第15話 華燭の宴と再会
第二章(1)
新天地へ移転した一年後有山の仲人で二人は晴れて夫婦となり、父の進言により病弱な(たね)を気遣い故郷で有山、千鶴、秀治夫婦そして泰三は(しの)を伴い内輪で華燭の典を催した。有山は宴で祝辞と称し嬉しい心内を「童が歌う数え歌、何時しか道学教える君となり、慧眼を得ていま伴侶と共に飛立つ。」と高揚しながら口にした。皆、婚儀を喜び特に泰三は「良いではないか、志野の祝席だ。嬉しくて、嬉しくて」と泥酔し最後には憚らず泣きじゃくり(しの)に窘められていたが
、皆、酔い、歌い、喜びの孟秋の宴を楽しんでいた。
五月晴れの深緑葉を付け人の三倍程に成長した銀杏木の下、学徒達の笑い声に包まれ名称を武蔵女子高等学館と改め(旧女子学館)新天地で六年(明治二十八年)の歳月が流れ志野は学長、祐之介は理事長として学務に勤しみ、華み活気に満ち溢れていた。学館は祐之介の意図通りに建てられたが、志野の望みとして教師、学徒用宿舎が増設され、更に志学制度と称し地方の若い者に親元を離れても学ぶ事が出来るようにした。人は一律に学問を学ぶ権利があると云い、此れは、志野の女子学館精神賜物であった。時を次して学館に臨時教師として一人の女子が赴任してきた。
「咲殿では」と親しみ笑みを浮かべた志野に「先生、お久しぶりです」と会釈する咲は女郎の頃幼い面影は無く、髪は短く黒縁の眼鏡を掛けた清楚な服装で「臨時教師として採用された吉田咲と申します」とハッキリとした口調で答えた。
「祐之介理事長が新しい教師を雇ったと聞きましたが、まさか、咲さんとは私も年を取ったという事でしょうか」と寂しげな物腰に「色々辛い事がありましたが、先生に導かれ教師と云う道に開眼し、勉学に励み、こうして学び舎に帰ってこられ嬉しくてたまりません。あの時出会っていなければ、私は猜疑心で終わってしまったかも知れません」と激高する思いを抑え「志野先生に恩返しさせて下さい
」付加えると目柄を押え喜ぶ咲に「私は何もしておりません。咲殿が励んだ結果として今があるのです」志野の眼も潤んでいた。志野の志を拝し、学館に新しい風を送り込む事になる咲との再会であった。
(2)
咲が武蔵女子高等学館に赴任する八年前、遊廓で病に掛かり一年程静養所で過していた。その時咲の面倒を見たのが有山の妻である千鶴だった。千鶴は同じ境遇の咲を妹の様に寄り添い、有山に願い出て家庭教師を付け静養の間勉学に勤しませた。そんな千鶴の思いもあってか、咲は病を克服した後、より学問へ励み家庭教師の勧めで、教師への道を進む事を自分の糧に猛進していった。そんな咲を陰で支えていたのは千鶴と有山で献身に尽くす姿には理由があった。静養所に見舞に行った千鶴は邪推に苛まれている姿に「如何した、咲」優しく云うと、「千鶴様、私は何をすれば良いのか分かりません。」徐に千鶴は巾着袋から砂糖菓子を咲に見せ「咲、甘いものでも食べなさい。心が休まります。」白紙に包まれた砂糖菓子を咲きの手に載せ笑みを向けた。
「此の儘私は朽ちてしまうのでしょうか。」不安そうにしている咲に「心身一体と云う言葉を咲は知っていますか」相変わらずの優しい物腰に、咲は潤む目を手を添え「知りません」と涙声で答え、「仏教では、肉体と精神は一体であり、分けることは出来ないと言われています。つまり、体の病は心へと移り、やがて自分自身を蝕みます、咲は今その様な心中です。病は治るのですから、心を未来に向けなさい。自分自身を陰鬱にさせた禍根を打ち払うのです。」千鶴は窓傍に立ち空を見上げ、先ほどまでの青空に灰色の雲が覆い、風を感じ「驟雨が来そうですよ。」