第9話 義心と猜疑
(24)
志野は訝しげに相手を見て「それでは、祐之介様のお考えは」と探りを入れた。
その時、給仕がお茶を運び入れ、祐之介は一口飲むと「何を云えと」と呟き、志野は苛立ちを覚え「そこまで調べている方なら、今後の事もお考えのはず」と付き返すと、祐之介は苦笑し「貴女は私を信用しておりません。其れに、パートナーにもなってない相手に知恵を授けは致しません」と優しい物腰に、志野は「そなたは私を試しているのですか」と大きな声なり、遣り取りを伺っていた有山が、「志野、声が高い。冷静になれ」と説いた。
「志野殿は学舎をどうしたいとお考えですか」と冷静な祐之介の言葉に、志野は「勿論、続けとう御座います。」と低く答えると。「では、お答えしよう」と咳払いを一つし、その仕草に志野の蔑まれた心は爆発寸前で「お教え下さい」と押し殺した声を出した。
祐之介は口に手を当て少し考え込み志野殿、銀行はご存知か、財閥の事ですか志野の返答に祐之介は頷いた。明治五年国立銀行条例基づいて開設された国の金融機関である国立銀行と明治9年財閥により日本最初の民間銀行が開業していた。「率直に申してください」遠まわしに話をする祐之介に苛立ち、それに笑みを浮かべた祐之介はそれでは端的に申しますと話始めた。
「まずは、今資金を受けている大店からは手を引かせます。其れには財閥から融資を受け、返します。そして、授業料の値上げを行い、多くの女子に入学してもらうようにする、其れには今の場所から移す事も考えないといけません。」と淡々と話す祐之介に志野は
「遊郭に隣接しては不味いと云われますか。今の学徒達はどうなります。値上げを行えば来られない者も出るでしょう」と寂しげな声に、「志野殿、今すぐではありません、先々徐々に上げて行けば良いのです。其れに遊郭の近くに誰が自分の大切な子を学ばせたいと思われますか。私は学問には場所も大事と考えます。」
更に「女子学館特有な所は、学問は元より着付け、お花、作法等多岐に学ぶ事が出来る事です。この様な学び舎は他にはありません」志野は祐之介が良く調べている事に感服し、それ故に話している内容に真実味を感じて、話を聞き洩らさぬよう何時しか真剣な眼差しを向けていた。
話のあと食事となり祐之介は優しい口調で冗談を交えながら会話を進める器量に蔑まれた心は溶け始め、終わる頃には祐之介と言う人物を更に知りたいと思うようになっていた。
店を出た志野は有山から「志野、祐之介君に任せてみてはどうか。彼ならそなたの役に立つと思うが」と云い、志野は「考えは少々違いますが、頼もしい方です」と俯く志野を有山は見逃さず「志野、彼に別な感情があるのか」と問いかけ、「別にありませぬ。」と頬を赤くし、当たる秋風を志野は何故か熱く感じていた。
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ゴーゴーと冷たい風が二階の窓ガラスを揺らしていた。裕之介は二階教務室隣の部屋で手紙を認めたていた手を止め冬嵐に不安そうに眼を移し、扉を叩く音と共に志野が部屋へ入ってきた。最初に会ってから二か月が経ち今は女子学館に財務課を新設し、志野が招き入れた。
財務課と云っても今は裕之介一人で其れでも志野に取っては教育に専念出来る事に期待感を持っていた。
栗色のドレスを着た志野を見て「志野殿、今日もお綺麗です」手紙を折り畳み封筒へ入れ笑みを向け。
「裕之介殿、何を遊郭の店主に云ったのです」強い風が不規則に窓を叩く音が部屋に響き裕之介は眼を遣ると「自分の考えを申しただけです」と柔らかく答えた。志野は常に冷静にする裕之介が未だに好きになれず(この男は常に何を考えているのだろう、先が読めない相手に苛立ちを思え、一言、一言が槍の様に志野に刺り翻弄される自分が嫌でしょうがなく、何故だろうと考え倦ねていた)机の前に立ち「皆、怪訝な顔をしてなぜあの様な男を招き入れたと質問攻めに会い、今後学館への見方も変わると申しておりましたが」と強めな口調に、裕之介は窓越しに立つと冬嵐を眺め「嵐は晩には上がりましょう、続かぬものです」と呟いた。
他人事の様な声に志野は「裕之介殿は何をお考えで」と聞き、「では、なぜ私を招き入れたのですか」と裕之介は志野に視線を向け訊き返した。志野の戸惑う顔に「学館の発展のためではないでしょうか?」と説き志野は黙って頷づき返すと、「志野殿へ申した事を遣っているだけ、特別な事はなにもしておりません。其れに、相手の出方も知りたいと考えまして。」鋭い目 に「何を知りたいと」と聞くだけで解らない自分に志野は腹が立っていた。
裕之介は志野に近づき「策を講じるには、先ず相手の事を知ることが肝要」と云い「店主が今後の学館の先行きを考えてはいない事が分かり申した」と付け加えた。
裕之介は赴任してからは学館に関わる全ての所へ出向き、相手の素行、器量、学館への考え方等を聞き、自分の学館の有り方に付いて話して回っていた。
