改称し、市制・町村制公布により三府四十三県と改め、又国歌が制定公布された年でもあった。咲はロンドンに到着するとマシューの家に下宿をしながら大学で学び、マシューはCITY OF LONDON から馬車で30分位の街に住み家族は妻のマリーと息子のジョンと三人で暮らし皆咲の留学を喜んでいた。特に息子のジョンは咲より十ほど若かったが背が高く凛々しい青年で、咲の事を「日本人形」と表現した。咲にとってジョンは英語を勉強するには最適な存在となり、良く二人で街に出掛けては質問攻めになるジョンをマシューは満面の笑みで話を聞いていた。でも、唯一咲が我慢できなかったのは食であった、来た頃は珍しさもあり旨いと云っていたが、何時しか里心が付いたのか食が細くなった咲を心配して自分で漬けた野菜をマシューは食べさせ元気づかせ、もともと好奇心旺盛な咲はこの先近代産業の発祥である英国で真綿の如く吸収していく事となる。今一人の留学生の山縣清彦とはロンドンに到着し別れた後遣り取りが無くなり消息が途絶えた。


明治二十七年(1894年)留学を終え、咲は再び(横浜港)つまり日本の地へ帰る事となるが、本国は大清国との戦争へと向かっていた、所謂日清戦争である。九か月間の戦闘の末、日清講和条約により終戦を迎える。此れより日露戦争へと発展していった。

旅立つ時と同じ晴れ晴れとした空気の中、咲は旅客船から日本の地へ戻ってきた。旅立つ前マシューは日本が大清国と戦争を行うかもしれないと聞かされ、安堵していたが、湊の空気は其れを暗示させず暖かく咲を向いいれていた。咲は帰る事を驚かせようと知らせず、帰港には誰も出迎えに来てなかった。七年ぶりの日本を咲は見渡し、英国と違いゆっくりと流れる空気を灰一杯に吸込み、「戻りました。」と自分に言い聞かせるように呟くと、驛へと歩き始めた。

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