と呟き、「心を変えろと言う事でしょうか」咲は後ろ姿の千鶴のか細い声をかけた「変わる事では無く、心願を持つのです、咲」千鶴は咲に今の自分原点を今一度顧みて、此処から新たに始めるのです。貴女の今まで関わってきた諸書への恩に報いるためにも。「心願を私に」""""「持てと」風が一段と強くなり部屋の窓掛けが激しく揺れ、空一面暗雲が迫っていた。「生きていればこそ、出来ぬはずはありません。」 雷音が遠くで聞こえ、千鶴は窓を閉め「私は志野殿から教わりました。咲も同じでは。?」咲の考え込む様子に、優しい目をして「苦境の中から人の優しさを感じた咲だから出来る事は何ですか」と伺う顔を向けた千鶴に、「心願...」と唱え、突然、「ゴー」と雷の音の後「ザー」と大粒の雨が窓を叩き始め、優しい目の千鶴は不安げに叩きつける雨に向けると「咲の心境を察した涙雨です。」千鶴の声に咲は妄執にとらわれていた自分を払拭する様に姿勢を正し「教師になりとう御座います」と力強い声に千鶴は覚悟を感じ「驟雨過ぎ去りし後の青空を掴みなさい」咲の心願を射止めた顔は高揚していた。
(3)
人縁とは自分が友愛している時に添い、侮蔑し始めると離れていくものだ。咲は志野の言葉通り(人の上に己を置かず、下にて人の価値を見出す)を噛みしめ勉学をひけらかせずに全て受入れる覚悟をしていた。そんな咲に縁は吸寄せられる様に訪れた。有志館の臨時教師をしていたブラハムマシューから日本人をイギリスで学ばせたいと認めてあり、マシューは母国へ帰った後地元の大学で日本文学の学者となり、母国と日本との橋渡しになればと文末に書かれていた。有山はマシューの筆で書かれた達筆な文を読み千鶴に手渡すと、頭を撫で「マシューが日本人を呼びたいと申している。日本政府と母国政府との間で留学制度と称し、学費免除で渡航させる用意があるとも書いてある」と妻である千鶴に伺うと、「大変良いお話です。」と少し考え込む千鶴は突然手を叩き、名案と言いたげに「咲は如何でしょうか。まだ、若く此れからの人材です。イギリスで学び英語教師なる事も出来ます」と満足げに答えたが、浮かぬ顔をしている有山に千鶴は自分の思いつきと考えられては困ると「咲も外語に精通したいと云っておりました。」伺う目を有山に向け。有山はまた頭を撫で当惑する物腰で「千鶴、咲が悪いと云っているわけではない。海の向こうまで女子1人で行かせる事を思案している。日本でも外国人教師から学ぶ事で十分ではないか」と千鶴に意見し、襖の方へ目を移した。頷く千鶴ではあったが、云いだすと聞かない性格は有山も知っていて何を云うかと更に伺う顔をしていると「先生の云われる事は分かりますが、これは縁だと思いますマシュー様からの手紙を読み、私どもが考えたのは咲(さき)で、自然の摂理で御座います。更に、咲が呼び寄せた縁でもあると私は思いたいです。」哀願するような眼を有山に向けていた。心の中では千鶴に根負けしていたが、難しい顔をして黙っていると
「有山先生」と千鶴は追いたてる様な声に「分かった、良かろう。でも女子1人で行かせるには」浮かぬ顔に「私が行きましょうか、一緒に」笑う千鶴が答え、有山は苦虫を噛み潰した顔をして「当方からは一人と書いてある、其れに女子二人も同じことだ」と馬鹿げた事をと言いたげな顔に「先生の元は離れませんから、心配いりません。其れとも....」と訝しげに見る千鶴に有山は「諌める者が居らないのはまずい」厠と云い席を外した。千鶴は変わらぬ師(夫)の心に満たされていた。
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