志野は「其れで、何が分かりましたか」と聞き、裕之介は口に手を当て考え込むと「彼らは学館の将来など考えてはおりません。遊女へ読み書きと、着付け、作法などを学ばせれば商売の役に立つと思っているだけです。必要なくなれば、知らずと申す者もおりました。自分が思った通りとなりましたが」と口調は依然柔らかく、その含みがある声に「女子達のためになれば其れで良い」と志野は返答すると。
裕之介は初めて声を荒げ「ならば、一人で遣りなさい。人を巻き込まぬ事です」吐き捨て、驚く志野に「学館は貴方一人で運営しているわけではありません、教師、用務、そして財務、ここに関わる全ての人に、志野殿は責任があるのです。」と云い放した。その権幕に自分が今まで(人の役に立てば)と考え開いた学館に責任の重さを感じ、裕之介は、「私にもです」と自分を指し答え「自分の熱意だけでは如何にもならない事があります、人に頼り、人を動かし、そして先を見据える。」私の好きな言葉ですと笑みを浮かべた。
裕之介はまた穏やかな声に変わり「そのために私は尽くします。其れで宜しいでしょうか。」と一点を見据え黙る志野に問質した。志野は裕之介に眼を移し「お願いします」とだけしか云えず辞去し廊下を歩く志野は留めのない挫折感と裕之介への期待感が交じり合い改めて裕之介が云った(責任)と云う言葉を噛みしめていた。
(26)
肌を刺す冬月に照らされた枯木の影に泰三は凍える手を摩り暖簾を潜った。(しの)の笑顔に迎えられ席に着くと、お雑煮をくれと泰三は(しの)に目配せをし、(しの)は廻りを伺いながら机の上に小さく折った紙を置き奥へと消えた。泰造はその紙を懐へ入れたが、直ぐに出すと紙を開き読み手を当てた顔の隙間から遠目に(しの)を見ては、笑みが全体に広がるのを押さえていた。(しの)と泰造は心が通じ合う仲になっていた。
格子戸の開ける音に泰造は眼を向けると、丁度、祐之介が店に入り辺りを見渡す姿に泰造は悟られまいと真剣な眼差しをすると此方に近づいて来た。
「祐之介殿、寒い中この様な場所へ来て頂き恐縮です。」云う泰造に祐之介は黙って座ると「泰三殿、甘味処ですか此処は?」と落着いた声に、「酒は御座らぬが、冬は雑煮と焼だんごが旨い、特に団子の上の焼いた小豆が絶品だ」と満面の笑みを浮かべ、(其れを頂こう)と言う祐之介に泰造は声を掛け、(しの)に「作り手が良いので、なんでも旨いが」と目配せをし、(しの)は「泰三さんが来てくれるから張合いがあります」と顔を赤らめた。
その光景を見ていた祐之介は眉を潜め「何様で御座います」と泰造を伺い。泰造は「そうであった」来ている着物の袖を直し「志野の事だ、聞きたいのは」と直視し、顔を前に出すと、「貴殿と志野は何かと論争を交えているそうだが、仲が悪いのか」と唐突に聞く泰三に、「仕事上では色々協議は致します。泰造様の云う論争の意味が分かりかねます」と伺う様な眼に泰造は一瞬躊躇し、「拙者が言いたいのは、お主が来てからと言うもの志野が愚痴を言うようになって。今まで愚痴など言わぬ女子であったが、其れに最近は貴殿の言ばかし云う。」と一瞬視線を(しの)に向け、祐之介は苦笑し「私と志野殿は運命共同体とでも申しますか」と口にすると泰三はにやりと笑い「もうその様な仲であったか」と腕組みをした。
何か違う事を感じた祐之介は「泰三様、勘違いをしています。共同体とは共に学館発展のために議論し、歩調を合わせながら進むとの意味で、私と志野殿は仕事上の対で御座ります。人は其々価値観が違う物、故に考え方が違って当然で志野殿の思案された事と私の思案する事を煉合せ、最善な方法を見出す。」と口に手を当てた。
考えが浅はかな自分を恥じ黙っている泰三に(しの)が雑煮と焼団子を運び、立つ湯気に目を遣り「然し、志野は今まで貴殿のような男に会ったことが無いと申していたが、わしも貴殿は威圧的で好かぬ」とつい口にした発言に横を向くと、「それで良いのです。私の役目と思っております。志野殿は学問を中から教え子の心に芯華を咲かせ育てて頂き、私くしは裏方として支える。最初お会いした時から志野殿の教育への愛情、志に感慨を受け、共に邁進しようと思いました、今でも其れは変わりません。私は妄言を吐く人間かもしれません、然し、全て一つの志の為にしている事。」
泰造は心芯の太い祐之介に揺れ動く自分に、「祐之介殿も志野様同様に真直ぐな方なのですね」と何時しか横で(しの)が尊い目を向けているのに気付き、一つ咳払いをすると(しの)会釈をして奥へ外した。
また咳払いをし、祐之介に「志野は皆に好かれ真直ぐに此処まで来ております。私は本当の兄の様に志野を行く末を考えており、師である有山も同じです。確かに貴殿が来てから志野は変わりました、其れも時世かもしれません。学館が今の志野に取っては子の様な者で、共に発展させると申される貴殿にお任せしましょう。但し、志野を誑かした時には私が許さぬ」と泰造は何時にもなく真面目な声をした。
祐之介は相変わらずの平穏な顔に「お任せください。」と云うと席を立ち泰三に会釈をすると「志野殿は太陽、私は月で御座りますれば」と笑みを浮かべ立去った。泰造は一筋の光を感じて「あいつ、団子食わずに帰りおって」団子と冷えた雑煮を見ながら苦笑した。
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