第7話 逢瀬と女子学館
(18)
根津神舎に隣接している一軒家の二階に志野は居を移した。借家ではあったが、窓からは神舎の脇にある大木の木漏れ日が差し込み、窓枠に腰かけ欄干に添えた手に春の風が優しく纏わり付き、下では行商の通る声がしていた。志野は三十過ぎになろうとしていた。
志野が有山の元から此処へ移るには幾つかの訳があり、女子として忙しく家内の事をする千鶴に同じ女子として遠慮し始めた事と泰三への配慮があった。 志野は(自分も女子だが、千鶴の様は家庭的で、学問一筋に生きている自分との違和感からで) その違和感は増幅していった。志野は何時しか自分も女子である事に気付き始め、其れは泰三の相談事で始まり、「志野、志野」と泰三の声と慌ただしく床を走る音に、部屋で教材の思案をしている志野は筆を止めた。勢いよく開いた襖戸と同じくして泰三は志野の横へ座ると。
「志野、書き物をしている場合ではないぞ。」
「学舎の教材を作っておりました。と泰三に体を向け答えた。
「志野相談したき事がある、女子の気持ちを聞きたい」
声は荒く一点を見付、額には汗が噴出し始めていた。
「どんな事でしょうか。」と当惑して聞く志野に泰三は両手を合わせ深呼吸すると
「わしは恋をしまったかも知れぬ。胸が張り裂ける思いだ」と茫然した顔に
志野は笑みを浮かべ「泰三様が恋ですか」と呟くと「何が可笑しい志野、」と不機嫌な顔に「何処の方でしょうか、お名前は」云うと泰三は少し思案した様子で「通りの角に甘味処があるだろう、新しく女中が入ったのは覚えておるか。」志野は「私も良く行きますが、細身の方でしょうか。歳は」と言いかけると泰三が「27だ、名前は(しの)」と答え溜息を吐くと「わしは(しの)に恋をした」と云った。
「しの…」と答えると泰三は「志野違いだ、ひらがなで(しの)と書く。その方では無い。」と言い捨てた。志野は憮然とした顔になり「当たり前で御座います。」泰三は悪いこと云った子供の様な顔をしていた。
泰三の話では食堂で(しの)と云う娘と話すようになり勝気な性格で良く喋り、細身であるが良く食べる事が気に入ったと云い、先日同席にて根津の肉鍋を一緒に食べた時に泰三さんは好みであると云われ、どう答えれば良いのかと苦慮していると云った。志野は「泰三様は・・」と聞き、泰三は頭を掻き「志野に云うのは憚れるが、(しの)を好いておる、志野では無い(しの)だ。然し・・・」と腕を組み付け加えた。
言葉の遣り取りに二人はお互いに笑い、「わしは本気だ」と泰三は急に真面目な顔をして「どう答えれば良い」と身を乗り出し「好きならば、好きと云えば良いと思います」と志野は答えたが、泰三は不服そうに「そなたは、本当に真直な性格だ。其れが言えれば相談はせぬ」と呆れた顔をした。それ以外の言葉が見つからない自分に志野自身が当惑していた。
「そちに相談したのが間違えであった。学問なら兎も角恋事は」と項垂れる泰三に志野は「それなら、千鶴様にご相談なさっては如何で」と女子心を傷付けた事に強く口調になり机に向き直し筆を取った。
「志野も女子であろう、恋心は有るだろう。其れとも恋をした事が無いのか」と云い「そのような事はありません。」と嘘を付く自分に志野は呆れていた。(なぜ、嘘を付くと自分に説いていた)
項垂れ「千鶴殿に訊く」云い席を立とうする泰三に志野は筆を止め「昔千鶴様が私に云った言葉があります。」泰三は興味有りげに「何を云うた」との声に志野は「恋とは紙が燃上る様な物、時を逃すと一瞬にして消えてしまう。」泰三が腕組みの儘、考え込み「時を逃がすなと云う事か」と頷くと「恋をしろ志野
、恋は良いぞ」と云い残し辞去し。志野は泰三兄様の心に優しさ感じと共に、(恋は良いぞ)言葉が頭の中を巡っていた。
(19)
志野は女子学館の運営の事を有山に相談すべく有志館を訪ねた。廊下を進むと大広間の隅で泰造に千鶴が何やら話をしている光景に目が留まり、銀杏の木で泣き叫ぶ蝉の鳴き声に何を言っているかは聞こえず、泰造がちらりと志野を見ては千鶴の話に頷く様子を(しの)事だと悟った。
「何故(しの)さんが距離を置いていると思われるのですか。毎日のように店には顔を出して話していると楽しそうに云っていたでしょう」と千鶴は訊いていた。
泰造は腕組みをして「会って三か月程ですが、最初は(しの)も拙者も夢中に話し笑いが絶えず、楽しい日々だと感じておりました。然し、最近話す事も少なくなり店では普通なのですが、表で会うと距離を(しの)に感じてしまい、其れを払拭すべく何か話さねばと焦る気持ちに言葉が出ず、自然と無言になってしまう。」 と不思議そうな顔に千鶴は溜息を漏らし、「泰三さんは(しの)さんが本当に好きなのですね」と笑みを返すと、「そう思われますか」と泰造も溜息をした。
「恋の魔物に取付かれているようです」泰三の心を千鶴はこう表現し、「魔物とは何者で」と泰造が聞き返すと「人ではありません、自分の心に住む病の様な物です」予想も付かぬ千鶴の言葉に「私は病ですか。診療所へ向かえと」真剣な顔付きに「少し、冷静になってください」と笑いながら答え、「真剣に相談しているのです」と泰造は顔に手を当てた。
千鶴は咳払いをして「私も真剣です、気持ちを十分理解しております。私もそうでしたから」優しい顔に「同じ病気に関われたと」と安堵した表情した泰造に「茶化すのははやめましょう」と笑顔を向けた。
何かを思う様な眼をして千鶴はこう云いはじめた「恋の始まりは自分の事を伝えたい相手を知りたいと自然と表情に現れ、言葉が出るものです、其れは好かれたいと思うからこその事。然し、相手を思う気持ちが強くなれば成る程、嫌われたくないと勝手に解釈して、自分の心を飾ってみたり、相手の思いを探ってみたりと、色々巡らせる様になり、気持ちが掴めず離れ、疲れ、故に疎ましく思いはじめます。此れが、魔物の正体です。」 泰三は頷きながら聞き入り「魔物の正体は己の悋気(嫉妬)であると」千鶴は黙って頷き「そのとも申します、全てとは言えませんが」と云うとまた喋り続けた。
「有山も私に悋気していたと正直に申しました、当たり前で御座います。尤も有山先生は理性の高いお方ですから、私の心情を察して下さいました。」と遠い目をしている千鶴に泰造は「妙薬はありませんか」と伺う顔をした。
千鶴は考えると「初心を忘れべからず」と言い放し「泰造殿が変わられ、(しの)さんも変わられたと思う事です。女子は色々な事を肌で受け感じます、好きな男を厭うもの、嫌な人と一緒にはおらぬもの」とまた咳払いをし「思案することはせず、自然体で接すれば良いのです。泰造殿も(しの)さんを厭うて下さい。そうすれば、時が自ずと結果を出す筈です。」と纏めかの如く息を吐いた。
神妙な顔を付きの泰造は「己の魔物は心の自然体で打ち負かせと、飾ることはせずに」と頷き「千鶴様は色々知っておられる」と感服する様子に「思いが強いだけです」と笑顔を向けていた。
「志野に聞かせてあげたい」と云う泰造に千鶴は首を振り「先ずは、自分を変えて下さい」と答え、二人の笑い声が学び舎に響いた。
(20)
有山と相対し座り沈鬱な面持ちの志野に有山は「難儀な事だ」と頭を撫で。「学館の運営は順調に行っておりますが、教える側に問題が御座います。」と返した。
中央集権的だった学制に取って代わり、教育の権限を大幅に地方にゆだね、地方の自由にまかせた教育令は「自由教育令」と呼ばれるようになった。第一次教育令が明治12年に公布され、第二次教育令が続けて明治13年に公布された。
小学校、師範学校、中学校、専門学校と門は開かれていたが、教える側の教師が教育に対する考え方に統一性が無く、その上、学館の運営面は経営力が必要で志野は苦慮していた。
「学館の運営と教育とは全く真逆な事だ、志野は今も昼夜を問わず良くやっている。経営とは利益を上げ還元する事を勤しみ、教育とは人に価値を知らしめ伸ばす事だ。 わしの様な少数の学び舎とは比べ物にならない位に大きくなり、全て志野が取り纏めるでは苦労が絶えないであろう。」と堪える志野の心を憂いていた。
その時、大きな声が沈黙する二人に聞こえ、其れは泰造と千鶴の笑い声で「楽しそうに何を話している」と有山が呟いた。志野は「先生、楽しそうに学ぶ生徒に応えなければなりません。今学んでいる生徒は今しかないのですから」と心願な面持ちに有山は伸びた髭を触り、「今学ばねば、何時学ぶか」と考え込み「それでは志野、妙案とは言えないが一つ考えている事がある」と答えた。
志野は「先生お教えください」と間を詰めると有山は真顔で「運営と教育を分割するのだ」と答え、「つまり、同じ志を持つ人物と歩調を取り、共同で学館を進めていく事は如何だ」と伺うように志野を見詰めた。
「それは、師で御座いますか。」と嬉しそうに有山を見たが、「わしでは無い。そのような裁量も無ければ、知恵も無い。わしは千鶴と楽しく暮らせればそれで良いと考えている。」と恥ずかしげに頭を撫で、「其れに有志館は泰三に任せようと思うておる」と口にした。
志野は「泰三兄様ですか」と不思議な顔をすると、「泰三は出来が良いとは云えないが、弟子への優しさと信頼が厚い。尤も、不器用な点も備えているが」と苦笑し。志野は有山が弟子の器量を見極め先々考えている事に師の温かみを改めて感じ、心の中で(泰三兄様なら大丈夫。落着きは無く早合点な所はあるが、なにより心が優しい)思っていると有山の言葉で我に返った。
「有志館の話は別にして、今はその方の事だ。」と顔を覗込み「当てはあるのでしょうか」問いに考え深げな有山は「男が一人おる。数字に強く包容力もある。運営とは何より冷静である事が肝要で、適切な人物とわしは思う」と満足げ顔をして「会えますか」と即答する志野に「手配しよう」と有山は答えた。師としてではなく、同じ志を持つ人物との出会である。
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